エピローグ 汽笛のなる場所 桟橋を渡る花嫁
夜、空を見上げて星の並びに季節を探す。
昼、陽の傾きや私を通り過ぎていく風に季節を探す。
あの幽世から還ってきてから毎日。時間をみつけてはそうして空を仰いでいる。
昨日と今日は何の齟齬もなく続いているのに。
1年という時間が、私達が幽世に迷い込んでいる間に過ぎ去ってしまっていた。
その現実にもちろん戸惑いを覚えた。
でも幽世の往来で、実は四十有余年もの年月を神隠しに遭っていたらしい私には、その時間の齟齬を些末なことと思えてしまう。
だから日常にすんなりと戻れたような気がするのだけれども。
清春さんには違ったようだった。
旧幕府に仕えていた旗本や御家人の方たちの住まいがあった一帯は皆取り壊されて更地になってしまっていた。
官舎が出来るのか、軍の演習場になるのか。
何もかも無くなってしまった土地を前に。しばし清春さんは無言で立ち尽くされていた。
それだけでも衝撃的なのに、目まぐるしく時代は変わる。
この1年の不在の間に、”徴兵令”なる法令が発布されていた。
「……国民皆兵が、実現可能になるのですよ。そして、侍の時代が本当に終わりに向かうんです」
努めて明るく、私に諭すように教えてくれたけれど。その目の奥は暗く沈んでいた。
夜、抜身の刃をじっと眺める清春さんに、言葉をかけることは適わなかった。
還ってきた時にはもうお屋敷は無かったから。
今は春香さんが手配してくれた武陽の郊外の長屋を仮宿にしている。
”死んだ人間を蘇らせるのは大変なのよ”
そう嘯いて、幽世から還ってきた私達を春香さんは力を尽くしてくれた。
様々な書類を書いたり、手配をして。当面は生活の心配をしなくてもいいだけのお金の工面までしてくれていた。
そして私達は今、彼女のたっての願いで新浜の街にやってきていた。
「お嬢さーん。ふらふらしないでくださーい」
写真屋の主人に何度も注意されながら、必死に姿勢を正して笑みを張り付けている。着せられた洋装のドレスで美しく立ち振る舞うのは難しい。
「ふふっ」
「いいですね、そちらのお嬢さんはその笑顔でお願いしますね」
私とは対象的に、マユラさんの色打掛を纏った春香さんは堂々とした様子で、本当に美しい花嫁姿だった。
「はい、それでは動かないでくださいね」
写真屋の主人がよしと言うまで、私達は笑顔を浮かべ続けていた。
「あー肩凝った。もっと一瞬でぱっと撮れればいいのにね」
”最後に写真を撮りましょう”
そんな春香さんの提案を断ることは出来なくて、私達は写真屋にやってきていた。撮影が終わった今は、互いに着替えを行っている。
私が彼女のドレスを着て、彼女がマユラさんの打ち掛けを纏った姿で写真に納める。おかしな取り換えは春香さんの提案だった。
”これならいつでも、この時間のことを思い出せるでしょう”
そう笑って仕方のない春香さん。努めて明るい雰囲気で、悲しい様子を露とも見せてくれない。
けれどもうすぐお別れの時間が迫っている。
「本当に私と2人で良かったのですか? 折角清春さんも居るのだから3人で――――」
「そんなことしたら未練があるみたいに思われちゃうでしょう。それに、あの子の顔はもう見飽きてしまったわ」
衣を脱ぎ、襦袢姿の春香さんが飄々と笑う。でも何処か感情を押し殺したように、強く笑っているように見える。
部外者の私には知り得ないことだったけれど。
随分前に、私と出会う遥か以前に、春香さんは結婚することが決まっていたらしい。
今までのらりくらりと引き伸ばし続けて、神隠しに姿を消した私達の後見をしてくれた後。遂に輿入れ日が決まったのだった。
嫁ぎ先は遥か遠い異国の妖退治の大家。
口にしないけれど、誰が見ても鴉宮とその家とを繋ぐ”政略結婚”だった。
世界の列強に未だ追いつかない日の本の立場を鑑みれば、”政略結婚”という言葉すら相応しくないのかもしれなかった。
遠い、遠い異国に一人、彼女はまるきり違う文化の中に放り込まれる。
「そんな顔しないで。嫁ぐ覚悟は決めていたのよ。遂にその日が来たというだけ。それに船で一月以上の時間がかかって、更に大陸を横断する蒸気機関車に乗るというのだもの。とても長い旅になるわ。……門出はせめて、友達には笑って送って欲しいわ」
