第3話「何もない日に高級ケーキを食べる贅沢があってもいい」

「本当はもっと早くお祝いパーティーをする予定だったけど、私が足を痛めてしまったから……」


 俺が言葉を発することができないのを分かっているかのように、笹田ささださんはどんどんと言葉を積み重ねていく。

 そして手は休めることなく、森村荘もりむらそうの住人全員にケーキが行き渡るように切り分けを始める。


「みんな快く、お祝いのためならお金を出してもいいって言ってくれたの」


 言葉が止まらないってくらい勢いよく話しかけてくる笹田さんのはずなのに、言葉はだんだん途切れ途切れになってくる。


「最初は私と大翔ひろとくんと十色といろさんの三人で準備していたことだったんだけど、でも、だんだん人数が増えて、森村荘住人一同からってことになって……」


 泣いてなんかいないのに、まるで泣いてしまっているかのようだった。

 涙なんて一粒も流れていないのに、笹田さんの言葉は思い切り泣いてしまいたいんだよって訴えかけてくるかのようだった。


「みんな、みんな……」


 この場には、誰も泣いている人なんていないのに。

 笹田さんの優しくて元気な喋り方は、自分の涙線ってものを揺さぶっていく。

 誰も泣いていないんだから、ここで俺が泣くわけにはいかないけど。


和生かずきくんが初めての主役を務めたこと、おめでとうって」

「……はい」

「みんな、和生くんの今を応援しているから」

「…………はい……ありがとうございます」


 その、力強いメッセージが、ただただ嬉しかった。

 嬉しかったって一言で表すにはあまりにも申し訳ないくらい、心が尋常じゃないほどに震えている。

 ありがとう、ありがとうって、何度言っても足りないくらい、心が叫んでいる。


「……小さっ」

「森村荘に住む人数が増えてるから……ご理解ください……」


 右手には生クリームの付いたナイフを持って、左手付近には細かく刻まれた……いや、切り分けてくれたショートケーキがあって、彼女の不器用さが伝わってくるかのようだった。


