3-2 鬼類婚姻譚

 私が清春様の妻役を演じることが決まってからは、物事はとんでもなく早かった。

 結婚式まであまり時間がなく、解いたばかりの旅支度をまた整えて。春香さんから黒留を貸して頂き、白無垢を着る前に黒留を着るなんて、と笑い合ったりしながら、とにかく急いで荷物をまとめるのだった。

 どうして目配せをしてくれたのか。そんな疑問は心の隅にあるのだけれど。

 春香さんが意図してその話は避けていたから、敢えて私から聞くことはなかった。

 

 先の、川の主の時の様に何度も乗り物を変えながら、山間の村落を抜けて山道に入っていく。

 山里は本当に山深い土地にあるようで、集落が排他的な事もあって籠を伴うことは適わなくて、最後は二人並んで歩く事になる。

 ほとんど獣道も同然の路を行かなくてはならないから、心が折れそうになるのもしばしばだった。それでも、自分から申し出た事と奮い立たせ、笑いながら手を差し伸ばしてくれる清春様の手を遠慮なく取りながら、私達は目的の山里へと向かうのだった。

 そうしてふっと、景色が変わる。

 山間を越えると、小さな盆地が覗く。岩肌と木々だけの光景を抜けて、藁葺の家や山の斜面を利用した棚田など、人の気配がする景色が広がって思わず安堵が広がった。


「はー、長かった。やっと着きましたね清春さん」

「えぇお疲れ様です……舞香。ですが本番は此処からですからね」

「はい。頑張りますね」


 秘境に残る、古い集落の絶景に目を落としながら、そんな会話を交わしている。

 妻役を演じることが決まってから、私達は夫婦らしく見えるようにまず呼び方を変えるところから始めた。「あなた」と呼ぶのはまだ気恥ずかしく「清春さん」と私は呼んで。清春さんも私のことを「舞香」と呼び捨てるようになっていた。

 呼び方を変えた当初は「固すぎる!」と春香さんに叱られたものだけど、此処に至るまでの道中で大分自然なものになったように思う。

 

 絶景を前にして、少し休みたいだなんて思うけれど。ほんのひと時立ち止まっただけで清春さんは再び歩き出してしまう。

 表情に疲れは見えないけれど、視線が合うことはなくてどこか硬い雰囲気がある。

 何か声をかけるべきとも思ったけれど。

 聞き分けの良い妻を演じて。寡黙に歩みを進める夫の背中に、静かに続くのだった。


 

 集落の入口には、古の、戦国時代に造られたかのような木造りの砦門があった。見張りの男が、私達の姿を見つけると慌ただしく姿を消した。

 門前にまで至る頃には、物々しい雰囲気で大勢の人が詰めかけている。

 そっと清春さんの手が私を彼の背中に隠すようにして、そのギラギラとした侮蔑の視線から遠ざけてくれる。

 清春様が要件を伝えるけれど、村人はこちらに敵意ばかりを向けて一向に埒が明かない。

 早くも清春様が私を連れてくるのを渋った理由が分かった気がした。

 ”幻”と称される絹の生産地。排他的なのは覚悟していたけれど、ここまでとは。

 そんな押し問答を繰り返していた時。人波をかき分けるようにして、見上げるほどに大柄な体躯の人が私達の前に姿を現した。

 

 着流しに下駄履きという質素な出で立ち。ぼさぼさの目元まで隠れるような散切り髪の男。けれど、ただならぬ凄みがある。清春さんが時折見せる武士として剣呑な雰囲気と、春香さんの様な洗練された雰囲気。その両方を兼ね備えているかのような、近づきがたい圧倒される雰囲気を男は放っている。


「久しいな、清春」

「……あぁ久しぶりだな、有羅木」


 二人は知り合いの様で、アラキと呼ばれた大柄な方がにかりと笑ってみせる。清春さんも鋭い目のまま、口元を少しだけ緩めている。


「しかしお前も妻帯者だったとはな、ついに落ち着いたか。だが何故祝言に俺を呼ばなかった」

「仇敵を招待するのはお前くらいだ。妻の舞香だ。……一応言っておくが。彼女に何かあったら今度こそたたっ斬るからな」


 私を紹介する清春さんの言葉に慌てて頭を下げていて、続いた言葉に驚きを隠せないでいる。男の背後に控えている村人たちも同じようでざわりと、緊張が走る。

 お互いに不敵な笑みを浮かべてあっているから、それがお互いだけに通じる冗談だと理解るけれど、周りは堪ったものじゃない。

 冗談だと理解っていても、冷や汗が浮かぶ。

 そんな危険な雰囲気をアラキという男は笑い飛ばしてみせる。


「はっはっは。変わってねぇなお前は。だが戦争はもう終わったんだ。戰場の習いだ、俺も仇を取ろうとは思わねぇよ。まぁ今回は来てくれて感謝するぜ。何も無い所だがせいぜいゆっくりしてくれや」