見上げる春香さんの表情には微笑みが湛えられている。でも瞳は私の顔をじっと見据えていて。何かを見定めるような、あるいは自分の目に焼き付けるような、そんな意思を感じる瞳だった。
でもすぐに霧散して、いつもの春香さんに戻ってしまう。
「あ。友達、とかちょっと調子に乗っちゃったかな。ごめんね、私馴れ馴れしいみたいでさ。いつもやらかして鴉宮の子達にも避けられてるみたいでさ」
「いえ、嬉しかったです。春香さんと友達になれたらってずっと思っていたので」
「本当?」
「はい」
そして顔を見合わせて互いに笑い合った。
初めて会ったときみたいに。そしてちゃんと、友達として。
ひとしきり笑いあった後、着替えを続けながら神妙な声で春香さんが口にする。
「舞香ちゃんはどうだった。清春と初めて会ったとき」
「え? 清春さんと?」
「あ、いや、そうじゃなくて。えと…………貴女が縁談だと聞いて清春と始めて会った、というのを知っちゃったのよね。それで、結婚する人と初めて逢う時、どうだったのかなって」
洋装を異国の人以上に着こなして。所作も佇まいも、言葉の一つ一つにも、ため息が溢れるような憧れを感じさせる人なのに。そっと心の胸襟を開いて見せてくれた姿は、私と変わらないのだった。
「不安、でしたねやっぱり。……でも怒り、という感情もあったように思います」
「怒り?」
「えぇ。もっと違う人生もあったんじゃないかって。結婚が嫌とか、清春さんが嫌とかそういうんではなくて。こうやって全部決まっていってしまうことに、抗いたかった、みたいな。そんな気持ち、でした」
「………………」
「すみません、なんだかあまり上手く言葉に出来なくて」
「いえ、十分伝わったわ。ありがとう」
交換した衣服をお互いに着直している。
普段着の和装に袖を通して、すっかり普段遣いになってしまった桜のびら簪で髪を留める。
彼女から衣装を預かろうと振り返った時。春香さんはまだ襦袢姿のままでいた。
愛おしげに、赤い打掛に目を落としている。
「本当はね。打掛が着てみたかっただけなの」
訥々と、彼女が言葉を紡ぐ。
「母の、唯一の自慢が祝言の打掛がとても色鮮やかな衣装だったことなの。昔は気にも留めていなかった筈なのに、何故だか今更になってね。……だから本当にありがとう。最後に良い思い出が出来ちゃった」
着替えを終えた私に、マユラさんの色打掛を手渡そうとしてくる。
これを受け取ってしまっていいのか。
そんな疑問が頭を渦巻く。私よりも彼女のもとにあるべき品なのではないか。そんな風に思った。
「春香さん、これ――――」
「だめよ、舞香ちゃん。これは貴女の大切なものでしょう。それに私も嫁ぐからにはちゃんと向こうの家の女になろうと決めているの。だから受け取れないわ」
そう言って彼女はくるりと私に背中を見せてしまった。
「春香さん?」
「……舞香ちゃんは、清春に逢えてよかった?」
白い陶磁器の人形のような華奢な背中。彼女の掠れるような声に、その儚い背中に、嘘は付けないと思った。
「はい。きっとこんなに私のことを助けてくれる人はもう現れないと思うから。私なんかが彼の力になれれば、って思います」
「そっか。強いな舞香ちゃんは」
強がりではない微笑みを、いつもの笑みを浮かべている。でもにっと、歯を見せて笑う姿は、少年のような笑顔のようでもあって。
清春さんが時折見せる笑顔と重なって見えるのだった。
けれど、心と表情とは裏腹に、刻一刻と迫る約束の時間に、躊躇いや戸惑いはどうしたって浮かんでしまう。
彼女の指先が振るえている。
上手く留められないでいるボタンを、私の手が留め始める。
「ご、ごめんなさい。こんなこと」
「いいんです。私がやりたいんです」
彼女の傍でかしづきながら、異国へ嫁ぎにいかなくてはいけないお姫様の盛装を手伝った。
手伝いながら堪らなく言葉になりそうな想いがある。
本当はもっと一緒にいたかった。
初めて出来た友達に、もっと語らいたいことがある。
でも言葉には決してしなかった。友達と読んでくれたのだから。
笑って送ってあげたかった。
海は小さくさざなみ、陽光が揺らいで水面がきらめている。
ずっと続く水平線の遥か彼方、この大海原の果ては異国へと繋がっている。
新浜の街は、そんな見果てぬ世界との玄関口で、今日も数多の人々や文化が運ばれてやって来る。
