第2話

「じゃあまた夜に!」

 大通りを渡り、その先の曲がり角で二人と別れた。僕の家は大通りを渡った先にある、玉泉寺ぎょくせんじという大きなお寺を抜けた更に先だ。

 中学校は、大きな街道や交通量の多い道路に囲まれている。この周辺の道路を渡るのには、小さいころから口が酸っぱくなるくらいに気を付けるよう言われた。ちょっと遠回りでも、横断歩道を渡りなさい、横断歩道では信号を守りなさい。近くに警察署があるから、無理に渡るなんて僕はできないけれど。 でも、去年の年末には大きな事故があった。夜中に女の人がトラックに轢かれて亡くなった。


 女の人は町内の外れにあるマンションに住んでいたらしい。日付が変わるくらいに、まだ車の通りが多い道路に飛び出した。横断歩道ではない場所を道路に向かって一直線に。

 たまたま、ガソリンスタンドの店長さんが帰宅途中に事故を目撃して、救助活動までしたんだって。でもひどい事故だったみたいで、女の人は即死だった。詳しいことは教えてくれなかったけれど、しばらく僕たちも話題にしてた。

 おばあちゃんは、中野に昔から住んでいるので、ご近所の情報通で店長さんの話もちょっとだけ教えてくれた。新しいビルも多くなったし、お店もすぐ代わってしまうけれど、昔からあるお店をやっている人はたいていおばあちゃんの知り合いだった。


 大きな通り沿いにしばらく進むと、目の前に玉泉寺への案内看板が出てきて門前まで真っ直ぐの道が続いている。僕の家に帰るには門前を曲がるけれど、今日は何となく、そのままお寺に向かって歩いた。

 玉泉寺は、黒い柵で囲われた先に石畳が伸びていて、木でできた大きな門の左右を仁王像が守るように立っている。左右の仁王像は門をくぐる人を睨んでいるようで、小さいころは怖かった。


 あれは小学校に行く前だと思うけど、おばあちゃんは、仁王像が怖くて泣いてしまった僕にこう言った。

「仁王様はね、お寺によこしまな気持ちで来る人の心を見て、にらみを利かせているのよ。だから翔ちゃんは大丈夫。だってよこしまな心なんてないきれいな心を持っている子だからね」

「おばあちゃん、『よこしま』って何?」

「人をだましてやろうとか、怖がらせてやろうとか、そういう気持ちを持つことよ。翔ちゃんは誰かをだましてやろうとか思ったことある?」

「ない、ないよ!」

 怯えて思わず首を振った僕の頭を、ゆっくり撫でて「じゃあ大丈夫」と笑った。仁王像は相変わらず歩く人ににらみを利かせている。僕は少し大きくなったけれど、よこしまな気持ちを持ってないと言えるのかわからない。だから今も門をくぐる時は、胸のあたりが緊張する気がする。


 門を抜けると、左に大きな鐘楼と赤い柱の三重塔が見える。昔から見ているけど、他のお寺にはないから、珍しい建物らしい。これもおばあちゃんが言っていた。その向こうにはたくさんのお墓がある。僕の家のお墓もあって時々手を合わせに来る。

 目の前の本堂に向かってぶらぶらと歩いていると、「翔斗くん、学校帰りですか?」と声を掛けられた。

 振り返ると、玉泉寺のお坊さんの鈴木崇文すずき たかふみさんが涼し気な作務衣を着て木陰に立っていた。

「こんにちは」

 僕は挨拶する。鈴木さんは二十代くらいの若いお坊さんで、僕みたいな子供でも話しやすい、近所のお兄さんみたいな人だ。髪は五分刈りくらいだし、お坊さんの恰好をしていなければ野球選手みたい。