 アラキが村人たちに私達が客人であることを周知する。

 それだけで一切の反論なく、清春さんの言葉は一向に聞き入れなかった彼らが、潮を引くように静かになって路を空けた。

 その真ん中を、肩で風を切って歩くアラキの後ろに従って、私達は集落へと招かれるのだった。


 

 集落、といってもこの山間の隠れ里は、ぐるりと木の柵で覆われていてちょっとした砦の様な様相だった。入口が戦国時代の砦門のような物々しい様子だったことも相まって、時代から取り残されたみたい。

 明らかに争いを想定した、戦うための砦。

 ”あまり気持ちの良い場所ではない”そう告げた清春さんの言葉を改めて思い返す。

 ただ内側から見ると、この木の柵がちょっとした鳥かごのようにも見えた。まるで村民を外には出さないような造りに。

 そんなことをあれこれと夢想している内に、ある大きなお屋敷の離れに案内される。

 

「しばらくはこの離れを使ってくれ」


 アラキはそれだけを言ってすぐに踵を返す。向かった先は隣の建物、御殿といっても差し支えないほどの大きなお屋敷。

 藁葺の屋根の粗末な家がほとんどの中で、そのお屋敷とずっと奥の神社だけが、武陽の大名屋敷の様に瓦葺きの立派な造りをしている。


「彼が今回の新郎ですよ」


 2人きりになると清春さんが静かにそう言って、軒先で旅の埃を払っている。アラキという男とは顔見知りで因縁浅からぬ仲であることは私でも伺えた。清春さんの顔はいつも通りに見えて、どこか緊張を保っている。

 どういう関係なのか、言葉が喉のすぐそばにまでやってきている。

 でも、清春さんの研ぎ澄まされたような横顔に。今、あの男との因縁を尋ねるのは違うような気がした。


「私、井戸を探してきますね」


 旅で泥だらけの足を洗うために桶と水を借りに行こうと清春さんに言付けて、するりと振り返る。その時だった。

 両手一杯に、水が入った桶を抱えた女性がこちらに近づいていて。彼女と目があった。

 私より少しだけ年上の、華奢な体躯の、綺麗な女性。


「こんにちは。あとで、水場の場所を教えますね。今はこちらを使って下さい」

「す、すみません。ありがとうございます」


 女性は本当に綺麗な人だった。

 透き通るような声も、柔らかな笑みもとても上品で。絹の着物を美しく纏って、人目でこの集落の名家の方と分かるのにわざわざ水桶を持ってきていただいて。汚れるのを厭わないもてなしの振る舞いは恐れ多いくらいだった。

 か細い手、一切日焼けしていないような白い肌や、不健康に見えてしまうくらい細い立ち姿に、幽世の住人の様ですらある様な人だった。

 

 清春さんが彼女にお礼を言われるから、確かにここに居る人なのだと失礼にも思ってしまう。

 とても美しいだけに儚さが際立ちすぎる人。

 そんな女性に、次の瞬間ぎょっとしてしまった。


 清春さんが水桶を受取り、式台に腰掛け、足を洗おうとした時。なんと彼女がひざまづいて清春さんの足を洗おうとする。


「やめてください、俺は結構ですから」

「ですが……」

 

 清春さんが、彼女を諌める。彼女はまさか拒否されるとは思ってもいなかった様子で、きょとんとしている。

 所変われば品変わる。そんなことわざもあるくらいだけれど、その習慣の違いは本当に驚いてしまった。

 私もお武家の家の娘ではないから正しい作法は知らないけれども。女中の方や小間使いの方が行うことはもしかしたらあるのかもしれないけれど、貴人が客の足濯ぎをすることは普通はないと思う。

 それに、清春さんの冷たい断りの申し出にも、少し驚いてしまっている。

 里に近づいてからずっと気が張っていて、アラキとのやり取りには鳥肌が浮かぶくらいだった。けれどそれを差し引いても、人の親切をこんなに無下にするような人ではない。

 私が驚愕に固まっている事に気がついて、彼女がはっと表情を変えた。

 

「すみません、世間のことには疎くって。父にお世話するよう命じられていたものですから。奥様がいらっしゃるのに、本当に申し訳ありません」


 深々と彼女が頭を下げる。慌てて私達が言葉をかける。


「頭を上げて下さい。謝って貰うようなことではないですから」

「そうですよ。こちらこそ折角のご配慮なのに」


 動転してそんな謝罪を清春さんに続いて口にしていて。ますます相手を困らせてしまっている。

 所帯なく、気まずそうに曖昧な笑みを浮かべている彼女の様子に、気の毒に思ってしまって。混乱した頭が思わぬことを口走っている。


「そうだ。水場を教えてもらえませんか?」

「え? ですが……」

「いいからいいから」


 そうして無理矢理に彼女を連れて、建物から離れるのだった。

 ご厚意を無下に断って恥をかかせっぱなしにするのも、押し切られて彼女が清春さんの足に触れるかもしれない姿も、どうしても見たくなくて。咄嗟にそんな言葉がついて出ていた。



