第一曲目 第三楽章
「どうした?もっとそこはレガートだ。弦楽器の流れに書いておいただらう?
Delle belle turbando il riposo は、もっと流れなくては。次のナルシスに繋がるために書いておいたのに。さ、もう一度やろう」
かれこれ20分間、同じ箇所、同じフレーズだ。
まさか200年前に亡くなっている作者本人のレッスンは貴重だ。叶うことならずっと受けたかった。それが今できている。
嬉しい。嬉しい、はず、なのだが。
「まだだなぁ。なぜ私のこの至極の旋律を歌えきれないんだい。さあ、そこもっと、こう、スーーーっと言って、最後にパンパンパンと納めていくんだよ。書いてある通り歌ってくれたまえ。さ、もう一度」
やってるのに。やっているのに。意識して、声にしているのに。できてないと言われる。
レッスンにおいて1番地獄な時間だ。しかもこだわりが強くて何度も同じことを言われている。ああ、一つのフレーズで40分たった。疲れた。もうやだ。
「おやおや、もう声が出ないか。仕方ない。今日はここまでにしよう。次もできるまでやるぞ。私の旋律だ。これができれば拍手喝采間違いなしなんだ。プラハでの本番を見せてやりたかったな。プラハの歌手はまあまあであったが、観客は何度も私のことを呼び出してかなわなかった。妻のコンスタンツェとも一緒に楽しい思いをしたのも合わせてよかったよ」
休ませてくれ。ヘトヘトなんだ。てか本当にこの人よく喋るな。全然止まらない。止まっているのは音楽がなっているときだけだ。
「また言葉を忘れたか?今度は言葉巧みに私の才能に触れていかないでどうする?まぁ、昔もそれができた者は中々いなかったが。そういえば、ボンから出てきたルートヴィヒは頑張って質問を重ねてきたな。中々彼の質問の意図がわからなかったが」
今は僕のレッスンだ。他の生徒の話なんてしないでくれ。自尊心が落ちていくじゃないか。いやなんだ。レッスン中に誰かに比べられるのは。
「その、ルートヴィヒという方はどんな歌手だったのですか?」
「歌手?そんな歌手はいないさ。いや、これは私が勘違いさせたか。私がレッスンしたのは曲の作りだ。クラヴィーアかピアノフォルテも教えたか?まあそれよりも、私のところに来るというのがまず見込みがあったよ。ただ当時、私と仕事を抱えていたから、実際レッスンできたのは1、2度かどうか、だっかな?」
ルートヴィヒ、?聞いたことがある。いや、確実に知っているのに、さっきのレッスンで疲れ果てて頭の中、記憶の中から引き出す体力がない。
「そのルートヴィヒって、名字ですか?」
「名字?ああ、家名のことか。たしか、うーむ家名を覚えるのがおっくうだからな、確か粉挽とかいったか。」
「なんでそこは日本語ででくるんですか、」
「君と話しているからに決まっておるだろう。そう急かすな。粉はBeetだろ?そうそう、Beethoven だ!Ludwig von Beethoven だ。」
まさかのビッグネームだった。そうか、同じ時代を生きていたのか。我ながらベートーヴェンが出てこなかったのを心から呪う。
「さて、休憩は終わりだ」
え、もう終わり?喋ってたから全然休めてない。てかまだやるの?もう20時だ。帰りたいのだが。
「うーーーむ、先のことを繰り返しても埒があかないな。そもそもなんだが、君の歌声はどうも暗い。暗澹としている。あの曲はフィガロが策略をめぐらし、辺りに本意を隠そうと思案し、わざとらしく明るく歌ものだ。私のフィガロ像が当てはまる名曲なのだよ。何か、君の歌から感じられない。いや、君自身はそのようなことはわかっているが、それを声にできない何かがある、とも感じるな」
……。
天才にはこんなこともわかるのか。
正直、怖い。恐怖だ。
音楽、特に声楽は心に1番近い楽器だ。
だからこそ、心の耳が鋭い人ほど、僕の心音を聞き取られてしまう。
この学校ではほとんどそんな経験なかった。
だから、ある意味気を抜いていた。気を許してた。
でも、今聞いてもらったのは、この曲の作者であり、何より、死してなお作った曲が世界中で感動を与えている気代の音楽家だ。
確かに、それは読みとられる。
説明できない。けど、僕はそれを強く確信している。
「そりゃ、今の僕には歌に集中できませんよ。」
「ほう、聞いてみたいな。今の君の歌よりも意味がありそうだ」
軽く屈辱を感じるが、ウォルフガングにはこの際付き合ってもらおう。
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