黒歴史を背負った新人声優だってハッピーエンドを迎えたいっ
海坂依里
第1章「あのとき恋をした声優が、今では俺の先輩声優です」
第1話「声優に恋をしたオタク時代」
男っていう生き物は、随分と単純な生き物だと思う。
それに気づいたのは、高校一年のとき。
「あ……当たった……」
人生で初めて、声優という職業をやっている人に恋をした。
学校の隅っこにいるような、陰ある人生を送っていた俺の人生が変わった。
(これで、やっと
俺がオタク時代に恋したお相手は、現役女子高生声優という肩書を持つ笹田結奈さん。
可愛らしい顔立ちに、綺麗で清楚感漂う声。
俺と笹田さんは同じ高校生のはずなのに、やっぱり声優業界で生きていくべき人は華があると思った。
年齢で言うと二歳差でしかないのに、彼女は出会ったときから大人びていた。
(笹田さんと話ができるのは、サインを書き終わる数十秒間だけ……)
新人声優としてデビューを果たした笹田結奈さんは、あっという間に人気声優の座に辿り着くものだと俺は信じ切っていた。
そして、そんな予感は見事に的中。
彼女の人気が出るまで時間は、ほとんどかからなかったような気がする。
(好きな食べ物……は、知ってる。高校生ならではの会話……嫌いな教科とか……?)
大好きなアイドルに会うために用意された会場で、ファンたちはそれぞれの想いを胸に長い列を成す。
そんな光景を目にしたことはあるけど、まさか自分が想いを寄せる声優に会いに行きたいと思うようになるなんて想像すらしたことがなかった。
(って、お見合いじゃないんだって!)
期待と緊張が入り混じって、少し手が震えそうになる。
俺の隣に立つお兄さんも、俺の前にいる社会人っぽい人も、同じように緊張しているように見えた。
この会場に集まっているのは同士だってことを確信すると、自然と手の震えも落ち着いていく。
(数十秒で、俺を笹田さんの記憶に残すには……)
笹田結奈さんが出演するイベントに参加するために、とにかく外の世界と関わりまくった。
そうすれば、いつかは俺の顔や名前を覚えてくれるんじゃないかとか。
彼女が向けるすべての視線は自分に向けられたものなんじゃないかとか。彼女の応援を続けていけば、いつかは恋愛の対象になるんじゃないかとか。
彼女に会いに行けば行くほど、俺の妄想力は膨らんで仕様がなかった。
(やっぱり、好きって伝えることだよな!)
声優の笹田結奈さんに、全人生を捧げたと言っても過言ではない。
笹田結奈さんに会いに行くだけで、どれだけの金をつぎ込んできたのか。
その額を振り返りたくないほど、アルバイトを始めた俺は笹田結奈さんに貢ぐことを厭わなくなった。
(まずは、好きって気持ちを伝えて、意識してもらうところから……)
笹田結奈さんが出演した『ひび、きらり』のDVD発売記念イベントで、出演声優によるサイン会と握手会が行われることになった。
サイン会と握手会に参加するには、別にチケットが必要という悪徳ぶりが世間を賑わせたのは今も記憶に新しい。
「ゆっくり前に進んでください!」
いくらアルバイトをやっている学生でも、同じ作品のDVDを何枚も購入するには限度がある。
一ヶ月分の給料をDVDにつぎ込んで、五枚の抽選券を獲得した。
サイン会と握手会の両方に参加できるほどの強運を持っていなかった俺は、なんとかサイン会の当選権を一枚確保。
今日は笹田結奈さんが、
(もうすぐで笹田さんに会える……!)
