イマジン・マジック・サークル

田子錬二

プロローグ

 秋口千秋の意識が薄れて行く。横たわった体を動かす事も困難で、これから向かうであろう結末に抗うことすらできない。もっとも、無力感を感じる余裕すら今の彼女にはなかった。


 秋口千秋の腹部からは多くの血が流れ出している。


 秋口千秋はソフトボール部に所属している。もう数日もすると冬将軍が到来するのではないかと思えた。この時期になると大会に向けた練習ではなく、体力アップのメニューが組まれる事が多い。正直な話、女子である以上は筋力が大きくなる事は歓迎できない。でも、今は大会で活躍する事を目標に掲げている以上は嫌でもやらなくてはならない。全てのメニューを消化して練習が終わったのは日が沈んで外が暗くなってからだった。


 そんな中、事件は帰宅途中に起った。


 非常に寒い夜で、少し赤みがかった月がやけに明るく見える。その明るさゆえ星を拝むこともできない。千秋の目には降り注ぐ月光まで赤みがかっているように映った。


 秋口千秋は見える景色に違和感と不気味さを感じずにはいられなかった。


 秋口千秋の通学路は林と田んぼに挟まれている。最低限舗装されているいわゆる農道で、自転車に乗っての通学には何ら問題はない。田舎ではよくあるのどかな光景。近隣の家との間が離れているため、コンビニに行く時も自転車に乗って十数分は走らないといけない。元から人の往来が多くなく、日が暮れる頃になると更にその数は減る。時々車は通るけれど、下校中に自転車で十数分程度走ったとしてもすれ違うのは一、二台と言ったところ。ここで何があろうとも誰かに見られる可能性は低い。


 同じ部活の皆と自転車に乗って下校して途中で別れた。ほぼ毎日繰り返される事だ。家の距離が離れているので、一人になる時間が長いのは仕方がない。


 千秋は減り始めたお腹の音を聞きながらペダルを漕ぎ続けた。


 家に変えればお母さんが食事を用意していてくれる。今日のご飯は何だろうか?ご飯を食べたらお風呂に入って、髪を乾かしながら動画でも見ようかな。そんな事を考えている時だった。


 街灯の下に妙な影が現れた。赤い光に照らされているのに黒が濃い。こんな時間に人・・・いや、人にしては背が高すぎる。それならばは何だ?


 悪い予感が体を動かす。近付くのは危険と判断して自転車のブレーキを握っていた。短い音がしてすぐに自転車が止まった。すると、その影がゆっくり動き始める。


 地面の上を滑るように姿を見せたは頭からマントを被ったようなシルエット。からは人間らしさなんて感じない。だからと言って野生動物の類でもない。突然そこに発生して、ただそこにあったような。異形、妖怪、怪異・・・見るのは初めてだけど、たぶんそれ等に近いモノ。


 すぐにこの場合を離れなくては。


 自転車のハンドルを切る。なんの音も出ていないはず。だが、異形のが千秋へゆっくり体を向けた。


 千秋の体が強張る。緊張レベルが一気に最大に上がった。こんなに緊張したのは初めてだ。9回ツーアウト満塁でバッターボックスに立ったとしてもここまで緊張しない。喉が渇く。だが飲み込む唾は出てこない。体が異常を警告している。千秋は思いっきりペダルを踏み込んだ。軋んだ聞こえた。


 背を向けて逃げ出す。野生動物には決してやってはならない行為。だが、が生物である保証もない。それなら、脇目も振らず逃げるのが正解なんだ、千秋は自分に言い聞かせた。


 五分ほど走ると、足に疲労を感じて呼吸が苦しくなった。千秋はペダルから足を離して地に足をつける。まずは呼吸を整えなくては。大きな深呼吸を何度も繰り返す。すると、乱れた呼吸が落ち着いてきた。


 からはだいぶ距離を取れたはず。


 追って来る事など微塵も思わなかった。


 千秋が振り返る。が居た方向を。


 振り返った先にあったのは真っ黒だった。いや、厳密には影のような黒い何がある。先ほど見ただ。


 千秋は思わず短い悲鳴を上げる。だが、喉から出るべき悲鳴が出てこない。の影のように真っ黒な体に出現した赤い光を見てしまったのだ。それから自分の体が嘘のように動かない。


 なんで、なんで、なんで・・・。


 同じ言葉が思考の中でグルグルと廻って、湧き出ては消えていく。意識は逃げるように必死で師事を出している。それでも、体はなんの反応も示さなかった。


 の赤い光が千秋を品定めするようにグルリと回った。眼球のような動きがやけに気持ち悪かった。それでも目を背けることも、瞼を閉じることも、悲鳴を上げることもできない。ただ、の赤い光を見ていることしかできない。


 千秋は腹部に異物が入ってくるのを感じた。熱い、ただ腹部が燃えるように熱い。それに、ドロリとしたモノが腹部から足にかけて流れていくのを感じた。


 いったい何を、そう思った時。千秋の体が束縛から開放された。


 千秋の体は糸の切れた操り人形のように崩れ落ちた。倒れたお体を起き上がらせようと体に指示を出した。しかし、千秋の体はその指示を無視。わずかに首を動かして自分の腹部を見ることしかできなかった。今夜の月の赤い光の下では正確な色はわからない。それでも直感的に分かる。血だ。腹部から流れ出て広がっていく。服の上から傷口は見えない。それでも、大きくなる痛みが刺された事を告げている。


 この後、私はどうなっちゃうんだろう?


 薄れ行く意識の中で目に入ってきたのはの姿と、神主のような服装の男。持っている日本刀でと戦っている。


 それが千秋の最後の記憶だった。

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