第4話「彼女を見返すために声優になったのに、今は声優という職業に夢中になってる」
「それじゃあ、声ください」
収録が始まる前。
収録が始まった直後。
ここらあたりの微妙な一瞬の時間が、俺はなんだかんだで心地よい時間だと感じていた。
『先輩は、私が突然いなくなったらどうするんですか?』
『いなくなったらいなくなったで、どうも思わない』
頭の片隅を過ぎ去っていく、遠い昔の光景。
声優
勝手に理想の笹田結奈像を作り上げて、勝手に笹田結奈さんという女性はとんでもなく素晴らしい人だと思い込んでいた。そんな黒い歴史が俺にはある。
『たとえ話くらい付き合ってくれてもいいじゃないですか』
笹田結奈演じる
男の涙腺すらも緩ませるストーリー展開は、すべて
さすがとしか言いようのないクオリティの高さに、主人公の声を担当するっていうプレッシャーが襲いかかってくる。
『じゃあ、逆の立場ならどうする?』
『逆?』
『望海は、俺が突然いなくなったらどうする?』
俺は、この作品と出逢えて良かったと思う。
これから何十、何百という作品に、声優として参加できる人間になりたい。
声優、
そう強く思うくらいのものを、この作品から得た。
『探しに行くに決まってるじゃないですか』
笹田さんだけではなく、先輩たちの表現はやっぱり凄いと思う。
こんな凄い人たちがいる世界で一生働いていくって、果たして自分にはできるのかなって打ちのめされることは毎日のようにある。
今は声の仕事だけで食べていく仕事量はあっても、ぶっちゃけデビューしたての俺にとっては毎日が不安だらけ。
一生食べていくっていう目標は、ゴールの見えない道を歩いて行くような感じだ。
『この話、そこらへんに出かけているっていう設定だったのか?』
『違います! 間違えました!』
一生食べていくっていうのは当然のことだけど、それはあまりにも高すぎて遠すぎる目標。
実現したいけれど、実現できるか分からない未来を俺は描いている。すっごい不安。めちゃくちゃ不安。どうしようもなく不安。そんな毎日を生きているからこそ、この作品と出逢えて良かったと思う。
『この世界から、先輩がいなくなったら……』
一緒に
でも、単純にこの話が好きだと思った。
キャラクターが好きだと思った。
作品のすべてを素晴らしいと思った。
世間の評価に関係なく、俺はこの作品を好きだと思った。
『名前を呼びます』
『届かないだろ。この世界にいないんだから』
俺は声優として声の芝居で、作品に全力を尽くしたいと思った。
製作スタッフのみなさん、ユーザーの皆さんが大切に育ててくれた作品を絶対に穢さない。どんなに黒々強い歴史を持っていたって、主人公の声を担当する声優として作品に命を吹き込む手伝いをしたい。
『それでも、ですよ』
『何、言って……』
作品の世界を、声で表現する。
『声が枯れ果てても、声が出なくなっても、この世からいなくなってしまった先輩の名前を私は呼びます』
共演する先輩方が演じるキャラクターたちと、会話をする。
『だから、先輩も私の名前を呼んでください』
声優として、最高の表現をする。
『嫌だよ』
『じゃあ、私のことを想って泣いてください』
『それも断る』
自分にとって最高の表現ができたからって、実際にその最高が受け取り手にまったく伝わっていない作品だってある。
『もう! 先輩は私への愛情がなさすぎると思います』
俺は、真宮先生が書きあげた脚本に命を与えることはできているだろうか。
笹田結奈さんが演じる望海と、会話できているだろうか。
初めて主人公を務めるこの作品で、ユーザーの皆さんが共感できる主人公を表現できているだろうか。
『探しに行く』
『…………』
『俺は、望海を捜しに行く』
この台本をこれだけの時間読み込んで、これだけの時間を尽くしましたなんて言ったところで、そんな陰の努力は作品のファンの皆さんには関係のないこと。
プロの声優は、結果を出さなきゃいけない。
ファンの方々がイメージする主人公を表現できなかったら、作品に対しても、俺を選んでくれた人たちにだって申し訳ない。
「
新人声優という立場の役者は俺だけだったこともあり、予定していた収録時間よりもだいぶ早く声の収録は終わった。
(あっという間だったな……)
攻略キャラクターを演じていた先輩たちは本当に凄かったし、笹田さんの表現には、鳥肌すら立たされてしまった。
出演者に男の俺が一人っていう状況にも凄く気を遣ってもらったし、気さくに話しかけてくださる方が多くて本当に嬉しかった。
「同人ゲームの音声ドラマにプロの皆さんを起用できたこと、心の底より感謝しています。この度は役を引き受けてくださり、ありがとうございました」
甘塚さんはそう挨拶するけど、俺は甘塚さんたちのおかげで仕事を得ることができた。
悔しいことに俺がいなくても作品は成立するかもしれないけど、ここにいる人たちは誰一人欠けてはいけない。
全員で一つの作品を作り上げているんだっていう、この感覚がとても好きで。
俺も堂々と、欠けてはいけない一員だと名乗れるようになりたい。
「お疲れさまでした」
「お疲れさまでした」
そう、収録自体は終わった。
笹田結奈さん以外の収録が。
「
「あ、麻子さん! 途中まで一緒に行きたいです! お疲れ様でした!」
「お疲れさまでした」
先輩声優の皆さんを見送る。
見送る義務があるわけではないけれど、別の現場で先輩を送り出す後輩が多いような気がしたから実践をしてみる。
分からないことを教えてくれる人たちもいるけど、教えてもらえないことだってある。見よう見真似。
女性が多いスタジオだから、早く帰っていただいた方が安全かなとぼんやり思う。
(俺も一緒に帰った方がいいかなー……)
笹田結奈さんは、プロの声優。
だから、世間で言われているほど恋愛シーンになると棒読みになる病は発病していなかったと思う。
思うけれど、想定していた通り、笹田さんは今現在居残り収録の真っ最中。
(後輩が先輩の居残りの様子を見てるとか……あんまり気分いいものじゃないかも)
俺がミスをして居残り収録をしているわけではなく、先輩の笹田結奈さんが出演したシーンに納得いかない箇所があっての居残り収録。
俺が笹田結奈さんに幻滅するとかって展開にはならないけれど、笹田結奈さんから俺への好感度は物凄く下がりまくるかもしれない。
(むしろ先輩を置いて、後輩が先に帰る方が印象悪いのか……?)
笹田結奈さんの収録が終わるまで待ちたいという想い。
これは心の底から湧き上がる気持ちなのか、まだ笹田結奈のファンだった頃の気持ちから卒業できていない好奇心から生まれる気持ちなのか、それともプロの声優として迷走しまくっているから湧き上がる気持ちなのか。
(見学させてもらえる場所、聞いてみよう……)
先輩声優と共演させてもらうことのありがたさ。
これからたくさんの後輩も出てきて、そう遠くない未来、俺も先輩という立場になる。
俺は今後の声優人生で、笹田結奈を始めとする諸先輩方から学んだことを生かしていかなければいけない。そうじゃなかったら、声優として食べていくなんて夢のまた夢になってしまうから。
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