第9話 VRMMORPG「久ジラ世界」

Youtuber・青山ミナの付き人をするようになった僕は、大きな秘密を抱えていた。青山にも黙っていた。


仮想空間で僕が伊佐時折いさときおりを吞みこんだってことを・・・・・・。


今思えば、向こうから迎えが来た時すでに、時折にはすべての成り行きがわかっていたのだろう。


僕と時折が一緒に宿題をしていた、夏休みのある夜・・・・・・。仮想空間から派遣されてきた石像キツネたちが、僕らの前に現れたのだった。


ヤツらは言った。

「これから〈久ジラ《くじら》世界〉というVRMMORPGへとお二人を招待します。移動は見かけ上、旅のように見える。ですが、本当は一瞬でダイヴすることになります」


石でできた、狛犬こまいぬのようなクリーチャーたちは、まるで解凍されたかのように石像であることを止め、たっぷりとした尻尾をぬるりと動かした。


「・・・・・・久ジラ世界か・・・・・・。とうとう行く日が来たか」

「とうとうって?」

「行ってみるか? 時折。フルダイブ、やったことないだろ?」

時折は僕の質問には答えず、僕の腕を掴むと、ふわりと縁側から外へ出たのだった。


「もうじき到着する」

 霧がもうもうと濃くなり、ほとんど前が見えなくなった。


舟は岸へ寄せられ、石像キツネたちは僕らを降ろした。と、どこからともなく一台の車がやってきた。


停まった車から美しい女が現れた。

「確かに敵は現れたな」

時折がそっとつぶやいた


濃い緑色のコートを着た、長身の金髪の女だった。年はわからない。

女は僕らに向かって妖艶な笑みを向けた。

「お待ちしておりました。どうぞ、この車でご一緒しましょう」


「あなたは誰ですか?」と聞けるような雰囲気ではなく・・・・・・

そばに立っていた運転手の男が、儀礼的な仕草とともに、ドアを開け、僕らを中へ押し込む。車は静かに走り出した。しばらくすると、霧が晴れだした。


周囲は屋敷町。塀をめぐらせた立派な邸宅が並んでいる。きわめて都市っぽいが、江戸川乱歩的なレトロな奇妙さが漂う。


僕と時折は、街の景色に単純に圧倒されている。

「でかい家ばっかだな」

「海はないんだよ。といっても」

時折が言った。


何だよ、知ってるのか? と問いただしたいけれど、怖くて聞けない。隣に時折がいたら普通は安心するはずの僕が、あの日、奴の隣であれほどの恐怖を感じたのは後にも先にもその時だけだった。


助手席に座っていた緑のコートの女が、ここで降ろしてくださいと言い、車は特に何の目印もないところで止まった。


通りには見分けのつかない屋敷が並んでいた。高い塀が続いていた。生垣と無機的な塀とが入り乱れていた。いずれにしても、金のかかっていることは確かなようだった。


車の通る大きな道路と、それに直角に交差する細い路地があった。屋敷の勝手口があり、ゴミ箱が出してあるような、使用人と猫しか通らないような通路だ。緑のコートの女はそんな路地の一つへ入って行った。身のこなしがしなやかだった。


路地は下り坂になり、急な部分には階段と手すりがついていた。植木鉢がごちゃごちゃと固めて置いてある。子どものカラフルな自転車が二台、三台と止まっている。界隈の雰囲気が変わってきた。とは言え、俺たちは誰にも会わなかった。空を見ると太陽は真上にあり、足元の影は靴の周りに小さくまとまっていた。昼時のようだったが、あたりは静かで、料理の匂いもしなかった。


時折の方を見ると、くたびれているようだった。

「だいじょうぶか?」

僕がやつの腕をぽんとたたくと、あぁ、と短く答えたが、すぐに自分の中に閉じこもってしまった。そういうのは普段からよくあることではあった。時折は人に干渉されたくないときに話しかけられて、むりに会話を続けるようなことをしない。というより、出来ないのだと自分で言っていた。


先に立って歩いていた女が立ち止まり、俺たちを振り返った。間口の狭い古い店舗の前だ。


「こんなとこに店があったんだな」

時折がつぶやいた。


確かに。漢字の「久」という文字を染め抜いた、鮮やかな青い暖簾のれんが掛かっていた。木造の、ガラスの嵌った引き戸があった。女はがらりと戸を引き、僕らも続いて店へ入った。


ひゅうと音がして、中の空気が匂った。薬の匂いだった。壁にはずらりと薬の抽斗ひきだしが並んでいた。そこは漢方薬を商っているようだった。


芍薬しゃくやくの匂いだな」

 時折が言った。


「よくわかるな」

「うちのばあちゃんがよくせんじて飲んでたからな・・・・・・」

「そうか」


とはいえ、店には幾重にも重なった匂いが古い地層のように積もっているはずだが、いちばん新しい香りが芍薬なのかもしれなかった。店には誰もいなかったが、緑コートがコツコツと靴音を響かせて奥へ消えていった。