列が少しずつ進むたびに、心臓が更に速く動き始める。
深呼吸を繰り返してみても、なかなか心臓は元の速さに戻ってくれない。
「次の方、どうぞ」
「はいっ」
いかにも根暗で、モテなさそうで、くそダサい格好という典型的なオタクのような外見という自覚はある。でも、飲食店でのアルバイト経験は、俺に清潔さを与えてくれた。
(好かれはしないだろうけど、嫌われることはないはず……)
教室の隅っこにいるのが定番の俺が、笹田結奈さんに認識してもらおうなんて甘ったるい考えかもしれない。
それでも、恋に落ちたからには両想いを夢見ていた。
だから、必死で彼女が参加するイベントにはなるべく顔を出してきた。
「初めまして、笹田結奈です」
声優の笹田結奈さんを好きになったから、俺の人生駄目になったなんて言わせたくない。
この恋心は自分のもの。自分だけのもの。誰かに言われて諦められるような恋なんかじゃないって自信があった。
「初めましてっ! 本田坂和生です!」
綺麗な声で自己紹介してくれた笹田さんに対して、自分はただ大きな声を出しただけのような気がして格好悪い。
プロと素人の差を見せつけられたような気がして、益々、彼女とは生きる世界が違うと自覚させられた。
「名札、見せてもらえますか? サインを書くので」
「あ、はいっ! すみません」
陰を背負いながら生きている俺にとって、笹田結奈さんは華やかすぎて眩い光を放っている。
ここで挫けてしまいたくもなるけど、そんな光ある彼女だからこそ、俺は惹かれたんだってことを思い出す。
「敬称、何か希望はありますか?」
「え、あ……」
笹田さんと話ができる時間は限られているっていうのに、言葉が思うように出てきてくれない。
好きと伝えるはずだった予定も狂ってしまい、口の中は水分を失って乾いていく一方。
「そんなに深く考えなくて大丈夫ですよ。普通に、さん付けとかくん付けでも……」
ぱさぱさの口内で言葉を紡ぐことは可能なのかと不安にもなるけど、そんな不安すらも笹田さんは丁寧に拭い去るために優しくて柔らかな声をかけてくれる。
「あ……じゃあ……くん付けで……」
「本田坂和生くん、ですね」
名前を呼んでくれて、ありがとうございます。
笹田さんに伝えたかったはずの言葉は、喉の奥底へと飲み込まれていってしまった。
初めて好きな人に名前を呼んでもらえて、こんなにも嬉しいことはない。こんなにも大きな幸せを感じたのは人生で初めてだっていうのに、俺は理想通りに口を動かすことができなかった。
(ここで、終わるのか……)
何も言葉を発することができなかったら、笹田結奈さんと恋を始めるどころの話ではなくなる。
俺はサイン会に参加しているオタク一で、笹田さんの記憶にも残らないまま終わってしまう。
「声優さんのサイン会って……珍しいですよね……」
どんなにか細い声でも、どんなに聞き取りにくい声だろうと、俺が好きになった人たなら聞き逃すことなく拾ってくれる。
そんな彼女の優しさを信じて、ぼそぼそっとした声だろうとなんだろうと口を動かす。
「俺……昨日は……」
ここで、終わりたくない。
俺は、声優の笹田結奈さんと恋人になるために生まれてきた。
そんな熱い気持ちを言葉に乗せて、乾いた口を必死に動かした。
「笹田さんのことを考えて、一睡もできなかった……」
「……気持ち悪い」
笹田結奈さんにとっては、ただの独り言でしかなかったのだと思う。
ぼそっと呟かれた、その一言を俺の聴覚は拾ってしまった。
「え……?」
勢いに任せて言葉を紡ぎ出そうと必死になっていたはずなのに、俺の勇気は一気に萎んでしまった。
俺は最後まで言い切ることができなかった言葉を口の中へと押し込んで、呆然と立ち尽くす。
そんな俺の異変に気づいた笹田さんは、ようやく自分がどういった過ちを犯したのか自覚したらしい。
「っ!」
自分が、何を口にしたのかを自覚したときの笹田結奈さん。
言葉を発することなく、その場に突っ立ったままの俺。
微妙な空気が流れていたところに手を差し伸べてくれたのは、会場のスタッフでもなんでもなかった。
あのときの俺たち……あのときの笹田結奈さんを地獄に突き落としたのは、俺の背後に並んでいたオタク。俺の次に、笹田結奈さんからサインを貰う予定だった男。
「笹田結奈、サイン会場で暴言……」
彼の呟きは、一瞬にして拡散された。
そして、名も知らぬ彼の呟きは笹田結奈を炎上させるきっかけとなった。
人気声優の座に昇りつつあった笹田結奈を、一瞬にして人気声優街道から突き落とした。
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