初戀の效用

朝尾羯羊

本稿

 問題は六年前の震災だつた。とう和田わだ信濃しなのはあの日、震災関連死で父を喪つて以来、自意識ながらに見えない断層がそこに幾條いくつか縦に走り、自分でも何がしたくてここに或いはそこにいるのか分からないことが多く、何か得も言われぬ無意識の指嗾に追いまくられているような気味があつた。彼が小学四年生の頃の記憶は、周囲の人間関係についてことさら曖昧さを極めていた。少なくとも、おぼろげな輪郭で彼の記憶のなかを動き回る人物が二人いた。六年前のあの日の記憶である。

 信濃とその家族は、その日もやはりいいたて村の山峡にひろびろとあつた生家の田舎屋敷にいた。杉林を疎雜ざッとなぞえに切り拓いた小高い丘の上にあり、これと云つて目を惹く景物もない代わりにむやみと見霽みはらしが佳かつた。ログハウス風の広壮な総二階家であり、屋根は鈍角に交わる二等辺三角形を示している。一町四方に家はなし、やさしくくすんだ浅葱色で統一された家の衣裳いしょうは、には青空の控えめな反映のように、雨の日には晴天の蒼さの残滓なごりのように、濃い緑の氾濫のさなかに一点団欒だんらんの温かみのようなものを湛えていた。

 蜿蜒えんえんと続くかに見える灰色の山道が、欄干てすりのついた、この家の玄関階段アプローチとじかに接して、右から左へ、また深いすぎむらの暗がりへと吸い込まれてゆくさまが見える。木の間を透かして、ガードレールが、わずかに白い軌道で山の斜面に道の続いていることを教えてくれる。

 南向きに開かれた露台テラスを前に、広庭ひろにわを控え、花壇がそこここに切られている。庭は一面の芝生である。背戸には畑があり、鶏舎もあつた。山道を挟んで、向こう側には桃畑が広がつていた。

 老杉ろうさんは緑の滝のなだれ落ちるがごとくたてに、うずたかい針葉の蔭から、ひょろりと白い幹を雨脚のように引いてこの山墅さんしょ背後うしろをぐるりと降り籠めてしまつている。鳥の声も、せせらぎも、伐木の音もすべて櫛比しつぴする杉の枯淡な柾目まさめんで、角がとれ、河床かわどこに沈みゆく丸石のようにしずけさの底へと溶け合わさり、山墅のめぐりだけを四辺あたりから隔絶させていた。鋭いばねのような響きをおさめ、音はこのところに降りうずむのであつた。

 ぐずついたあやしい天気の午后だつた。一面の雲は鉛色をふくんで今だに潸々はらはらと泣き出しそうだつた。灰色の雲のところどころは、雨よりも黒く、綿に含ませた、ぼくえきをそこからぽとぽとしたたらさんばかりに黒ずんでいた。

 信濃は玄関ポーチのひさしはずれに、仰いだ空の、音を泣かぬとの嬰児あかごのような渋面とにらめっこをしていた。余寒は厳しくない。雪ではなく雨が降るくらいだ。桃の花はすでにつぼみがかつていた。ただ、目の前の道をもう少し登つてゆくと、やはりまだ雪が残つていた。最初それは草生くさふのうえに気休めに撒かれた除草剤のようにしか見えない。おちこちでまだ朽ちない落葉がこの白い地衣こけを押し上げて、底にに黒い地肌を透かしている。ようやく泥まじりに、薄汚れた大根おろしのようなつかが道の両端に築かれるにおよんで、はじめて雪と映るのである。信濃はややひさしくが来るのを待つていた。春休みである。

 その子はいつも自転車を引いて歩いて、向こうの杉の隧道トンネルから姿をあらわすのだつた。帰りに勢いよく坂道を下りたさに、えっちらおっちら、自転車のハンドルに手を縋つて懸命に上り坂を登攀するのだつた。小暗おぐらい下蔭に白い吐息をもらして自分のもとへと急ぐその子を、回想のなかの信濃は微妙に混濁した意識で待つた。その子が自分を好きだと云うことはわかる。あながち帰りの滑走を唯一のたのしみにしてこんなきつい勾配を登つて来るのではない。その先に自分がいるからだ。そして山の高所に佇んでいる自分の目線の高さまで歩み登つて来る好意に対して、本意ほいなげに、面倒くさそうに身を斜めにして、雨な降りそと祈つていた。その好意に報いてはならないと自分に言い聞かせながら、思わず戸外に出て待っている自分だつた。信濃には思い人が別にあつた。

 だがこの思い人も、待ち人のその子の比ではないが輪郭がはっきりしなかつた。これがその二人目である。思い人はいつも前髪をごっそり、片側のピンで留め、頭のてっぺんまでとどきそうな白いおでこを卵のように光らせていた。広いおでこを支えるには、薄い眉はずいぶんと頼りなげである。それが産毛のように、いつもしっとりと濡れている。口元には黒子がある。木目込みのひな人形のようにちんと澄ましていつも膝を畏まらせている。

 彼女はある夏の日の光景を背負つて、端座していた。田舎屋敷は北向きの畑に面して濡縁ぬれえんが横に浅く、縁側があり、紙門ふすまでしきつて、奥に十二畳の和室があつた。

 彼女は正座の膝を崩さず、せっせと繕い物の針を動かしている。彼女のしずかな首筋に夏雲が屋根越しに白く飛びまつわつている。父は床柱を背に、頭を掻いている。信濃は座卓を間にして彼女の姿に見惚れていた。

