第17話

(残念だな、みそらちゃんにも来てほしかったのに)

(一緒に行けたらきっと楽しかったのに)

(でも、しょう君だけでもうれしい)

(ずっといっしょに遊ぼうね)

 足元がふわふわとしていて、まるで柔らかいベッドの上みたいに心もとない感触のまま、手を引かれて歩いていた。誰かがうきうきとしゃべっているのが、温かい水の中で聞くみたいにぼんやりと耳に届く。

 右手は小さく柔らかい子供の手を感じる。子供の手は少し冷たかった。

(もうすぐだからね。そしたら、ずっと一緒だよ)


 ――僕はどこに向かって歩いているんだろう。さっきまで、美天が近くにいたと思ったんだけれど。

 そう思って周囲を見回すと、陽炎みたいなもやがかかった住宅街の道を歩いている。

 でも、見上げる塀はずいぶんと高い。まるで僕が縮んだみたいな低い視点で、ぼんやりとした違和感を覚えたけれど(縮んだってどういうことだろう)、その違和感を掴めない。

 視線を前に戻すと、手を引く小さな後ろ姿に見覚えがあった。


「悠……?」

 振り向いた悠は、にっこりと笑う。


(もうすぐ着くよ)


「着くって、どこに……?」

(わたしが居るところ。しょう君とずっと遊びたかったんだ)


(今住んでいるのは新しい三角のおうち)


(何にもない)(……さみしい)(……くらい)


(まえは出られなかった)(……でもおねえさんのおかげで出られるの)


(本当はみそらちゃんも呼ぶつもりだったんだけどダメだった)


 悠の言っていることの意味がよくわからなかった。何だか前後の言葉も繋がっていないような、再生装置が壊れたみたいな言葉の羅列だった。


 ふと、自分の中に、強烈な拒否感が生まれて足が止まった。悠と手が離れて数歩間隔が開く。


(どうしたの?)


 悠が振り向いて微笑みながら訊いてきた。

 目の前の小さな姿を見つめる。その姿を見ているだけで、すごく悲しい気持ちが湧いてきて戸惑う。

 すると、左手の辺りから何かが聞こえてきた。初めは微かな音だったのが、次第に電話の着信音なのだとわかる。

 僕は左手に何か平たい固い物を持っている。


(……うるさいね)


 悠が首をかしげて微笑む。

 僕は左手にある物をどうにかしたいと思うのに、頭が混乱して動かすことができなかった。

「……誰かが、僕に、電話を掛けてきてる」


(そんなことないよ。それはいらない物だよ)


 悠は、にっこり笑っているのに、次第にその目元が不穏な色を帯びてきた。鳴り続ける着信音にイライラしているのがわかる。


(その手の中の物を離して)


 悠が命令すると、僕の意思とは関係なく左手が開く。足元に固い物が落下する音が聞こえる。着信音は、水の中に入ったみたいに聞こえづらくなった。


(行こう)

 再び歩き出す悠に逆らえないまま、僕は悠の後をついて歩いて行く。


 ――どれくらい歩いただろう。周囲には人の気配がない。すれ違う人も居ない。見覚えがあるような、どこか違うような住宅街を抜けると、唐突に周りが少し拓けた場所に出る。周囲を黒々とした木に囲まれたマンションの正面で悠は立ち止まる。

 そのマンションは外壁が黒く塗られていて、それほど大きくないのに威圧感があった。

 いつの間にか空は黄昏時の暗さになっている。このくらいの時間になると街灯が灯るはずなのに、一つもついていない。マンションの窓にも明かりは見えなかった。


(ここがわたしが今いる場所)

 僕は唖然と見上げる。どういう意味なのかわからなかった。


(ここで、しょう君と一緒に暮らすんだよ)


(ここには、悠のお母さんもお父さんもいる。いろいろなおじさんもおばさんも。悠のおばあちゃんもいるんだよ)


(そのほかにも、知らないおねえさん、おにいさんも来てくれたの)


(だから、しょう君も楽しいよ)