床は踏み固められた土。確か、三和土たたきと言うんだったか。一段上がった畳のスペースに不思議な道具が据えてあった。棒で貫かれたディスクのようなものが、石臼いしうすの中にあった。


「あれは何だ?」

薬研やげんというんだ」

時折が小声で教えてくれた。


しばらくして、和服姿の若い女が顔を出した。女は俺たちを見ると、まぁ、こんな若いしゅうたちですのね、と微笑んだ。

「こちらへどうぞ。部屋で父が待っております」

女が歩くと下駄の音が土間に響いた。


僕らは屋敷の奥深くへと進んだ。中庭に出た。女はそこで下駄を脱ぐと、縁側えんがわへ上がり、障子しょうじ越しに中へ声をかけた。

「お父様、みなさんをお連れしましたわ」

「そうか。入ってもらってくれ」

深い、よく響く声が中から応えた。


女は立ち上がってゆっくりと障子を開けた。

「やっと来たか」


部屋は洋間だった。まず驚いたのは、壁に、おびただしい数の瓢箪が下げてあった。そのほかには天井まである書架にぎっしりと本が並び、入りきれない本は床に積まれていた。大きな机があり、その向こうにスーツ姿の男が座っていた。男は大きなカマキリの被り物をかぶっていた。


俺たちに向かって差し出された手は、確かに老人の手だった。

「ようこそ。八束主やつかあるじです」


俺と時折はその異様な雰囲気の真っ只中にいて、顔を見合わせるしかなかった。


志井乃しいの、すまんがこの人たちにお茶を持ってきてくれんか」

「はい、お父様」

 志井乃と呼ばれた女は、僕たちに微笑むと、部屋を出て行った。 


「さて。君たちは面食らっておるだろうな。わけのわからんキツネが現れて、急にここへ連れてこられてね。まぁ、とにかく近くへ寄ってくれ」


老人はゆっくりと机を回り込み、応接セットのソファに腰を下ろし、優雅に足を組んだ。黒い革のソファがぐしりと鳴った。俺たちは向かいに座った。


「君たちに頼みがあって来てもらった。私は人間に戻りたい」

「人間に戻るというと?」

「今のところは私は人間ではないということだ」

(cf. 狂える神、ヌギル=コーラス。非物質存在。太陽系誕生以前から静寂と暗黒の宇宙空間で眠り、夢見ていた存在。太陽と諸惑星が誕生した時、夢は邪悪なものに変貌し、地球に命が芽生えた時に狂い、命も太陽も諸惑星も全て破壊しようと企むようになった )


 極めつけの面倒に巻き込まれつつある気がした。家にキツネが現れた時から、どう考えても、まともじゃなかった。神経質な時折が何も言わずに黙って粛々とついて来てるのも、いつもと違う。多田屋の座敷でテレビを観てるなら、「何だよ? この展開!」とか言って笑ってけなしながらもその番組を見続けていただろう。宿に泊まっている小さな子どもらが騒ぎまくったり、ケンカを始めるのにも慣れていた。

 俺は時折と「あのキツネ、キモかったよな」とか「どうなってたんだろう? あの被り物さ」とかいろいろベラベラと喋りたかった。興奮気味な時折は、そういうときものすごく饒舌で、考えが溢れて止まらなくて、俺はそういう時折をすげぇえな、と思うのだった。俺はあんまり物事の裏にある仕組みみたいなのに気付けないたちだから。

「いや、こういう言い方は驚かれるかな。私は人間ではあるのだ。こんななりをしているがな」

 ドアが開いて、志井乃がお茶を運んできた。白い磁気のカップにグロテスクなほどに鮮やかな花模様。紅茶が注がれた。嗅いだことのない香りがした。濃いチョコレート色の菓子も添えてあった。

「遠慮なく召し上がってください」

 老人はそう言うと、手で菓子をつまむと口へ運んだ。顔と頭の部分がカマキリということを覗けば、身のこなしの優雅な紳士と言ってよかった。

「僕らは、あなたの名前すら知りません。なのに、ここでくつろげと言われているようですね」

 時折はそう言いながらカップを手にした。俺にしたってこんなに丁寧に紅茶を飲んだりするのは初めてだった。

 わかったつもりに、どうやってなるのだろう? 時折がどうしてそんなに落ち着いているのかわからなかった。散歩をしている犬のイメージがふとよぎった。犬は飼い主とリードでつながっている。飼い主がぐっとリードを引く。進行方向と九〇度の方向へ。すると犬は一瞬虚を突かれたようになったが、新しい方向へ歩き始めた。その犬が向かったのは、今俺たちがいるこの部屋だった。そして、犬を御しているのは、時折だった。


*時折はどうやって老人を再生/回復/増強させるのだろう? やつはそもそも一体、何者なんだろう?


*老人は超人となって、何をしたいのだろう?




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夜の縁に立つ者たち 砂庭 ねる @sunaba_neru

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