第8話 知られたくない秘密

 男性用の香油に微かに混じった汗の匂い。肩に回った同性とは全く違う筋張った腕の感触。頬に当たる分厚く硬い男らしい胸板。


 普通の女性にとっては、うっとりするようなシチュエーションかもしれない。

 しかし、レイリアにとっては拷問以外の何ものでもなかった。


 もう限界!

 吐きそう!


 魔狼にも苦手なゴキブリそっくり魔虫にもなんとか耐えきったレイリア。

 彼女はいわゆる令嬢たちのあこがれのまと的な副団長に抱きしめられて、激しく動揺していた。いや、全身に鳥肌を立て、パニックを起こしていた。


 ごく近い身内しか知らない『彼女が苦手とするもの』。


 まずはゴキブリ類。世の女性の多くと同様に。

 職場である離宮や修練所でゴキブリに出くわすことはめったにない。

 料理長が超きれい好きなため、離宮の調理場には、あの黒光りする生きものは生息していない。自宅で遭遇した場合は、アンジェに任せて退散する。


 それでも、ゴキブリ退治が任務となれば、意志の力を総動員してなんとか始末する。いや、やってみせる。平気な顔を装って。


 が、成人男性は無理。特にいわゆる男らしいタイプは鬼門だ。


 氷雪の麗人と称される、その剣技で異例の出世を遂げた若き女騎士レイリア・ローム。

 彼女は、実のところ、ひどい男性恐怖症だった。

 男性との5分以上の身体的接触には耐えられない。たとえ、性的な意味が全然なくても。

 そう、吐く。文字通り。


 剣を交わすだけならば問題はない。戦っている時は、相手は単なる標的、倒すべき敵であり、男として意識することはない。けれど、こんなふうに密に身体が接触すると・・・。


(どうしよう。寒気がする。眩暈までしてきた。むかむかする)


 どうしても、あの時の恐怖が、感覚が蘇る。

 

 この騎士として致命的な欠陥を隠すため、ことさら部下や同僚と距離を取り、冷徹な女騎士を演じてきたのに。


(エクセル副団長は、ただ私を守ろうとしてくれているだけ。落ち着け、落ち着くのよ、レイリア)


 心の中で必死に自分に言い聞かせてみる。が、身体は硬直して言うことをきかない。胃から酸っぱいものが上がってくる。


 レイリアは口元を両手でグッと抑えて耐えた。



*  *  *  *  *



 近づきつつある魔虫を目にして、エドワードは咄嗟に自分の身体を盾にして女騎士の身体を庇った。

 

今回の任務を請け負ったのは自分だ。王室騎士団としての使命を果たすためなら、いつでも命を捧げる覚悟はある。

 だが、彼女は違う。一般人ではないが、王命に殉ずるべき騎士団の一員ではない。明らかにオフなのに、騒ぎを聞きつけて助太刀に来てくれただけだ。


 そう、彼女は休暇中にもかかわらず、真っ先に駆けつけてくれた。

 騎士としての矜持からだとしても、なかなかできることではない。見たこともない奇怪な獣、凶暴な魔獣の群れを相手にするなんて。


 私服姿でも、一目でわかった。

 なにせ、先日の立ち合いでの彼女の姿はまだ目に焼き付いている。


 無駄のない剣捌きに驚くべきスピード。


 彼女の剣は魅力的だった。ぜひ、手合わせをしてみたい、個人的に話してみたいと思わせるほどに。

 彼女ほどの手練れが助けに来てくれて、正直助かったと思った。

まさか、魔狼以上の化け物が大量に襲ってくるとは予想だにしなかったから。


 触れてみてわかった。彼女の身体が思っていたよりもずっと華奢だということが。

 数分前に目にした、悪夢としか言いようがない悲惨な死にざまが脳裏を過った。

 あの魔虫の唾液は、屈強な騎士でさえ瞬殺する。

 この美しい騎士をあんな目には合わせたくはなかった。だから、その身体をしっかりと抱きしめて目を瞑った。


 副団長!

 誰かが叫んだ。


 ぶわっ!

 辺り一面に広がる熱気。

 反射的に見上げた空は、深紅に染まっていた。


 そして、赤い空に悠然と浮かぶ、その炎より赤い影。


(なんだ、あれは?炎でできた獣・・・まるで、あれは…獅子か?)


 真っ赤なたてがみを揺らして、炎の塊が吠えた。その口から吐き出された火炎が空を緋色に染めて黒い『円』を塗りつぶした。


 湧き出てくるゴキブリたちが一瞬にして炎のかいなに囚われた。その透明な羽が、黒く光る胴が、瞬く間に燃え上がる。苦し気に声なき悲鳴を上げる口吻が、蠢く触角が燃え落ちた。


 身体中から黒煙を上げ、苦痛にギザギザした足を蠢かせながら、落下していく魔虫たちを、エドワードは呆然と見つめた。


 シューシュー

 落下する虫たちを受け止めるのは、キラキラ煌めく凍気の粒。

 粒に触れ、たちまち氷塊と化した魔虫らは地で砕け散っていく。


 凍りついた大気の中心に佇むのは真っ白い獣。

 白銀に光るその輪郭は、エドワードには、まるで異国に棲むと言う豹のように見えた。


 一瞬ののち。

 炎の獅子と白銀の豹の姿はかき消えた。

 騎士たちをあんなに苦しめた魔物をいともたやすく一掃して。


 男たちはただ茫然と立ち尽くしていた。

 お互いの顔を見合わせ、何か言おうとして、この悪夢をどう例えるべきか、思いつかずに黙り込んだ。


 形容しがたい腐臭にも似た異臭がただよい、魔狼の屍とゴキブリまがいの魔虫の成れの果ての氷片が散らばった公園で。


 今や燃え尽きて消え失せた『円』があった真下あたり。そこに残っていたのは、真っ白なざらざらした大量の灰。その灰に混じって、焼き焦げた羊皮紙の紙片と溶けて塊になった金属片がのぞいていた。


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