ありふれたおはなし

藤泉都理

ありふれたおはなし




 ありふれた話である。

 遊ぶ約束をしていた友達の成美なるみが公園に弟を連れてきた。

 お姉ちゃんなんだから弟の面倒を見てあげてと、両親に押し付けられたとぷりぷり怒っていた。

 何でも両親は久しぶりにデートをしに日帰り温泉へと出かけたとの事。


「家でいっぱい遊んであげてるのに、何で友達と遊ぶ時まで遊んであげなきゃいけないわけ。意味わかんないんですけど」

「まあまあ、偶にはいいじゃない。ぼく、何歳?」


 しゃがんで目線を近づければ、友達の成美の後ろに隠れていて、野球帽子を深く被って顔を隠している成美の弟は、小さくて少し痩せている五本の指を大きく広げて見せた。


「五歳かあ。私は萌黄もえぎ。十三歳。お姉ちゃんの成美の友達です。今日は一日よろしく。ごめんね。お姉ちゃんと二人だけがよかったよね?」

「………」

「ごめん。恥ずかしがり屋で。家の中では大騒ぎするんだけど、家の外だとだんまりなのよ」

「恥ずかしいっか。お名前だけ教えてもらえないかな?」

「………」


 きょろきょろきょろきょろ。

 成美の後ろに隠れたまま、辺りを見回していた成美の弟は少し離れた地面に落ちていた木の棒を俊敏に動いて拾うと戻って来て、地面に字を書き始めた。


「五歳ってもう字が書けるんだっけ?」


 萌黄が立ち上がって成美の横に並んで尋ねると、書けるでしょと言われた。


「そっかあ。字を書けるのなんて、小学一年生からじゃなかったっけ?ん?もう小学一年生?」

「幼稚園生。来年小学一年生」

「そっか。ドキドキワクワクの小学一年生かあ」

「そうそう。私たちが仲良くなった小学一年生」

「六年も付き合うなんて長いですなあ」

「まだまだ付き合うでしょ。中学も一緒だし。高校はわからないけど」

「そうだよねえ。ん。あ。え?ひらがなじゃないんですけど?」

「小さい子の学習能力はすごいわ」


 地面に書かれていたのはひらがなの『かいと』ではなく、漢字の『凱翔かいと』だった。

 よれよれして頼りなかったけれど、百人が百人全員きちんと読める漢字だった。


「凱翔君。今日は一日よろしくお願いします」


 萌黄がしゃがんで深々と頭を下げると、成美の後ろに隠れた凱翔は小さく頷いた。




 距離が縮まったとは、萌黄は思っていなかった。

 滑り台、タイヤ、鉄棒、シーソー、砂場で遊んでいても、凱翔は萌黄の言葉に小さく頷くか、小さく頭を横に振るか、無反応なだけ。時々すごく俊敏に動く事もあったけれど、基本的にはずっと、姉である成美にべったりだった。

 これはお邪魔だったかな。

 萌黄は苦笑しつつ、一度でいいから笑った顔が見たいなと思った。

 一人っ子だから寂しい弟や妹がほしいとは一度も思った事はなく、幼い子どもが好きというわけでもないけれど、一時とはいえ、一緒に遊ぶ仲なのだ。

 笑ってほしかった。


(まあ、楽しくも面白くもないのに笑えないよね。私がいるから余計に。そもそも、顔も見せてもらえてないのに。うう。お邪魔虫でごめんね)


 昼の一時から夕方の五時まで、たっぷり四時間遊んで、薄暗闇に染まりつつある中、もう帰るねと成美が言った。


「今日は付き合ってくれてありがとね。今度両親からせしめたお小遣いで何か奢る」

「いいよ。私、楽しかったし。凱翔君。今日はありがとうございました。すっごく楽しかったです」


 萌黄はしゃがんで頭を深々と下げて、野球帽子に隠れている凱翔の目を見て微笑んだ。

 ぎゅうっと。

 成美の後ろに隠れていた凱翔は、成美のジーンズを強く両の手で強く握りしめると、少しだけ前に出て、深く頭を下げては勢いよく頭を上げると、今日初めて口を開き、少し高音の可愛らしい声で以て、言葉を贈ってくれたのであった。




「一応。気に入ってくれた。の、かな?」


 手を繋いで仲良く帰って行く成美と凱翔を公園で見送った萌黄は、二人に背を向けて歩き続ける中で、じわりじわりむずりむずりと胸が、頬が熱くなり、やおら破顔一笑したのであった。











 二年後。


「約束を果たしに来た」

「………えーっと」


 中学三年生の冬で受験真っ盛りの成美は自宅の自室で勉強中に、お客さんよとの母親からの呼びかけに階段を下りて玄関へ向かうと、見知らぬ少年が立っていた。

 同級生、ではなかった。

 中学三年生の同級生にしては背が低かった上に、何よりブラウンのランドセルを背負っているのだ。小学生だった。しかし小学生に知り合いはいない。


(あれでも。この子が被っている野球帽子は、見覚えがあるような、ないような)