「いただきます」

「召し上がれ」


 香耶乃かやのさんが用意してくれた朝食をまだ食べ終わっていないっていうのに、ケーキに手を伸ばしたくなる。

 朝からケーキを食べさせられるって新鮮すぎて胃が……とか思ってしまうの、口に広がる甘さはどこか優しくて泣きたくなる。


「……美味しい?」

「あまりに身分に相応しくない高級ケーキすぎて、正直味がよく分からないです……」

「ふふっ。感動してくれたのなら、大成功」


 嬉しい。

 嬉しい。

 幸せだって、思う。

 幸せが勝りすぎていて、味覚は異常事態を起こしてしまっている。

 苺と生クリームの相性が抜群に良いはずなのに、やっぱり味がよく分からない。


「……でも、多分……凄く美味しいです」

「当然。パティシエさんが心を込めて、愛情込めて作ってくれたんだから」


 ひま咲かの出演が決まったのって、いつ頃のことだったかな。

 それで情報が解禁されて、笹田さんたち関係者に情報が伝わったのは、いつくらいのことだろう。

 どれくらい前から今日のための準備をしてくれて、どれくらい前から秘密の会合は始まっていたのだろうか。


「あのね」


 笹田さんは立ち上がって、次の話題を振り始めた。

 そして足は縁側の方へと向かっていき、そのまま香耶乃さんが手入れをしている庭へと彼女は目線を向ける。


「森村荘に来てから、私が初めて玄関に突っ伏していた日のこと覚えてる?」


 さっきまでは向かい合って話をしていたけれど、今は完全に視線が重なり合わない。

 だけど背中合わせのような感じになっているせいか、少しずつ背中に熱が溜まっていくかのようだった。


「……もちろん覚えてます」


 笹田さんが、玄関に寝そべるように倒れ込んでいた日のことは今も確かに覚えている。


「あの日の和生くん、私に食べ物を持ってきてくれたの」


 初めて見た時は仕事のミスが響いたのかと思い込んでいたけれど、あの日もあの日で笹田さんは出演した作品に感動しまくって動けなくなっていたと後で聞かされた。


「作品を通して感動に浸っているところに煮込みうどん差し出すとか、この子は何を考えてるのって思ったりもしたけど……」

「いや、そんな無理強いはしてませんよ!」

「うどんを食べる気分ではなかったけど、和生くんが無理に勧めてきたでしょ?」

「さすがに無理強いはしなかったような気が……」


 笹田結奈ささだゆいなを見返すことだけを考えてきたのに、あのときの俺は彼女に優しさを差し伸べることを選んでしまった。


「それで、食べたの。無理にでも」

「本当にすみません……」

「そうしたら、これがまた絶品すぎて驚いちゃった」


 自分が出演させてもらった作品がどれだけ素晴らしかったかを語りながら、うどんを口にしていた笹田さんの姿を思い出す。


「美味しい物を食べさせてもらって……私、もっともっとたくさんの作品と関わりたいって欲が生まれてきたの」


 笹田さんは、本気の本気で心の奥底から声優という職業を愛しているのだと思った。

 一つ一つの経験を無駄にすることなく、自分が得た経験を自身が大きく成長するための材料に変えていく。

 本気で声優業界に挑もうとしているってことが伝わってくる。


「一瞬でいいから」


 笹田さんの方を振り向くけれど、そこで視線が交わることはなかった。

 笹田さんの視線は庭だけを向いていて、俺の視線は笹田さんの肩越しを見ていた。


「一瞬でいいから、和生くんも未来への不安、忘れてくれた?」


 背中越しに伝わってくる、声と熱。

 笹田さんと背中をくっつけて座っているわけではなくて、ある程度の距離が彼女との間にある。

 それなのに、どうしてこんなに体が熱くなってくるんだろう。

 彼女が近くに、傍にいてくれるような気がするのはどうしてだろう。


「……ありがとうございます」


 たった一言に、自分の気持ちをすべて乗せるのは凄く難しいって思った。

 自分の中に渦巻く不安に埋め尽くされそうになったところを、笹田さんが掬い上げてくれた。


「うん……本当に……ありがとう……ございます……」


 ありがとうって五文字に、自分の気持ちをどれだけ託すことができているか。

 それは言葉を受け取っている笹田さんにしか分からないことではあるけれど、伝えたい。諦めずに伝えたい。ありがとうっていう感謝の気持ちを。


「所詮他人は他人だけど」


 笹田さんの声は、今も昔も心地いいって思ってしまう自分は愚かなのかもしれない。

 でも、声優としての武器を持つ彼女のことは素直に尊敬する。


「案外、他人の言葉っていいものだと私は思ってるの」


 声の力っていうのか。

 笹田結奈の魅力っていうのか。

 心に訴えかけてくるような話し方ができる彼女のことを、人としてはもちろん、声優の先輩としても凄い力を持つ人だなって思う。

 ただの会話でしかないのに、な。なんで、こんな親身になるような話し方を彼女はしてくれるのだろう。


「めちゃくちゃ傷つけられるときの方が多いけど……私たちの職業なんて、叩かれるのが商売みたいな可笑しなことになってるけど……」

「ふっ、確かに」

「そこで笑わない」


 誹謗中傷なんて気にしなければいいっていうのは頭で分かっていても、自分に気に入らないところがあるからこそ、そういう非難の声が上がってしまうって予想がつく。

 俺は笹田さんほど知名度のある人間ではないにしたって、そういう声をもらえば落ち込むし、反省する。人間としても声優としても、まだまだ未熟なんだって。


「でも、他人の言葉に助けられることもあるから」


 背中越しから聞こえてくる笹田さんの声は、どこまでも心強い存在のように思えた。

 相手の顔は見えなくて、声だけしか聞こえてこないっていうのに、どうしてこんなに勇気づけられるのか。


「自分の喜びがそのまま他人の喜びになるとは限らない。他人の喜びが自分の幸せになるとも限らない世界だけど……」


 笹田さんと自分は、感性が似ているのかもしれない。

 考え方とか、そういうのが似通っているおかげで、彼女との会話がこんなに心地よく感じるのかもしれない。


「でも、私は、大好きな人を、言葉で救えるようになりたい」


 あったかい、な。

 こういうのを、心が温まるっていうのかもしれない。

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