第4話

 女は日に日に白くなっていった。


 まず頭髪が。次に肌が。ついには瞳が。

 原罪を背負って生まれてきた『人間』から、神と共に楽園で生きることを赦された『天使』となるための昇華工程。そのための浄化はもう完遂間近に迫っていた。

 瞳を白く染められた人間は、最後に『声』を失う。

 楽園で生きるのに『声』は要らない。皆、魂で語らうから。

 いつからか身を寄せて昼寝をするほど馴れ馴れしくなった女に真実を告げると、女は低い声で笑った。


「それは随分つまらないな」


 相変わらずの口調。

 神に墜とされてから出会った五日前からなんら変わらぬ調子でいる。浄化の進行具合からもって一晩だろう。だが女はそんな素振りをひとつ見せなかった。


「……そうか。でも『声』が要らないのか。すこし惹かれるな」


『?』


 女が、ぽつりと言葉を零した。

 視線を向ける。未だに流れ出る鮮血を背中に浴びて女の髪は深紅に染まっている。濡れた髪を絞る女はこちらが向けた視線の意味を理解したようだった。


「私は幼い頃から他の子に比べて声が低かった。そのせいで男児に間違われたこともあったし、成人してからもそれは変わらなかった。だから声が要らないという意味では、君の言う楽園というのは本当にあるのならここよりは幾ばくかマシかもな」


『何度言わせれば分かる。楽園は存在すると言っている』

 頑固な女だった。何度神や天使の存在を説いても受け入れようとしない。理解できないから受け入れないのではなく、女は理解した上で受け入れることを拒んでいる様子だ。

 何故そうまでして神を受け入れないのか。

 何故そこまで頑なな態度を保ち続けているのか。そればかりが気がかりだった。


『女。何故、お前はそこまで神を拒む? 今は神代だ。神が世界の均衡を保つ世だ。人は鋼を鍛え、電気を操り、世の理の一端に触れたがまだ神は居る。すべて神の導きあってのものだ。神失くして世界はないのだぞ』


「君はやっぱり神父に向いているよ。いい教会がある。今度教えてやろう」


『おい。真面目に話を——』


『神は居ない』


 女が言い放った——否。これは相応しい表現ではない。

 

 食い下がろうと口を開きかけたが、魂魄に直接伝達された意思のせいで発声が制限された。それは星の精霊たる竜より上位の存在——星の機構である天使にのみ赦された権能の一振りだった。


『神がこの世に居るのなら何故人は争う? 何故人はこうも愚かなんだ? 何故人は他人を蔑む? ……神なんて居ないんだ。こんな全てが平等でない世界に神が居るのなら、私は神を軽蔑するよ。趣味が悪いにも程がある』


 女が、小さく笑った。


『それに、君のようなヤツにこんな酷い仕打ちをする神ならさっさと滅ぶべきだ。今が神代? 笑わせるな。だったら私が終わらせてやろうじゃないか』


『……勇ましいな。お前は』


『ははっ。昔からそうだ。男児を引っ張るのが私の役目でね。だから大佐なんて大層な椅子に座らされたんだろうが。まあ、もうどうだっていいことだ。私は死ぬのだしな』


 女が静かに目を伏せた。横になって、胸を膨らませて澄んだ森の空気を肺に取り込んでいる。

 女が呼吸する。森に柔らかな風が吹いて、草木が静かに揺れて木漏れ日で森が輝いた。

 女が微笑する。春の訪れに似た温かさが森に満ちて、花が辺りに咲いた。


『少し眠るよ。また明日、鳥たちの鳴く頃に起こしてくれ』


『ああ』


 頷いて女が眠るのを見守っていると、不意に『あ』と女が声を漏らした。


『君の名前を聞いていなかったな。……教えてくれ』


『名……か。そんなものもう』


 人に憎悪を抱き、神に反旗を翻したその時から名を名乗ることなど一度もなかった。所詮復讐に使い潰す人生だ。残す名など必要無いと思っていた。

 口を噤もうとした。しかし魂魄の深層にまで達する女の言霊には抗うことが出来なかった。

 業火のなかに捨てたはずの名を拾い上げて口にした。


『ファブニール。先祖代々受け継がれてきた誉ある名だ。……神に抗ったことで俺が穢してしまった汚名だがな』


『邪竜の末裔か。まさか最期をそんな大物に看取られるとはね。これはいい土産話にできそうだ』


 言い残して女は眠った。


 翌朝。女は目覚めることはなかった。

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