 Kのイニシャルが入った水色の野球帽子を浅く被っていた少年は、キラキラと輝かせているようでいて、ゴウゴウと煮え滾っているような、光と熱を絶えず発し続ける円らな瞳を萌黄にひたと向けた。


「約束を果たしに来た」

「約束?」


 小学生の少年と何か約束を交わした事があっただろうか。

 腕を組んで首を傾げるも、勉強で疲弊しきっている頭は正常に動かせず、早々に思考を巡らせる事を諦めて、少年に約束の事を尋ねた。

 途端。


「え?約束。忘れたのか?」


 今にも涙を浮かべそうな愛らしくも哀らしい表情を浮かべた少年に、ひどく心が痛んだ萌黄。必死に思い出そうとするも、頭に浮かぶのは数式や歴史の年表だった。


「ごめんなさい。忘れました」


 ひどい忘れるなんてとひどく詰られる事を覚悟で、萌黄は深々と頭を下げた。


「本当に。忘れたんだ。俺。頑張って。約束。言った。のに、」

「ごめんなさい。約束って。それと、あなたの名前は?」

「俺の名前もわかんないの?」


 顔面蒼白になっているような少年を前にして、心ばかりか全身が痛み始めた萌黄はごめんなさいと謝罪するしかなかった。


「………大きくなったら。結婚しようって。約束した。俺。二年前より、十センチメートルも大きくなった。から。結婚しに来た」


 小学生と中学生では結婚できない。

 大きくなったらって大体結婚ができる十八歳の事を指すのではないか。

 十センチメートルとは果たして大きくなったと言えるのか。


 様々な思考が右から左に流れていく中、黙り込んでしまった萌黄に、少年が近寄ろうとした時だった。

 萌黄の家の玄関に新たな訪問者が突撃してきたのだ。


「成美」


 友達で同級生の成美は息を荒くさせたまま、少年の隣に立った。


「ごめん。萌黄。まさか本当に。あんたの家に行くとは思っていなかったんだけど、おばさんから電話をもらって、急いで駆けつけた」

「成美の知り合い?」

「弟。二年前、あんたと一度だけ遊んだ事がある。覚えてない?近所の公園で私と弟とあんたで遊んだのよ。地面に漢字で名前を書いて、あんたすごく感動してたけど」

「………弟。おとうと………地面。漢字。じめん。かんじ………」


 同じ単語を繰り返す萌黄を前に、成美は隣に立つ少年を見下ろした。


「受験勉強の事で頭がいっぱいで、あんたの事を思い出せないのよ。だから言ったでしょう。せめて受験が終わってから行けって」

「だって。十センチメートル。高くなったから」

「十センチメートルはそんなに高くないし」

「高いし」

「とにかく帰るよ。萌黄も私も受験勉強で忙しいの。あんたの面倒を見ている時間なんかこれっぽっちもないんだからね」

「………十センチメートル、伸びたもん。大きくなったもん。ばかねえ」

「お姉様に向かってばかとはよく言えたものね」

「………」

「萌黄の事を考えて待てないようなら、あんたに萌黄は相応しくない。もっと自分磨きに時間をかけな」

「………」


 少年は野球帽子を深く被って、深々と頭を下げた。

 ごめんなさい。

 とても苦しそうに、か細い声で言った。

 野球帽子を深く被った少年を見た萌黄は目を丸くした。


「あ!凱翔君!凱翔君か!ああ!野球帽子を深く被ったら、わかった!うわあ!大きくなったねえ!」

「萌黄。受験勉強に疲れているせいで、情緒不安定になってるよ」


 成美は急にハイテンションになった萌黄を心配しつつ、弟である凱翔の手首を握って強引に連れ出そうとしたのだが、萌黄が凱翔を呼び止めたので気を遣わなくていいと言った。


「ううん!気を遣ったわけじゃない!そっか!凱翔君かあ!本当に大きくなったねえ!」

「凱翔。行くよ。もう、萌黄は疲れ切っちゃってるから休ませてあげないと」

「………うん」


 じゃあね。

 お邪魔しました。

 いつかの日のように、歩き出す成美と凱翔の背を見つめていた萌黄は不意にこのまま行かせてはいけないとの衝動に駆られては、大声を出していた。


「野球帽子!」

「え?」

「受験が終わったら、会いに行くから。野球帽子。返しに行くから貸してもらえないかな?結婚はできないけど。まずはお友達から始めてお互いに知って行こう」


 凱翔と共に振り返った成美は、凱翔の手首を離した。

 凱翔は萌黄と向かい合いながら、野球帽子に手を添えるも、外そうとはしなかった。


「あ。ごめん。私。大切な野球帽子を渡したくないよね。あの。受験が終わったら会いに行くから。ごめんなさい」

「これ」


 凱翔は頭を深く下げようとした萌黄を止めて、素早く野球帽子を頭から外しては差し出した。


「大切な野球帽子だから、早く………会いに来てください」