 悠は、心底嬉しそうに、ぴょんぴょんと、リズムを間違えたスキップみたいな動きで周囲を飛び跳ねながら言った。

「……行かないよ」

 やっとのことで口にした。悠がぴたりと止まった。

「……ごめんね、悠。ずっと謝ろうと思ってたんだ」

 住宅街を歩いていた時は小さかった僕の背が、もうずいぶんと伸びていた。小学三年生の視点から、中学生の視点に。

「あの日。――あの日、助けてあげたかった。ううん、もっとずっと前に、助けてあげられたら、きっとあんなことは起きなかったのに」

 後ろ姿の悠に声を掛ける。悠は無言だ。

「……でも、だからこそ一緒に行ってあげることはできない。僕には僕の場所があるから。ごめん」

 それを聞いた悠は、ビクッと身じろいだ。そして、ゆっくりと振り返った悠の顔から表情はなくなっていた。


(――しょう君は、約束を破るんだね)


 そう言って、僕を見上げた。その目の奥には黒々とした闇が見えた。まるで、棺桶の隙間から中を見たような、底の見えない井戸をのぞきこんだような気持ちがして、みぞおちが震えた。


(言ったよね。あの時、また来るって。わたしずっと、ずっと待っていたのに)


 『あの祭』から逃げ出した僕の言葉を言っているのがわかった。

「……ごめん。約束を守れなくって」

 苦しくやるせない気持ちで謝る。悠は顔を歪めた。


(……しょう君が来てくれないなら)

(――無理やりにでも連れて行くから)


 悠がそう言うと、マンションの入り口から見覚えのある黒い靄が勢いよく吹き出した。

「!」

 とっさに後ずさって逃げようとしたけれど間に合わない。まるで網をかけられたように全身に黒い靄が絡み付く。黒い靄は冷凍庫の冷気のような冷たさで、うっすらと据えた土の臭いがした。――まるで、死体が埋まっているような。

 その想像にゾッとして、僕は全身を強張らせて抵抗した。

「嫌だ、悠! 放して!」

 必死に抵抗しても、じりじりとマンションに引っ張られている。悠は踵を返してマンションの入り口へと進もうとする。

 その時、空気を震わせる大声が場を揺らした。


「はるか! やめてーー!!」

 美天が道の奥から走ってきた。薄暗い夕闇の中、何故かうっすら光って見える。

「美天! 来ちゃだめだ!」

 僕は咄嗟に警告したけれど、お構いなしで走り込んできた。

「悠! 翔を返して!」

 入口に足を掛けている悠は、振り向くと美天を見据えた。さっきまで美天にも来てほしいと言っていたのに、その視線は冷え冷えと凍っているかのようだ。


(……みそらちゃん。来ちゃったんだ)


「悠、翔を連れて行かないで。もうやめて」

 美天が息をつきながら正面に立つ。黒い靄に絡めとられたままの僕は固定されたように動けなかった。


(本当はみそらちゃんも一緒にきてほしいと思っていたんだけど、それじゃあもうダメだね)


 悠がため息をついて美天を眺めて言った。……何のことを言っているんだろう。

「悠、ごめん。私もずっと、悠のために何かしてあげたかったけど、これだけは譲れない」

 美天はそう言うと、手を伸ばして僕の腕を掴み、自分の服のポケットに手を入れた。悠の顔色が変わる。

「――消えて!」

 その言葉と共に、何か砂のようなものを悠と黒い靄へ勢いよく撒いた。それは僕の目に、きらきらと輝いて光を纏って見えた。


 ――ギィィッ!!

 ――ギャアアァァァァーーーーーー……


 光に触れた悠は、金属のような凄まじい叫び声を上げ、真っ暗なマンションに吸い込まれていった。長く響くその声は獣の断末魔のようで、人が出す音に聞こえなかった。思わず手で片耳を覆う。

 ――腕を掴んでいた美天は、構わずぐいっと僕を引き寄せると一目散に道を駆け抜けて行く。僕を掴んだ手の平は燃えるように熱かった。

 うっすら光の粉を纏っている美天の後ろ姿を見ながら、暗闇のなかを走り抜ける。場違いに、きれいな光だなと思う。


 いつの間にか見覚えのある住宅街を走っていた僕たちは、玉泉寺の目の前まで来ていた。そのまま山門を駆け抜ける。

 そこでは、玉泉寺の住職や鈴木さん、見覚えのあるお坊さんたちが、石畳に即席の護摩壇を組んでいた。

 明々と炎が燃えている前で、境内に響く大音量のお経が聞こえる。

 視界が開けて炎の目の前まで来ると、息が上がった僕はそのまま倒れ込んだ。

「翔!」

 一緒に走っていた美天は、倒れ込んだ僕に驚いて抱き起そうとした。他の人たちが駆け寄る足音が遠く聞こえる。

 ――僕は酸欠みたいに息が切れて目の前が真っ暗になり、そのまま意識が途切れた。

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