第5話「相手の気持ちが分からないからこそ、妄想は悪い方向に向かっていく」
「
「
マネージャーから仕事の話を聞かせるよりも早く、自分の元に主人公役が巡ってきたことを伝えられたあの日。
炭酸で酔い潰れていた
「あ! お帰りになる前に、サイン貰っていいですか?」
戸辺と紹介されたときは正直誰? 状態だったけれど、戸辺さんは超人気のアニソンユニット
「
ボーカルの
「主人公役、ほんと良かったよ」
多分どころか、絶対に戸辺さんは絶対に良い人だと思う。
まだ数言しか話していないけど、人の良さが伝わってくる話し方というか。
結局笹田さんに彼氏はいないけど、戸辺さんが将来の笹田結奈さんの彼氏と言われても納得がいってしまう。
こういう大人で余裕のある男が女性は好きなんだろうなーと。
「あ、これ介抱してくれた社交辞令とかじゃなくて、本当の話だから!」
優しそうな顔で笑うとことか、超狡いって思う。
高校三年の俺には、まだまだこういう大人の男が持つ魅力をいうものを備えることができない。
「笹田さんが代役を引き受けてくれて、あー、作品の世界が成り立ってくれたなーって本気で感動したよ!」
笹田さんと呼ぶ、その響きに親しみというものを感じる。
男女の関係ってだけじゃなく、これが社会人になるってことなのかなと思う。
笹田結奈さんの交友関係が広がっていく。
俺の知らない笹田結奈さんが増えていくってことだけど、繋がりが増えるってことは間違いなく彼女にとってプラスの財産になる。
「次回の
「ははっ、どうせならアニメ化まで狙いたいねー」
製作に携わっている人との会話はやっぱり楽しくて、この人たちとまた一緒に仕事したい。
その日が来るように頑張ろうって思える。
俺も、出逢ってくれた人にとってプラスの存在になれるような声優にならないといけない。
「じゃあ、お疲れさま。この間は助けてくれてありがとう!」
「ありがとうございました!」
音楽担当の戸辺さんが去っていく。
全員が全員多忙っていうくらいのスタッフが揃っている現場だってことを、今更ながらに意識し始める。
「お先に失礼します」
「あ、今日はありがとうございましたっ!」
挨拶を交わすスタッフさんが増えてくると、収録が終わっちゃったんだなーって素直に寂しくなってくる。
(どこに座ればいいんだろ……)
アニメーション作品ではないから、それほど作品に携わっている関係者の方は多くない。
でも、逆にスタッフの数が少ないと誰に見学場所を尋ねていいのかすら悩んでしまう。
(聞かぬは一生の恥って言うもんな……)
意を決して、まだ残っているスタッフさんに声をかけてみようと一歩を踏み出す。しかし、俺はそこである異変に気づいた。
「……あれ? 笹田さんは……」
「笹田さんなら録り直しが終わって、先にスタジオを出て行かれましたよ?」
俺が今会話をしているのは、
穏やかで優しいその声を聴き入っていたいような気もするけど、今はそんな呑気なことを思っている場合じゃない。
「えっと……これで収録はすべて終わり……ですよ?」
全員での収録が終わって、どれくらいの時間が経過しただろう。
時刻なんてものを確認している暇なんて一切なく、俺の頭は疑問マークでいっぱい。
何をどうやれば、笹田結奈さんの居残り収録がこんなにも短時間で終わってしまうのだろう。
「え? え? え?」
「笹田さん、緊張されていたのかもしれませんね」
「ね~。あっという間に収録が終わっちゃって、こちらとしては大助かりですっ」
この会話に加わってきたのは、甘塚先生。
もちろん俺の応対をしてくれているのは、笹田結奈さんではない。
「あの、お先に失礼します! 今日はありがとうございましたっ!」
挨拶をしてスタジオを出る。
気づいたときには笹田さんの姿がなくなっているとか、なんの冗談だろう。
これがプロ声優笹田結奈の実力ってものなのかもしれない。
俺が相手役として存在しなくなった途端、こんなにも順調に収録が進むことになるなんて思いもしなかった。
(笹田さんの棒読みって……俺に原因があるんじゃ……)
と思ってはみるものの、俺と笹田結奈さんは今日が初めての共演。
ラブコメ以外の作品で披露する笹田結奈の棒読みは、昨日今日始まったことではない。
(っていうか、俺……避けられてる?)
それにしても、笹田さんの帰宅時間が早すぎる。
棒読みはわざとなんじゃないかと思ってしまうほど、収録時間が短い。
笹田結奈さんの芝居を見学したいどころの話ではなく、気づいた頃には笹田結奈さんの収録が終わっているとか……。
(やっぱり後輩に、こんな姿見られたくなかったとか……)
笹田結奈さんの芝居を見ていたかった。
笹田結奈さんの芝居を聞いていたかった。
もういっそのこと笹田結奈さんの時間を独占してみたかった!
新人声優として抱いている想いでも、笹田結奈のファンとして抱いている想いでも、もうこの際どっちでもいい。
「はぁー」
盛大な溜め息を吐いて、階段途中でしゃがみ込む。
(笹田結奈さんの芝居、もう一回、聴きたかった……)
笹田結奈ファン時代の憧れ。
笹田結奈さんに抱いていた好意。
それらすべては今に繋がって、俺は声優の笹田結奈さんの芝居を目の当たりにできる機会を得た。
あれだけ恋焦がれていた人物の芝居に触れることができて、たとえ棒読みでも感動していたこっちの気持ちを少しは汲んでくれてもいい気がする。
(笹田さんは一切知らないんだよなー……)
一生話すつもりはないけれど。
俺が、あなたを炎上させるきっかけでしたなんて告白するつもりはない。でも、こっちばかりが一方的にいろいろ想っているのはやっぱり悔しい。
(笹田結奈さんを追い越せるくらいの実力をつけたって、喜ぶのはファンだったときの俺くらいだもんなー……)
引き続き、今も片想いしている気分になってくる。
好きだけど、好きじゃない。
自分の気持ちは複雑にできあがっているから嫌になっていく。
「っ!」
ビルの一階に差し掛かる階段のところに笹田さんを見つけた。
急いで階段を下りれば間に合う距離ではあったけど、笹田さんを見つけることができた喜びが勝ってしまった。
「笹田さん!」
俺が大きな声で呼び止めたことに驚いてしまった笹田さんは、あと二段というところで階段を踏み外した。仕事が終わって気を抜いているところ、誰かに呼び止められるなんて思いもしなかったんだろう。
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