 萌黄はゆっくりと手を伸ばして、野球帽子を潰してしまわないように慎重に両の手の間にやわく挟んだ。

 凱翔は萌黄が野球帽子を受け取ると、俊敏に背を向けて駆け走って行った。


「萌黄。弟を弄んだらゆるさないからね。って事だけ覚えておいて。じゃあね。今日はもう勉強は止めて早く休みなよ」

「成美。ごめん」

「何で謝るの?まさか弟を弄ぶ気?」

「違う。ただ、頭がうまく働いてない中で。衝動的に行動しちゃって。言っちゃって。悲しませたくないって思っちゃって。ごめん」

「………謝らなくていい。全面的に受験勉強中に会いに来た弟が悪い。だから。しょげないでね。受験が終わって、野球帽子が返しづらいってんなら、私が返しておくから」

「………うん。大切に持っておく」

「うん。今はそれでいいよ。じゃあね。ありがと。弟をばかにしないでくれて」

「ううん。こっちこそ、ありがとう」

「じゃあ」

「じゃあ」


 成美は片手を上げて去って行き、萌黄は小さく頭を下げてのち、成美を見送ったのであった。


「………とりあえず、勉強を頑張る。前に」


 萌黄は居間で待ち受けているであろう母親に、野球帽子が収まる透明な箱がないかを聞きに行くのであった。



























 三年後。


「………とても遅くなりまして誠に申し訳ございませんでした」

「………俺。ずっと、待っていたんですけど。ずっと。ずうっと。我慢して待っていたんですけど。どうして三年前に野球帽子を返しに来てくれなかったんですか?会いに来てくれなかったんですか?姉に野球帽子を渡さなかったって事は、俺に会いたくなかったわけじゃないんですよね?」

「野球帽子を返しに行った時、やっぱり結婚相手じゃなかった好きじゃなかったって言われるのが怖くて会いに行けなかった。です」

「………なるほど。じゃあ、今、三年経って会いに来たって事は、嫌いだと言われても怖くないって事ですか?」

「ただ会いたかっただけ。です」

「………なるほど。俺はずっと会いたかったですけどね。ずっと好きでしたけどね。早く友達から始めたかったんですけどね」

「ごめんなさい」

「じゃあ、始めますよ。早く俺の部屋に来てください」

「野球帽子は?」

「透明な箱から出して被せてください」

「う。うん」


 萌黄は玄関ホールに置かせてもらった透明な箱から野球帽子を慎重に取り出すと、やわく両の手で挟んで、頭を下げる凱翔の頭に乗せた。

 凱翔は少し動けば落ちそうになる野球帽子を掴んで浅く被せてのち、頭を上げて、ニカっと満面の笑みを浮かべては、萌黄に手を伸ばした。


「行こう」

「うん」


 萌黄は凱翔の手を掴んだ。

 凱翔はまだ十歳だった。小さくてやわらかい年下の子どもの手だった。


(友達。から。だから。大丈夫だよね?)


「萌黄さん。顔、真っ赤だよ」

「………凱翔君の手が熱すぎるんだよ」

「おかしいなあ。萌黄さんの手もすごく熱いけど、俺。顔、真っ赤になってないよ?」

「気付いていないだけで、顔真っ赤だよ。鏡見てみなよ」

「わあ。ほんと。真っ赤っか」

「姉ちゃん。邪魔」

「邪魔しますよー。お姉ちゃんだし。友達だし」

「三人で遊ぼう。凱翔君」

「………いいけど。友達だし」

「そうそう。友達だし」

「じゃあ。萌黄。凱翔。行こう。大学受験も終わったし!ぱあっと!遊ぼう!」

「「うん」」


 成美は萌黄の手を掴み、萌黄は凱翔の手を掴んで、成美たちの家の玄関から飛び出したのであった。


「萌黄さん。俺がもっともっともっと大きくなったら、結婚してね?」

「………友達から恋人になったら考えておく」


 ありふれた話である。

 小さい子が年上の人間に強く興味を持ってしまうのは。好意を持ってしまうのは。

 ありふれた話である。

 きっと、容易く、その興味を捨ててしまうのは。


(だから、それまでは………あ~あ。何で、可愛いって、会いたいって思っちゃったかなあ?うん?別におかしくないか?)

(もう、言い続けていいんだよね。結婚しようってずっと)



















 ありふれた話である。

 八年後に萌黄と凱翔が恋人同士になれたのは。


「何で結婚じゃないんだよ!?」

「まだ早いばか」











(2024.12.4)



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ありふれたおはなし 藤泉都理 @fujitori

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