 勢いのままに連れ出してしまって、宛もなく集落を歩いている。

 先頭を歩いても何処に行けばいいかも分からない。ただでさえ気まずいというのに、ホコリまみれの旅装姿の私と、絹の着物を身にまとった彼女とではあまりに不釣り合いが過ぎる。

 普段着に絹を使うなんて普通は考えられない。そんなことが出来るのは、武陽で幅を効かせるお金持ちか、余程の名家の子女くらい。

 そんな羨ましい視線と僻みがましい心持ちであることにはっと気づいて、顔を染めて気恥ずかしくなる。

 時勢に疎い私でも官営の大工場が出来たと聞いていて。生糸の需要と供給とが高まっていることは聞き及んでいる。周囲を見れば、蚕の餌となる桑の葉がそこかしらに植えられていて、蚕を育てるための、屋根を高くした高窓を設けた建物ばかりが広がっている。

 そんな光景にこの土地が一大産地であることに気がつく。

 貴重な品も、有るところには有るのだ。


「あの……」


 私が一人勝手に顔色を白黒していると、怖ず怖ずと彼女が話しかけてくる。


「先程は失礼しました、奥様。本当に私世間知らずで……」


 奥様、と言われて。きょとんと間抜けな顔を晒してしまっている。ここに私と彼女しか居ないから、自分のことの筈なのに、自分のこととは思えなくて。彼女が訝しげな顔を浮かべている。


「あ、すみません……奥様、と呼ばれるの、まだ呼ばれ慣れてなくて」


 正直に白状して。お互いに謝ってばかりなことに、互いに呆れ顔で苦笑を浮かべ合っている。


「自己紹介もまだでしたね。夜刀の……清春の妻の舞香です」

「有羅木の妹の繭良羅です」


 マユラと名乗った彼女が深々と頭を下げる。その拍子に美しい漆黒の髪が少し乱れて頬にかかっている。

 私なら不格好になってしまうそんな様子が、婉容な様子で。もう一度彼女の美しい姿に見惚れている。


「それで……舞香さん。水辺はこちらなので」

「あ、はい。すみません」


 おずおずとマユラさんが私を諭して。今度こそマユラさんに連れられて水辺へと向かう。

 彼女のか細い、華奢な後ろ姿に。あの偉丈夫な立ち姿のアラキさんの妹さんとは、俄には信じられないと思いながら。


 通された水辺は井戸ではなく小川だった。

 驚いているとマユラさんが補足をしてくれて。山間のこの集落には年中雪解け水が川に注いでいて、わざわざ井戸を掘る必要はないのだという。促されるままに川に足を付けると、とても冷たくて、でもとても心地の良い清らかな水で。更に促されるままに掬って口に運ぶと、本当に美味しい水で。この土地の自然豊かさに驚かされる。


 その時だった。何か派手な口論が耳に届く。

 先ほど歩いた門から集落へと続く道で、村人と思われる人たちと、少しやさぐれた雰囲気の一団とが口論を行っている。

 剣や槍を携えてお世辞にも身だしなみに気を使っているとは言えない、野武士のような一団。

 どうもこれ以上集落内へ入れるのを村人たちが拒否している様子だった。


「えっと、マユラさん。あの人たちは?」

「……兄の古い友人たちのようです。式には外界の方も招くのでその用心棒に、と。…………村の人達はあまり外の世界が好きじゃない方が多いですから、どうしても」

「そうだったんですね」


 マユラさんが少し表情を曇らせた様子でいる。がなり立てる音が耳に届く度に、びくりと身体を震わせている。

 繊細な方。

 すぐに洗い清めて、清春さん用の水を用意すると、早々にお屋敷の離れまで並んで水を運ぶことにした。

 彼らの声が遠くなると、少し打ち解けた様子になって、行きとは違って雑談が交わされる。

 

 マユラさんが尋ねるのは、やはり武陽の街のこと。蒸気機関車のことや、街の発展の様子、新浜の黒船のこと、そして西洋のドレスのこと。彼女は控えめな様子ながら興味深げに何度も相槌を打っている。

 村の人達は閉鎖的だと彼女は言ったけれど、その本人は私の拙い話に本当に目を輝かせていた。特にドレスの話は目の色を変えるように、熱心に頷かれていた。

 

 楽しい時間はあっという間で。離れに着いてしまうと、マユラさんは名残惜しそうに眉を顰めている。思わず「時間が出来たらまたおしゃべりをしましょう」と誘うと、ぱっと花が咲いたみたいに笑顔を浮かべられた。

 そんな約束を交わして、マユラさんは丁寧に何度も頭を下げながらお屋敷に戻っていくのだった。

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