「暑いですねえ。もしよかったら、帰りに社務所に寄ってください。お茶でもどうですか?」 と、僕を誘った。

 そういえば昼ご飯をおばあちゃんが用意して待っていることを思い出す。

「ありがとうございます。でも、おばあちゃんがお昼作って待っているのですぐ帰ります。あの……」

 何となくお寺に寄った僕だったけれど、鈴木さんに声を掛けられたことで、唐突に自由研究の題材についてひらめいた。

「あの、もしよかったら鈴木さんに訊きたいことがあって、今日お時間ありますか?」

「そうですね……。では、また来た時に社務所で私を呼び出してもらえますか? 翔斗くんが来たら呼んでもらうようにします」

 鈴木さんは優しい顔で頷いた。


 レンガ状タイルで組まれた外壁に、佐伯さえきと表札が出ている門を抜ける。

「おばあちゃん、ただいまー」

 玄関に入って声をかけると、キッチンのあるダイニングから「お帰り翔ちゃん」と、声が聞こえた。

 玄関を上がってすぐに短い廊下、左側がキッチンと食卓とテレビのあるダイニング、正面に洗面所と風呂場、右手には二階に上がる階段があり、僕の部屋は二階にある。

 僕はすぐに正面の洗面所で手を洗ってから、二階に上がって自分の部屋に荷物を置いた。外から帰ってきたら必ず先に手を洗うのがうちのルールだ。

 ダイニングに戻ると、お昼ごはんの支度ができていた。今日は具沢山のそうめんだった。冷蔵庫から冷たい麦茶を二つのコップに注いで自分の席に座り、おばあちゃんと一緒に手を合わせる。

「いただきます」

 冷たく冷やしたそうめんをどんぶりに入れ、ネギやみょうが、卵焼きを細く切ったもの、大葉、すりおろしたショウガなどを盛り付けて、ちょっと濃いめの汁を上からかけるのが僕の家流だ。こうすると、洗い物も少なくていい。

 暑かった外から帰ってくると、冷たいそうめんがとても美味しい。

 僕は夢中で掻き込むように食べた。


 僕のお母さんは看護師で、お父さんはプログラマーをしている。お父さんは家で仕事をすることもあるけれど、お母さんは大体家にいない。結婚する時には、二人とも仕事を辞めないと決めていたらしいので、家のことはおばあちゃんがほとんどこなしている。

 でもお母さんは、家事がからっきしできないし「適正がないのよ(本人談)」、お父さんも忙しいとお風呂に入るのをよく忘れて、その度におばあちゃんに叱られている。出張も多いので、おばあちゃんがいなかったら家の中はしっちゃかめっちゃかだっただろう。

 おじいちゃんは、僕が小さい頃に亡くなっているので、あまり記憶にない。大きな手でよく頭をなでてくれたことと、背が見上げるくらい高かった記憶がある。


 おじいちゃんが死んでから、いや、死んじゃう前から、うちの大黒柱はお母さんで、バリバリ病院で働いていたらしい。僕のお父さんになる人と出会ったのも病院だった。

 結石で七転八倒して運び込まれたお父さんが、お母さんに掛けられた言葉、「大丈夫ですよ、これでは死にませんから」に、頭を殴られたように驚いて、それがきっかけらしい。お父さんから聞いても、いまだに何が良かったのかわからない。でも「人を好きになる瞬間は理屈ではない」らしい。お父さんは今でもお母さんにべた惚れだった。

 そんなこんなで結婚したお父さんはうちに婿に入り、僕が生まれた。生まれた僕の面倒を見てくれたのはおばあちゃんだった。小さい頃はちょっと淋しいと感じることもあったけれど、うちは結構仲が良いほうだと思う。


 食べ終わったあと、おばあちゃんに言った。

「帰ってくる時、玉泉寺の鈴木さんと会ったんだけど、ご飯食べたら鈴木さんに自由研究について相談してきていい?」

「自由研究?」

「うん、自由研究の内容をどうしようかまだ決めてなかったんだけど、この近所の昔話や不思議な話をまとめるのはどうかなって思いついて。玉泉寺なら、そういう話もありそうかなって」

 さっき、お寺に寄った時にひらめいたことを伝えてみる。

「ほら、玉泉寺にも白い狐の神様の伝説があるじゃない? そういう、聞いたことがあるかもしれないけど、詳しくは知らない地域の話の場所を写真に撮ったり……。近くの人に話を聞いたりしてまとめてみようと思ったんだ」

 おばあちゃんに話しながら、何となくやりたいことがクリアになってきた手ごたえがあった。うん、面白そうかも。

 おばあちゃんは、少し考えてから、

「へえ。そういうことなら鈴木さんも教えてくれそうだね。それにしても翔ちゃんは鈴木さんがお気に入りだねえ」

 と、不思議そうにつぶやいた。僕はちょっとドキッとする。確かに、夏祭りや初詣なんかの機会にはよく挨拶するし話もするけど、おばあちゃんにもよく話しているのがばれているのか。


 でも、『あのこと』に関わっているのは知らないはず。あれは僕と鈴木さんの秘密だから。

 僕は動揺が顔に出ないように、ゆっくり話す。

「そうかな? ……鈴木さんはあまりお坊さんっぽくないから、何となく話しやすいのかも」

「なんにせよ、あんまり長居してご迷惑をかけないようにね。鈴木さんだってお忙しいだろうから。あと、暑いからちゃんと水分を取ることと、なるべく涼しい場所にいること」

 と、釘を刺した。

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