第3話-④
「リリィちゃん、グラウ!」
リリィの背に迫る別のツタを、ディートリヒが結界で弾く。すぐにグラウの首を絞めるものも切ろうとするが、その前に深い霧の奥へ引きずり込まれた。
「っか……、この……!」
ぎりぎりと音を立ててツタが首を絞める。グラウはそれでも、ツタの内側に指を入れて気道を確保しようともがいた。踏ん張りどころを探して足が宙を掻く。だが一部の隙も無いそこは、さらに絞め上げようと力を込めてきた。
霧に隠れた妖精たちが、笑いながら相談する。
「ドウスル? コノママ絞メチャウ?」
「首ヲ切ッチャウ?」
「逆サマニスル?」
ランチの相談をしているかのような無邪気さ。その無邪気さのまま、彼らは人を殺す。
(ああ、ヤバい)
血が止まる。呼吸が奪われる。
(久々に死ぬかも……)
思考が止まる。視界に墨が広がる。
「――返せ」
どこからか、ディートリヒの低い声が聞こえた。
ブラックアウトの直前、一瞬だけ景色が明るくなる。
締め上げていたツタから力が抜けた。気持ちのいい浮遊感の後、突き飛ばされるようにして体が落下した。
「っ、が、はっ。けっ、げぼっ」
「グラウ、しっかりしろ! よく頑張った! リリィちゃんも逃げるぞ!」
落下したグラウをディートリヒが受け止める。咳き込む彼を縦に抱きなおし、リリィを小脇に抱えて駆け出した。
「……アッ、マタ逃ゲター!」
「ズルイ! ズルイ!」
一拍の後、妖精たちが我に返った。空中で器用に地団太を踏み、ツタや木の根で攻撃を仕掛ける。
「勝つのにズルも卑怯もあるか、バーーカッ!」
ディートリヒが振り返らずに罵倒する。新たに現れたツタが、妖精たちが繰り出したものに絡みついて妨害する。ディートリヒと妖精の魔法が拮抗した。
視界が徐々に明るくなる。進む先が眩しい。瞬きをしてそれに慣れていけば、見覚えのある大きな川や建物が見えた。
リリィが歓喜のあまり叫ぶ。
「出口!」
「あと少しだ、グラウ踏ん張れ!」
ディートリヒの呼びかけに、グラウがかすかに頷いた。首に回した細い両手が、ぎゅうと彼の服を握り締める。
地を蹴り、森を飛び出し、川を横断する。
「グラウ! リリィちゃん!」
一人で待ち構えていたマーガレットが、悲鳴のような声を上げた。
「マリー、薬は⁉」
「できてる!」
マーガレットにリリィを預け、二人で屋敷まで走る。
その後ろ姿を、妖精たちは森の影から見送った。
「アーア、負ケチャッタ」
「残念」
「マタ遊ボウネー」
キャラキャラと、鈴を転がしたような声で笑う。
森が遠ざかる中、グラウがかすかに顔を上げる。
小さく中指を立てたことに気付いたのは、妖精だけだった。
屋敷の客間は十部屋もある。その用途は様々だ。亡命者を複数人受け入れた時や、家出した子どもを預かる時。また今回のような急患を隔離するためにも用いられる。
リリィはすでにあてがわれている部屋に入れられ、グラウは隣の部屋に放り込まれた。
「痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!」
「痛いわよねー。結構ざっくりいってるものね。でもちゃんと治療しないと歩けなくなっちゃうわよ」
部屋の壁は、大声だと筒抜けするくらいの厚みしかない。治療中の痛みに上がる悲鳴も、隣にばっちり届いた。
「叫んでるなー。あれくらいどってことないだろ」
「自分を基準にしないの。あと、グラウはもうちょっと叫んでもいいと思うけどね」
上半身裸になり、うつ伏せになったグラウの背中をディートリヒが拭う。乾きかけの血が拭き取られ、新旧の傷が露わになった。無数ともいえるそれが覆う場所へ、緑色のペーストになった薬草を塗りたくる。
「――っ」
「ほら、やせ我慢しない。痛いときは痛いって言いな?」
「隣がめっちゃ騒いでるのに?」
「それはそれ、これはこれ。グラウはグラウ、リリィちゃんはリリィちゃん」
「矛盾してないか?」
「事実だからね」
言葉のキャッチボールをしながら、薬を塗る手は止めない。ただでさえ傷口に薬はしみるのだ。綺麗に塞いで治すためとはいえ、そこに異物が触れたら大人でも悲鳴を上げる。
「ぎゃあ~~~~~~~~!!」
「はいはい、大丈夫よ。あとは包帯を巻くだけだからね」
隣室のリリィの悲鳴もおさまらず、マーガレットが呆れているのが聞こえた。
「グラウ、しみない? 奥歯噛みすぎないでよ?」
「うー」
「ほら、枕とかタオルとか噛んでいいから」
ディートリヒがタオルを差し出すも、グラウは枕に顔をうずめたまま拒絶する。
リリィよりも彼の方が重傷だし、もっと悲鳴を上げてもいいはずなのに。なぜかグラウは頑なに我慢する。
ディートリヒは乳鉢にあった残りの薬草を、まとめて彼の背中に叩きつけた。
「いっ! ったぁ……」
だが出てきたのは吐息のような声だけ。涙目になるグラウにディートリヒは告げた。
