第3話

 朝日に呼ばれて目を覚ますと、視界は鬱蒼とした森の緑色に満ち満ちていた。

 昨夜眠りについたのは荒野に掘られた塹壕の底のはずだ。

 それがどうしてか、深い森の生い茂る若草でできたベッドのなかにいる。


「君のせいか」


 掠れかけた声で竜の顔を見上げる。

 竜も睡魔には勝てなかったようで、赤い血を大地に流しながら浅い呼吸で眠っている。こちらの声に気づいたのか微かに瞼を持ち上げて、竜は口を開いた。


『俺は星の円環から追放された。この体の最期の用法など随分と前から決まっていた。喜べ。貴様ら人間が望む『恵み』とやらの糧になってやる』


 流れる竜の血を目で追った。


 竜の血は大地に永劫の恵みをもたらす。

 判明したのはつい数年前。かつて竜との大戦があった地をとある学者が調べていると、跡地には広大な自然と独自の文明を開化させた先住民がいたという。

 それからだ。人間が竜を狩るようになったのは。

 たった数年で竜の個体数は激減。

 見せしめのように断頭台で首を落とされ、街に。森に。海に。竜はその恵みの赤い雨を注がせた。

 やがて竜狩りは世界経済にも多大な影響を与え、今や『竜の首を手にした国家が世界を手にする』とまで呼ばれるまでに竜は『資源』としての価値を高めていた。


「……私はそんなに悪い趣味はもっていないよ」


 肩を竦めて上体を起こす。ふわ、と揺れた髪が視界に飛び込む。髪は両房とも真っ白に染まっていた。手櫛を通そうと手のひらを髪に伸ばすと、指先は石灰のような乾いた白に染まっていた。


『ほう。だが、少なからず多くの人間はそれを望むはずだ。故に母は人に焼き殺され、妹は心臓を貫かれて海に沈められ、俺は故郷を追われた』


 竜が言った。底知れぬ憎悪と殺意を双眸に湛えている。

 向けられた言葉の切っ先を逸らすことは許されない。

 竜が語った残酷は、すべて紛れもない事実だから。

 竜の活用法に気づいた途端、人間はたちまち竜に恐れをなさなくなった。

 相手はただの獣だ。なにも家畜と変わらぬ。所詮は人に使い潰されて然るべき畜生なのだと知ってしまったのだ。

 竜の巣窟となっていた太平洋の制圧に二年。以来逃亡した竜が街を襲撃する事件が後を絶たなかったが、それもここ半年は聞いていない。一説には『人類は地上の全ての竜を狩り尽くした』ともされている。


「人が憎いのか」


 問いかける。

 竜は微かに視線だけを動かしてこちらを見下ろし、


『ああ。出来る事ならこの手で全て根絶やしにしたかった』


 竜が歯軋りする。己の体に穿たれた傷を見やって、真夏の温度を帯びた嘆息が森の草木に向けて吐き出された。


『だが神はそれを許さなかった。あれも我が子だとそう言われた。……理解できない。何故こうも世界は人を選ぶ?』


 神。また竜の口からは想像できない言葉が列をなした。

 昨日口にしていた『天使』や『祝福』といい、竜の言葉は時折教会で信徒の懺悔に耳を傾けたふりをしている聖職者よりもらしい言葉を口にする。それもごく自然に。まるで真にそれら全てが存在し、己が目で見てきた事実であるかのように。


「さあ。何故だろう。しかし君はおかしいなことを言うね」


『なんだと?』


「世界が人を選んでいる、と言ったな。それは誤解だよ」


『何故そう思う』


「私たちは幸福ではないから」


 断言すると竜が目を見張った気配がした。

 子供のような露骨すぎる反応に、つい口端がつり上がってしまう。

 起こしていた身体を再び若草のベッドに預けて木漏れ日を頬に浴びる。

 昨日までの竜との最終戦争が噓だったかのように、空は青く澄んでいた。


「世界が人を選ぶなら、何故天災は文明を壊す? 何故人は平等に生きられない? 何故雌雄をもって人は生まれる? それ見ろ。何一つ人間は世界に愛されていない。苦しみを得る為に生まれてくるこれのどこが、世界に選ばれた証なんだ?」


『……』


「君は青いな。何年生きている?」


『……八〇年だ』


 躊躇いがちな竜の声がして、思わず吹き出して笑った。


「ぷははッ、老人もいいところじゃないか! 二〇年そこらの女に説教されてどうする!」


『黙れ。貴様らは命の長さが違う。同じにするな』


「それもそうだが。その台詞、余計に青臭いな!」


『チッ。知らん。言っていろ』


 竜が吐き捨てて身体を丸めた。

 巨躯で遮られていた朝日が一斉に体に降り注いだ。

 晴天を仰ぐ。荒野だった戦場は青々とした森になり、死が充満していた大地にはたった一夜にして生命は芽吹いて爽やかですらあった。

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