この国にとてつもない激変をもたらした新しい時代の風も、妖精を宿した異国の花も、きっとそういうものの1つ。
そしてこの桟橋からも、見果てぬ世界に向かう、日の本の文化や人々がいる。
黒船に乗り込む多くの人々と、その見送りに集まった多くの人々で波止場には賑やかな声が響いている。
春香さんの見送りは、私と清春さんの2人だけだった。
鴉宮の知り合いが見送りに来るのは頑なに拒んだという春香さん。ご両親は、とは私が尋ねることは出来なかった。
そこにどんな思いや事情があるのかは分からない。何も知らない。
ただ、私達2人をこの見送りの場に呼んでくれたことこそが、彼女の本意だった。
義理の姉弟だというのに、短く言葉を交わすだけの2人に、幾度もお別れは済ませていたことを思い知らされる。
異国の方が為さるように最後の最後に抱擁を交わされた姿に、特別な思いが込められているのが私でも分かった。
過ごした時間は短くとも。私にも何らかの思い入れを向けてくれていることも。
「じゃあ舞香ちゃん、息災でね」
「…………春香さんも、その、お元気で」
「ありがとう。でも大丈夫よ舞香ちゃん。これから世界はもっと近い場所になるわ。新浜から定期航路の船便の数がもっと増えて、外国に観光に行くなんてのが当たり前になる時代がくるかもしれない。手紙を書くから、舞香ちゃんも返して。そしていつか、また逢いましょう」
外国の方たちが為さるように、春香さんが私にもそうしてハグをした。
芳しい、春香さんの雰囲気にあった香水の匂い。柔らかな感触。
何かを託すように、背中に回された手に込められた力の強さ。
そして私だけに聞こえるように耳打ちされた言葉。
”清春のことよろしくね”
何処か悲壮な、心残りを感じさせる切ない声。
でも一瞬のこと。
私からそっと身体が離れていった春香さんは、微笑みがとても格好良い大人の女性だった。
大型汽船に乗り込むためには、桟橋から小舟に乗って黒船へと乗り込む必要がある。
小舟に乗り込む時にひらひらと手を振った後は、春香さんはもうこちらを振り返ることはなかった。
舟が黒船に向かう間も、黒船に乗り込むときも、黒船の甲板からこちらに手を振る人並みの中にも、彼女の黄色いドレスは見つけることは出来なかった。
決して後ろを振り返らない。前だけを向く。そんな強い意志で、彼女は異国へと向かった。
黒船が出向する時、汽笛が港に鳴り響いた。
旅路を祝福するような、或いは討ち入りの士気を高めるかのような、新時代の音。
その音と共に、黒船は進み始める。
春香さんは、そうして水平の彼方へと消えていった。
この世から隔絶された幽世と、誰も知り合いのない異国の文化の中に嫁ぎに行くのと。どちらが孤独なのだろう。
水平の彼方、海と空とが溶け合う春香さんの行く先にそんなことを思う。
当然答えはない。遠い憧れだった場所に思いを馳せて、静かに私を通り過ぎていく風が、私の髪を乱すだけだった。
「舞香さん。帰りましょうか」
いつまでも此処に居続ける訳には行かない。見かねた清春さんが私の背中に向けて言った。
後ろ髪を引かれる思い。
それでも、私は私の現実を生きるために振り返った。
私の様子を気遣うように、少し不安げな顔の清春さんが私に向けて手を差し出してくれる。
2人の間を通り過ぎていく風が、商船の積み荷から零れた異国の花びらを空に舞い上がらせている。
その光景に、どうしてもあの幽世の出来事を思い返して。伸ばした手が止まった。
私達の間には、横たわっている様々な問題を幻視してしまったから。
彼が抱えている彼の一族のこと。
鴉宮の仕事のこと。
いつまた、幽世に誘われるか分からないこと。
両親のことにも向き合わなくてはいけないこと。
目の前の生活のこともそう。
彼の隣に居ることが本当に私に出来るのかということ。
いつか幽世の世界に行ってしまいたい。そんな風に思う日が来るかもしれないと、私達の間を横切っていった異国の花びらに思う。すぐに弱い自分も出てきそうになる。
でも今は。
私を助けに来てくれたこの人となら、一緒に歩みたいとも思った。
そうして差し出された清春さんの手を、私の手がとった。
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