「やせ我慢しないでっていつも言ってんじゃん。特にこういう時の傷は、化膿したら手足の切断とか、最悪死ぬんだよ?」
「…………。今までそんなことなかったのに?」
「今までの奇跡と今を一緒にすんな!」
ペーストで覆われた背中に、煮沸と日光で消毒した清潔なバスタオルを乗せる。
「ほら、包帯を巻くから体起こして」
「うい」
ベッドの上で四つん這いになったグラウの体に包帯を巻く。まだ若干肋骨が浮いているその体に、ディートリヒは無意識に眉根を寄せた。
「……グラウ、肉ちゃんと食べてる?」
「食べてる」
「そうか? ちょっとあとでチャーリーん所に行ってくるわ」
「肉?」
「そう。なんかリクエストあるか?」
「なんでもおいしいからいい」
「それが一番困るんだって」
劣悪な環境にいたせいか、それとも素で言っているのか、グラウはなんでもおいしいと言う。会心の出来と言えるものから、うっかり焦がしてしまったものまですべてだ。製造責任者が後で食べて処分するはずだった、炭寸前のパンや野菜炒めをもりもり食べた時は目を疑った。
少しずつ自分の意見を言えるようになってきたとはいえ、こちらからすればワガママには程遠い。唯一のワガママが復讐なのだから、先が思いやられる。
「はい、巻き終わったぞ。これでしばらくは安静な」
「はーい」
グラウがゆっくりとうつ伏せに戻る。傷は深いものの、まめに薬草を塗ってタオルや包帯を取り換えておけば、痕も残らず綺麗に消える。
妖精たちに付けられた傷は、消せる。だけどそれ以外は消えない。
ネヒターに、エデルガルトに付けられた傷は、どれだけグラウが成長し、薬草を煎じても決して消えない。体も、心も。
はふう、とグラウの口から安堵のため息が出た。険が取れた穏やかな顔。体が冷えないように毛布をかけてやり、柔らかな髪を撫でる。
「……無事でよかった」
「ん、ディートリヒが来てくれたから」
ぽろりとこぼれた言葉に、グラウがそう返す。
実際、ディートリヒが来てくれなければ、グラウもリリィも無事だったかわからない。彼が一時的に精霊の森を掌握し、妖精の魔法を解除しなければ、グラウは殺されていた。
その安堵がどれだけ大きなものか、彼はまだ理解できていない。
「グラウはさ、自分の命を軽く見過ぎなんだよ」
ディートリヒがそう言うと、グラウもスンッと無表情になる。
「そりゃあまあ、何度も死んで生き返ってるし」
「その経験則をアテにしちゃ駄目だって、何度も言ってるよね? また聞きたい? 俺らが寝込んだ時のこととか、決起集会が起こりそうになったこととか」
「待って、それはちょっと、勘弁して……!」
グラウが毛布を手繰り寄せ、頭までかぶった。ディートリヒがため息をつく。
「聞きたくないなら、もうちょっと自分の命を大切にして。悪魔の力のせいで死ねないんだってことも自覚しなよ?」
「いやそれは十分自覚してるから……」
「本当に?」
「本当。首を絞められた時は久々に死を覚悟した」
「…………。それだけ?」
「え?」
声色が低くなったディートリヒに、グラウは毛布の隙間からそっと窺う。それこそが無自覚の証拠だった。
ディートリヒの口からでっかいため息が出る。
「はぁ~……。グラウ、その姿勢のままでいいからちゃんと聞いて」
「あっ、はい」
かぶっていた毛布を肩まで引き下ろされ、グラウは一週間ぶりに説教された。
三年前、父パスカルが彼を連れて帰ってきた時、ディートリヒとマーガレットは文字通り椅子から転げ落ちた。
事前に念話で、そういう子どもを拉致……もとい、保護したと連絡は入っていた。だが、思っていた以上に小さな体と、そこに刻まれた無数の傷は、兄妹二人にとってあまりにも受け入れがたかった。
長命な竜人は、二十代で体の成長が止まる。さらに規格外の魔力量や竜の角で、周囲との違いを否応なく見せつける。
ディートリヒも、マーガレットも、パスカルも、自分自身を周囲に受け入れてもらえるまでに長い時間を要した。帽子やスカーフで角を隠したり、言葉を尽くして相手の理解を求めた。時には手が出たし、こちらが理不尽に責められることもあった。それでも少しずつ理解し合える仲間は増えていった。
だけど、グラウにはなにもなかった。名前も、両親も、語り合える友達も、なにもかもが。
一体なんの恨みがあって、この小さな体にここまでの仕打ちができたのか。風呂はもちろん、食事も添い寝も、村では当たり前にあるすべてに彼は怯えた。そのくせ自分の死には人一倍鈍感で、「生き返るから大丈夫」と言われた日は兄妹そろって寝込んだ。
ディートリヒたちにとって、この村の人々は家族だ。悪魔と人間のハーフとか、それによる不死性とか関係ない。自分たちと同様、彼にも一人の人間として生きていく権利がある。
それを脅かす者がいるならば。家族を害する者がいるならば。
誰であろうと許さない。
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