第7話「後輩声優が先輩声優のためにできたこと」
「もっと落ち込んでくれてもいいですよ」
「さっき、挫けるなーって言わなかった?」
「声優を続けてくれるなら、いくらでも落ち込んでください」
「そんなこと言ったら、私は
声優
こんなにも、たくさんの笹田結奈さんの表情を拝むことができなかった。
「後輩の俺は、先輩声優が落ち込んでいても何もできません」
だけど、今の俺は声優という職業をやらせてもらっている。
笹田結奈さんと話をすることが許される立場にいる。
今ある現実へのありがたさに、なんだか泣きそうになってくる。
「でも、笹田結奈さんが落ち込んでいたら俺の出番です」
相手が強敵であるほど、勝負は盛り上がるものだと思ってる。
もちろん笹田結奈さんの収入を超えるっていう途方に暮れるような目標を抱いているけど、そう簡単に目標の達成を諦めきれないからこそ俺は声優になることができた。
「俺は笹田結奈さんの、どんな話でもどんな言葉も受け入れます」
笹田結奈さんって女性は、めちゃくちゃ良い人だ。めちゃくちゃ優しい人だ。めちゃくちゃ最高に輝いている先輩だ。
「俺は声優の笹田結奈さんと、また共演したいので」
声優の笹田結奈さんが犯した過ちを許すことはできないけど、俺は笹田結奈さんが演じてきた数々のキャラクターに魅了されてきた。
「俺は、声優の笹田結奈を越えてみせます」
なるべく優しい声色で。
笹田さんが安心して話せるような、環境を提供できる男になりたい。
「くすっ、生意気」
この笑顔が、この声が、この声で発せられた言葉が、大好きだって思う。
「お互いが作品に携わったとき、恥じない声優にならないといけないね」
「俺は、有名になれるくらいの実力をつけていく予定です」
「ふふっ、今日の和生くんは調子に乗りすぎ」
笹田さんの笑顔を見ていると、俺にまで自然と笑顔が広がっていっているような気がする。
窓に映る自分を確認するのも恥ずかしくて見られないけれど、今の俺の表情は凄くにやけているに違いない。
「とりあえず、そろそろ店を出ましょうか」
「はいっ」
声優の笹田結奈さんが涙を見せる日なんて永遠に来ないだろうけど、どうか泣かないでほしい。
いや、もう、あのときの炎上騒動で泣かせているかもしれない。
でも、今の俺は声優の笹田結奈さんを泣かせたいわけじゃない。
「……待っていてくれたのに、無視して帰ってごめんなさい」
不機嫌の塊が取り除かれたらしく、店を出てからの笹田さんは率先して俺と会話をしてくれた。
「結構ショックでした。帰る方向っていうか、帰る場所が一緒なのに……」
「自己嫌悪に陥っていた私の気持ちも理解して……」
後輩を置いて帰るという選択をした笹田さんの気持ちが分からなくもないけれど、俺にとっては元想い人……現憧れの人に置いて行かれたのは物凄く衝撃的だった。
「相手がいなかったら、恋愛シーンも余裕なんだけどなー」
「……俺がいなかったから、収録が早く終わったってことですよね?」
「今日の場合は和生くんがお相手だったけど、別に和生くんが悪いなんて誰も言っていないから! 相手役がいると新人でも中堅でもベテランでも、緊張しちゃって芝居が台無しになっちゃうの!」
この冬に一体何本のレギュラーを抱えているんですかっていうくらい、業界から頼りにされている笹田結奈さんらしくない発言が飛び出してきた。
「……よくプロになれたなとか思ってるでしょ?」
「…………」
「無言はやめて! 更に追加するなら、よく養成所を卒業できたとか思ってるでしょ?」
プロ声優らしくない発言の数々に、笑いが込み上げてきそうになる。
笹田さんは俺が呆れていると思っているみたいだけど、こっちは込み上げてくる笑いを抑えようと必死に努力していた。まあ、俺の努力も伝わっていないだろうけど。
「あー、もう! 近々絶対に廃業する!」
「笹田さんが廃業したら、俺はきっと生き残れません」
ずっと会いたいと願っていた笹田結奈さんと、こうして二人きりの時間を過ごすことができている。
ずっと会いたいと願い続けていた笹田さんの、いろんな表情を独占することができている。
「私って、本当にかっこ悪い人間……」
「本当にかっこ悪いって思っていたら、俺はさっさと森村荘に帰っています」
「……新人声優くんの好感度アップ作戦?」
「今日の笹田さん、ちょっと面倒です」
笹田結奈さんは俺のすぐ傍にいて、俺の横を歩きながら喜怒哀楽の感情を見せて魅了してくる。
「さっきのファストフード店での口説き文句は嘘だったんだ」
「いや、さっきのやりとりは全部本音ですけど!」
「そうよねー。和生くんは、声優の笹田結奈の愚痴を受け付けてくれないものね」
笹田さんの笑顔を見ることができると、自分がからかわれていることに気づく。
だけど、からかわれて怒りが込み上げてくるんじゃなくて、俺は笹田結奈さんらしさが戻ってきてほっとしている。
「和生くんに、お芝居の特訓付き合ってもらおうかなーとか思っていたんだけど」
男っていう生き物は、随分と単純な生き物だと思う。
ちょっとの優しさ、ちょっとの笑顔がきっかけで恋が始まる。
「今度こそ、台本の読み合わせですよね……?」
「恋人ごっこの方がいい?」
「結構です」
「私たちの関係は好きって言葉を知って芝居の経験値を上げていく同士。恋人ごっことは訳が違うんだから」
少しのきっかけで恋が始まるようなら、きっと世の中は可笑しなことになってしまう。
だから、高まっていた心臓の音なんてものは気のせいだと言い聞かせていく。
「
憧れの笹田結奈さんから、一生分の誉め言葉をいただいているような気になってくる。
それくらい、今の俺は笹田結奈さんから褒めるに褒められまくっている。
「ひま咲かの台本なら、守秘義務も関係ないでしょ?」
純粋に声の芝居の世界が好きなんだって感じられる瞳。
「私の特訓、和生くんに付き合ってもらいたいなーって」
どんなに願っても叶わなかった、名前を呼んでもらいたいという願い。
たかが三文字でしかない名前だけど、大好きな人に名前を呼んでもらうって、こんなに嬉しくて幸せすぎることなんだって思った。
「えっと……」
俺が笹田結奈さんのサイン会に行かなければ、声優の笹田結奈さんが炎上しなければ、俺は声優を目指すことはなかった。
大好きな人の声で
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