「信濃。こういう子を嫁さんに貰わんといかんぞ」

 横合いから照れ臭そうに父が云つた。繕い物とはボタンの外れかかつていた父の着古しのシャツである。今し出掛けようとする父の綻んだ袖口を見るに見かねて、彼女が申し出たのだつた。

 糸切歯が白く光つて、ぷつんと糸の切れる音。

「はい、どうぞ」

 そのかすかな声音には不思議なもどかしさがあつた。信濃は頭が茫乎ぼおッとして来る。

「いやあ、ありがとう。これは感心なお嬢さんだ」

 このお世辞はどちらかと云うと不器用な信濃の母を、その場にいない母をちょっと調戯からかうつもりで云われた言葉だつた。彼女の輪郭はそれでも曖昧なまま、白い卵の上に困惑そうなそうの眉が顰められているだけである。それだけに、隣にいた父の印象の明瞭さが―――その口元に蓄えられた髯の濃さが画面のなかに際立つていた。

 とまれ思い人とは、亡くなつた父が何の気なしに彼に与えた暗示であつた。

 父に云われたからその子を好きになつた。あやふやなゆえに明快な根拠を明快なゆえにあやふやな根拠とすり替えたこんな好意の持ち方は、単なる彼の自己欺瞞であつたのだろうか。ところが信濃にあつてはそれが実際だつた。むしろそれ以外に、彼が人を好きになる方法はなかつたのかも知れない。あやふやなゆえに明快な根拠―――訳もなくその子に惹きつけられる心の動きよりも、彼はその子を好きになることの必然性の方を愛していた。つまりはその子よりも、必然性の方を愛していた。父の暗示が、その子を好きになる充分な根拠を与えた。

 れば、雨雲をじかに戴いている。

 頭上をまあるく切り取つた杉は木下このしたやみを深うして、の天色を透かさない。天心てんしんほど厚く、ふちかけて漸く急に、空はそこにひとつの穹窿きゅうりゅう形をなして、雨を湛えたその底を今にも覆しそうに見える。雨に降られるのを心配してこうして待つていることを悟られたくない信濃は、ではその前に雨を降らせて了えばいいのではと考えた。男持ちの大きな如雨露じょうろを持ち出して、花壇に水をやることにした。こうすれば、雨などまるで念頭にない事をそれとなく知らしめることができる。生憎とこの時期、ビオラの紫と黄がこちごちに小さく花發はなひらいているきりで、多く暗色の株が土を被つて、捨てられた大根の菜のように潮垂しおたれて見えるくらいである。深く考えもせず、水汲み場の格子の上に如雨露を置いた。

 蛇口を捻ると、滑りの良すぎるハンドルは横に辷つて、多量の水をこぼす。まず取っ手にせかれて繁吹を散らし、信濃の洋服の裾を濡らした。彼はだがそれにしばらく気づかず、上の空で、如雨露をしたたか打ち据える水のごうごうと云う響を、その滝つぼのような水泡みなわたぎちを、大虚おおぞらに聞きなしていた。

 その子とおぼしき人影がさすと、風景がそれに呼応した。俯いていた信濃の足もとから不図ふと、緑は明るさをますかに見えた。振り返ると、彼女は赤手てぶらである。髪を振り乱して一散に駆けて来る。自転車を投げ出してからずいぶんな距離を来たのでなければ、あれほどの息切れはしない筈だ。

 信濃は水遣りの演技も忘れて彼女を迎えた。真下にすとんと落とした発奮はずみにどぼんと水が動搖どよめいて、如雨露が横倒しになつた。彼女のは、背後でお化けのように蠢いている杉の葉翳ようえいに引きかえ、かぎりなく小さい。隧道の出口にやッとこぎつけたかと思うと、山道がさかさに手繰り込まれ、咽喉のどの奥、暗い胃の腑へと、彼女を呑み込んで了いそうに見える。

 泳いでいるその手を取つてやろうと思つて、躊躇ためらつた。溺れかけながら、彼女はめしいた人のように手を伸ばして危うく信濃の袖に捉まつた。須臾しばらくは口がきけなかつた。

「どうしたの✕✕✕。今日は自転車は?……なんか怖いものでも見たの?」

 一時いっしが間は足腰が立たなくなつたように、つかんだ袖口に全体重を預けていた。

 雷がひッきりなしに轟いて自分を追つて来たのだ、と彼女は絶え絶えな呼吸いきの下に訴えた。背中をさする手を控え、彼は袖がぐいぐい引ッ張られるに任せていた。さもあらんとは思つたが、信濃自身、それらしい雷電を見もし聞きもしていなかつた。

「ほんとうに、雷だったの? 僕はそんな音、まだ聞かないけど」

「わかんない……でもずッと鳴ってるの、今だって、ほら……」

 つられて耳を澄まして見たが、彼女の苦しげなみだれた呼吸のほか、何物も聞こえなかつた。

「まだ、鳴ってる?」

「うん。なんか太鼓の音みたいな、殷々ごろごろ々々……地面に伝わって、底ぎみ悪く鳴ってるの」

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