第37話 予感

 それから三年の月日が経ち、女王の統治のもと荒廃した国土は回復しつつあった。



 女王の馬車が十字の島にやってくる。


 プリシラは車窓から煉瓦造りの農家の軒並みを眺めて微笑んだ。島のパン屋の煙突から、香ばしい匂いと煙とが、もくもくと広がってゆく。畑には土を耕す百姓が、放牧地にはのんびりと草をはむ牛がいた。


 再建された領主館へと続く道。館の前に立ってプリシラを出迎える領主夫人。



「実はずっと前に、ピーターを愛したことがあるんです」

 プリシラは林檎の木の下でエミリーを振り返った。


 エミリーは大きくなったお腹で庭の椅子に座っている。うぐいすの鳴き声がどこからともなく聞こえてきた。


「考えなしの愚かな恋でしたけれど……。とにかく今あなたは彼の妻で、私は女王で独り身……」


 もちろんピーターとの間に起こったことで心残りは何一つなかった。プリシラとて同じ失敗を繰り返すつもりはない。


 それでも、こうしてエミリーが彼の子を身ごもり、家庭の幸福と安逸を享受しているのを見ると不思議な気持ちになるのだ。こういう種類の幸福は、生まれた時から選択肢になかった。


 宮廷の夜会で若い男女が笑い声をあげながら踊っているのを見る。プリシラは豪華な装いに身を包み、玉座に座って宮廷人たちと会話をするのだ。


 ある夜、夜会に出ずにベッドで読書をしていた。少しだけゆっくりとしたかったのだ。


 扉がひとりでに開く。プリシラが視線を上げると、女が立っていた。あでやかな笑みを浮かべ、豊満な体を見せびらかすように、ゆっくりと、こちらに近づいてくる。


 ニーナだった。


 プリシラはただ彼女を凝視するだけで、何も言わない。


「トリスタンが航海から帰ってきたのよ。宝の山とみやげ話をたずさえてね……」

 ニーナが口を開いてそう言った。


「それで、彼はあなたのところに来たのね……」

 消えいるような声で言う。


 ニーナは例の妖艶な笑みを浮かべているだけで、肯定も否定もしなかった。



 宮廷に現れたトリスタンをプリシラはどのように迎えればいいのかわからない。ただ胸騒ぎがして、皆が見ている前では型通りの歓迎の言葉を口にした。


 三年。それは、恋する者にとってはあまりにも長い月日だ。長く寒い夜には彼の夢を見たっけ。

 彼の姿を見るだけで、頬に赤みがさした。トリスタンが微笑むのを見ると……


 彼が女王をダンスに誘った。


 互いの肩と腰に触れて、ワルツを踊る。プリシラは唇に笑みを浮かべ、軽やかな足取りで踊った。最初の晩と同じように。二人が出会った最初の晩……


「あのひとが、ニーナがあなたの帰りを知らせに来たわ。あの人に会ったのね……」

 そう言いながら、プリシラは悲しかった。とっても悲しかった。


「ニーナ?会ってないよ。きっと彼女は娼館にいるんだね。娼館は港町にあるものだから……。でもプリシラ、毎晩船の上で、星空を見ながら考えていたのは君のことだけなんだ。それだけは知っておいてほしい。君は女王に、僕は船の上の王になったけれど……」


 プリシラはまた微笑んで、彼の夢見るような瞳を見つめていた。幸せの予感がしたのだ。

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[完結]さらわれて〜誘拐犯と結婚?!〜 緑みどり @midoriryoku

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