4-6 異国の花の精

 幽世のこの美しい場所にも時間は巡って夜の帳が下りていて、頭上には満点の星空が広がっている。

 その瞬きに目を細めながら、星の並びに季節を探る。満ち欠ける月の様に暦を数えている。

 父から教わった、天文学の基本のこと。

 陰陽道のことは、全く私に触れさせてくれなかった父だけれど、こうして星の見上げ方だけはつぶさに教えてくれていた。

 ずっとずっと昔のこと。

 私達がまだ武陽にやってくる、はるか昔、の出来事。


 記憶や想い出というのは本当にいい加減なもので、ほんの些細な事をきっかけに、眠っていたものを思い出させる。

 私が一番最初に神隠しに遭った、その直前のことも。

 

 故郷の村が飢饉で滅びるというその日、誰かの逆恨みで殺されそうになった私は、首を絞められ事切れかける刹那に、その人の頭を石で殴りつけていた。

 きっと事故や正当防衛と呼ばれる類のものなのだろうけれど。

 寄りかかる相手の血の暖かさと生臭さと、肉体が命を失っていく感触が思い出される。


 隠れ里のあの凄惨な出来事に、何だかひどく落ち着けていた訳だと、変な笑いが浮かぶ。


 血に染まる私を視る驚愕した両親の瞳。襲撃者が付けていた炎に私が巻かれている。

 本当はあの日、私は業火の中で死ぬはずだった。

 それが次の瞬間には幽世に拐われていて、現し世に戻れば果てしない時間が流れていた。


 何故今まで気づかなかったのだろうか。初老に差し掛かった両親たちの姿に疑問の欠片も抱かなかった。

 私がとんでもなく鈍いのか、考えたく、思い出したくなかったのか。

 古い記憶にはずっと、白い、霞がかかっていた。


 あの時代が大きく移ろう武陽にも新浜にも馴染めない訳だった。

 そもそもこの時代の人間ではなかったのだから。


「姫様」


 私を呼ぶキクロスの声に振り返る。

 この幽世の主が花畑に足を踏み入れると、小さな篝火の花弁が光を帯びる。その淡い光が幾つも広がって、幾つも舞いだして、蛍火の様に彼を淡く染める。

 現し世には決して存在しない幻のような光景。


「こちらにお出ででしたか。少し、探してしまいました」

「嘘。ここは、この幽世はあなたの世界なのでしょう。そんな場所で私を見失うとは思えない」


 口からするりとそんな言葉が紡がれていて。自分でも驚く。

 キクロスは私以上に驚いた顔を浮かべて、それから苦笑を浮かべる。


「お見通し、でしたか。しかし心配したのは事実ですよ」


 本心、なのか、誤魔化し、なのか。意図が読み取れない彼の言葉を聞き流す。

 風が、生暖かな空気を運ぶ。緑が続く野なのに、どこか乾いた風を感じながら、そっと話を逸らす。


「……ねぇ。この地平の果てまで続く花畑は、本当に果てまで広がっているのかしら?」


 ふと、疑問に思っていたことを口にしていた。


「さて、どうなのでしょうか。確かめたことはありませんから」

「…………そう」


 妖の幽世の世界を幾つも見て回って、思い至ったことがある。

 それは、彼等が皆一様に孤独を抱えているということ。

 妖に孤独という概念や寂しい、という感情があるのかも定かではないけれど。皆、何かを探しているかのような、或いは待っているかのような、そんな印象を受ける。

 手に入らないものを求め続けている。そんな孤独。


 この無限に続くような花畑の花弁の一つ一つが、彼のそんな想いがカタチになったもの。

 果てしのない時に、こんなに広大な花畑で、人の息吹のない廃墟のようなお城で、彼が抱え続けた孤独の深さは分からない。


「どうして私だったの?」


 言葉が勝手に紡ぐ。

 先日彼からその理由を聞いたけれども。やはり腑に落ちなかった。

 幽世が、孤独な彼が紡ぎ続ける世界。何かを想い、何かを待つ場所。

 この幽世に懐かしさを感じる。かつて訪れた場所と、よく似ている。でも違う場所。

 此処に、彼が想い、待ち続けるだけの。私との記憶があるとは思えない。 


「助けて、くれたことにはきっと感謝してるわ。……でも、どうして私を助けてくれたの?」

「やはり、貴女はいかに特別な存在か分かっておられないようだ」


 妖が私の問に答える。

 音もなく、幽世の色が強くなる。

 彼の周りに待っていた花びらが、彼の古い記憶を写し出す。


「……かつて偉大な王がいたのです。貴女と同じ、精霊を統べる力を持ち、数多の魔王を従えた偉大な王が。……あの方の末路は虚しいものでしたが、もし再びあの方の様な偉大な方と巡り会えたら今度こそ私の全てを差し出しお救いしようと誓ったのです」


 彼の背後には、随分と古い記憶が映し出されている。きっと何千という年月もの昔の記憶。

 それなのにひとつも色褪せることなく彼の中にある。

 

 柔和な顔の若者だった。私の記憶にある、最初の神隠しの幽世の主と同じ人。

 彼はやはり私と同じ様に、この美しい花畑の中にあった。

 そして足元に咲く小さな花を摘んで、その冠に携える。


 古い、古い。果てしないほど古い記憶。

 それでも、この妖にとってはいつまでも色褪せることのない鮮明な一瞬。

 きっと、その長い命の中で最も特別な瞬間。


「直に、私の友たちも貴女の下に馳せ参じましょう。どうぞ我らの忠誠を受け取ってください」


 恭しく。本当に恭しくキクロスは私に跪き頭を垂れる。

 忠臣が唯一の王に捧げるように。

 果てもなく探し続けた人にようやく出逢えた、そんな歓喜をもって。


「……それじゃあ私は、還る、ことは出来ないのね」


 自分の口から漏れた言葉に自分で驚いている。

 これほどの一大叙事詩を垣間見て。自分の境遇のみを案じる言葉が紡がれるのが信じられなかった。

 だからこそ、偽ることの出来ない言葉だった。


 ゆっくりと頭を上げたキクロスが首を横にふる。


「還れますよ。貴女がこの世界で出来ないことはない。本当に貴女が還りたいと望むのなら、ですが」


 その言葉に呆然としてしまう。

 私の様子を案じて、キクロスの周りを舞う花びらの光達が私を取り囲むように舞い揺れる。


 超常の幻想的な光景。それなのに、ずっと心の想いに私は囚われている。

 ”本当に還りたいのか”

 私自身の想いの筈なのに。私にはとっさに答えを出すことが出来なかった。


 心配なのか、慮っているのか。キクロスの心情に呼応して、篝火の花が赤い光を湛えている。

 深い、紅色の光。

 まるで緋毛氈の様な鮮やかな赤。暗い夜更けということも相まって、あの桜の樹の下で佇み続ける妖を思い起こした。

 何処にも行けやしない、来るはずもない人を待ち続ける。

 この幻想的な光景に、深い紅色に、彼女の姿を思い起こすのだった。

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