第3話-③
それでも、少年の体は動いた。
「きゃ⁉」
急にグラウがリリィの体の上に覆いかぶさる。
「ちょっと、なに……⁉」
「出るな!」
男にしてはちょっと軽いその体を押しのけようとして、鋭い声に制されて止まる。
一瞬の後、土砂降りの雨のような音を立てて無数の葉が降り注いだ。
「ひっ……な……! ぎゃっ!」
すぐ横の地面に葉が突き刺さり、土が弾け飛ぶ。足に痛みと熱を感じて悲鳴が上がった。グラウが覆いかぶさっているせいで動けないが、あの葉に足を抉られたのだと直感的に理解した。
ざくざく、どんどん。雨の音が止まない。
「や……やだ……!」
腕で必死に頭を守る。両脚を切り裂かれた痛みと雨の恐怖で涙が止まらない。
「ヤダー、ヤダー」
「死ンジャエー」
妖精たちが雨に紛れて囃し立てる。自分の言葉を悪意と共に繰り返され、平静を保てる者はそういない。
「なんっ……なんで……」
味方だと思ったのに。初めて理解してもらえたのに。
「妖精が人間の味方になるわけねえだろ」
グラウの声が、雨音をかき分けてリリィの耳に届く。
「あいつらは人がいがみ合って殺し合って苦しむ様を見るのが趣味なんだよ。そのためならこっちの心も体も平気で弄ぶ」
「そんなわけないでしょ⁉」
「そう思うなら這い出てみろ」
覆いかぶさっていたグラウの体が軽くなる。すぐにそこから出ようと、腕の力で前進する。
その目の前に、大きめの木の葉が突き刺さった。
「アー、惜シイッ」
「ザンネーン」
凍り付いたリリィの耳に妖精の無邪気な声が届く。
あとちょっと手が出ていたら、木の葉がリリィの手を容赦なく貫いていた。当たり所が悪かったら指を切断していたかもしれない。
「次ハドウ来ル? ドウ来ル?」
妖精たちがキャラキャラと笑う。
雨の音が止む。それをチャンスとは思わなかった。見えなくても、無数の木の葉が空中で待ち構えているのがわかる。リリィがどのタイミングで、どこから出て来るか楽しんでいる。見えない頭上で無数のナイフが待ち構えているようだった。
「……水鏡の森、常闇を照らせ」
不意に、頭上から声が降ってきた。
「真なる主は我にあり」
空気が動く。風とは違う、春の陽だまりがゆったりと動くような暖かさ。それが詠唱に伴う魔力の発露だと、リリィは知らなかった。
「反転せよ!」
詠唱が結ばれる。精霊との一時契約が完了する。
空中で静止していた無数の葉が、くるりと向きを変えて四方八方へ飛んでいった。
「キャアッ!」
「痛イッ!」
妖精たちが悲鳴を上げる。その隙にグラウは素早く起き上がった。
「立て……ないよな」
わかりきったことを確認する。リリィの両足は真っ赤に染まっていた。筋肉に届いてしまった傷もあるかもしれない。この状態では、走るどころか立つこともできない。
「よし、掴まってろ」
「えっ?」
リリィが聞き返す間もなく、グラウはひょいと彼女を抱き上げた。
特に重傷なふくらはぎをかばい、膝裏に左手を入れて支える。彼がかばったことで無傷な背中を右手でがっちりとホールド。それでも若干不安定だったが、リリィが反射的にグラウの首に手を回して安定した。
いわゆるお姫様抱っこの格好に気付いて、リリィは顔色を赤や青に変えた。
「あ、あ、あんた、これ……!」
「緊急事態だ文句は後で受け付ける!」
息継ぎなしで一気に言い、グラウは走り出す。
「アッ、逃ゲタ!」
妖精の一人が気付いた。反逆する葉を叩き落とした妖精たちが新たな攻撃を仕掛ける。
「離して! 死にたくない、宝石になりたくない!」
「飛んで泳いで走って跳ねて。鳥の翼を貸してくれ。ウサギの足を貸してくれ!」
リリィの叫びを無視してグラウは詠唱した。優しい追い風が頬を撫でる。
「ひゃ……!」
景色の流れるスピードが格段に上がった。今まで木を一本通り過ぎるために費やした時間で、三本の木が視界を流れる。あまりの速さに暴れられなくなった。
動体視力まで向上したのか、グラウは頭上や左右から飛び出すツタや枝を紙一重でかわす。直前で隆起した木の根も、ぽんと一跳びで越えてしまった。
「すごい……!」
理解が追い付かず、リリィの口からはありきたりな感想しか出ない。
魔法に縁もゆかりもない人生を送っていたが、こんなに素晴らしい技術だったとは思わなかった。もっと早くに知りたかった。そうすれば、少しは父の助けになれたかもしれない。母が心を病まずに済んだかもしれない。
ふと、腕にぬるりとした違和感がついた。彼の首に回している腕を見ると、毒々しいほどの赤が袖の色を変えていた。
「ひっ、えっ――」
思考の外にあった現実が、突然頭を殴りつけてきたようだった。
化け物に担がれるのは非常に不本意だが、これで助かったと思っていた。冷静に考えれば、あの攻撃を受けて彼が無事で済むはずがないのに。悪魔の混血だからと、動けない自分を担いで走れるほどの力があるから大丈夫だと、過信していた。
至近距離にある、不気味な色の髪と目を持つ彼が、ただの人間に見えてくる。歯を食いしばり、脂汗を流す彼が、どうして無傷だと思えたのか。
一番重傷なのは、他でもない彼自身じゃないか!
不意に、霧が晴れた。
「てめえらうちの子らになにしてくれてんじゃあ!!」
どこからか聞こえた怒声。その主に思い当たる前に、体が浮くほどの衝撃と震動が襲い掛かった。木がなぎ倒され、鳥と妖精の悲鳴が響き渡る。
「ディートリヒ!」
いち早くその存在に気付いたリリィがその名を呼んだ。グラウも視線の先にいる彼に気付いて、ようやく表情を緩める。
だが、怒りから安堵に表情を変えたディートリヒは、それを驚愕に歪めた。
「グラウ、後ろっ!!」
彼が叫んだのと、編み込まれたツタがグラウの背中を強打したのは同時だった。
「――っ、ぁ」
声が出せない。膝から力が抜ける。無数の切り傷に覆われた薄い背中が、折れたのかと思うほど仰け反った。
「わっ……!」
倒れた拍子にリリィが前に投げ出される。腕の力だけでなんとか起き上がった彼女は、
「捕マエター♪」
血に染まったツタが彼の首に巻きつき、宙に吊る一部始終を見てしまった。
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