深淵のイカー

 扉の先は深淵だった。

 常闇の如く太陽の光すら飲み干すようなどこまでも続く宇宙のように果てのない闇。

 そこは僅か一枚の岩扉を隔てただけにも関わらず何もかもが違っていた。

 空気は湿っぽく嫌に湿度が高く、匂いも聖堂内は異郷の香の香りに満ちていたが、洞窟内は何処か生臭い臭いが漂っていた。

 各々の持つ携帯端末や小さなライトによって照らし出された岩肌は、石質も軽く白い石灰岩等ではなく、黒くて硬い英人が見た事もない石だった。

 また、大聖堂内、いやそこへ至る通路すら異教の緻密な彫刻が隅々まで施されていたが、ここは彫刻どころか人の手が加えられた形跡さえ見えず、何十万年何百万、いやそれ以上の太古の昔から人の支配を受けていないように見えた。

 英人はその事に疑問を抱かなかった。

 何故なら、この空間に入ってから感じる本能的な恐怖、危機感が告げているのだ。

 あの地獄と化している大聖堂に戻りたいと。

 その思いは英人だけではなかった。

 皆、風の音や小さな光源に揺らめく己の陰、怯えた仲間の悲鳴にすら怯え、普段はあれほど威厳溢れた哲将ですら、小さな物音に過剰に反応するほど皆恐怖に支配されているのだ。

 英人を含め、皆何かの偏執病(パラノイア)を発症しているかのようであった。

 そんな、今にも集団ヒステリー中、明日香はしっかりとした足取りで英人の手を引き先を進んだ。

 その存在が、皆を正気の淵で踏み止まらせていた。

「止まって」

 突如明日香は小さな声で叫んだ。

 彼女は手で止まるよう指示を出すと、すぐさまライトを消して英人の頭を押さえ抱え込み共に岩陰に隠れた。

 他の者もそれに倣おうとしたん瞬間、岩に隠れて見にくい横道から黒い影が飛び出てきた。

「う、うわーーーっっ!!?」

 それは僅かな光源にヌメヌメと鱗を輝かせる人型だった。

「や、やめろっ!近づくなっっ!!」

 確かにそれは人型で動いてはいたが、どこか生きているようには見えなかった。

 動きは何処か硬く、何かが着込んでいるようでありながらも、それは鋭い動きで蛇のような腕で生き残りの一人を捕らえた。

「ひぃっ!離してぇっ!!」

 英人はその顔に見覚えがあった。

 食堂で英人と談笑し、螢には定価の数倍の値段で商品を売りつけたアキラと呼ばれた女性だった。

 その見知った女性をおぞましい爬虫類人が、鱗のついた剛腕で軽々と締め上げると頭上に高く掲げた時、彼女の持っていたライトがその姿を照らし出した。

 照らし出された蛇の顔は裂け、瞼のない眼孔からドロリと腐った肉汁が滴り落ちる。

「バ、化け物っ!?」

 隠れていた誰かがそう叫んだ。

 黄色く変色した瞳は、今にも眼孔から落ちんばかりに溶けかけ、傷ついた体は節々に蛆が涌き、動く度に腐汁と蛆がこぼれる。

「っ……っっ………っ!!」

 普通の人間であればすでに死んでいるであろう。

 少なくとも意識は失うほどの力で首を絞めている。

 しかし、アキラは島の住人。

 それも儀式に参加するほどの立場にあった。 

 つまり、彼女は不死だった。

 それが最大の不幸だった。

 ゴキンッッ!!

 アキラの首の骨が折れた。

 しかし、それでも彼女は死ぬ事はない。

「や、やm──」

 恐怖と混乱に思考停止していた英人が、我に返り声を上げようとした。

 しかし、それは発しきる前に明日香の手と彼女の強い視線によって阻まれた。

 腐敗した蛇人間は、アキラにその醜悪な顔を近づけゆっくりと口を開いた。

 英人も明日香も見ていた者は皆、アキラが生きながらにその化け物に食われると確信した。

 だが、そこへ助けに出る者は誰一人としていなかった。

「ひっ……」 

 アキラの顔がすっぽり入るほど大きく開かれた口から、ひどい悪臭と共にてらてらと腐汁を纏い、白く大きなウジ虫のような存在が顔を出した。

 それの体表は白く、油かそれともそれ以外の何かか、角度によっては光を浴びた部分がおぞましい虹色に輝き、のっぺりとした頭部はぶよぶよと醜く、しかし、その巨体をその太くて長い体で支えゆっくりとアキラの顔に迫った。

 アキラは、顔中を涙や汗、蛆虫より滴る汁でぐちゃぐちゃに汚しながら、折れた首を嫌だ嫌だと逃げるように振る。

 それを蛆虫の入った腐った蛇人間は力づくで無理やり押さえつけると、目と鼻の先までその蛆虫のぶよぶよと醜い頭部を近づけた。

「嫌だぁ──!?」

 蛆虫はその巨躯をくねらせ恥も外聞もなく、泣きはらし懇願する明日香の口へ無理やり自身を込んだ。

「──っっ」

「動いてはダメっ」

 嗚咽を漏らすアキラの体へ、蛆虫はズルズルとその太く長い体を侵入させていく。

 そのあまりにも醜く、悍ましい、冒涜的な光景に誰も動けずにいた。

 あまりにも無慈悲、あまりにも惨い。

 だが、自分でなくてよかった。

 そんな考えが誰の頭にも過り、仲間が悍ましい化け物により内部より犯され、穢されていくのを誰も見ている事しか出来なかった。

 どれほどの時間、彼女は凌辱を受けいていたのか。

 僅か数十秒が数時間にも感じられた凄惨な凌辱劇は、蛆虫がその醜い体を全てアキラの内部へと納めるまで続いた。

 終わりの合図のように今まで蛆虫が宿していた腐った蛇人間の体が、役目を終えたかのように崩れ落ちた。

 蛆虫の入り込んだアキラは、地面に叩きつけられる事なくその両足で立っていた。

 しかし、その目には光がなく、首は折られたままだらりとありえない方向を見ている。

 誰もがもう駄目だと思った。

 そんな時、小さくだが、アキラの声が聞こえた。

「い、嫌だ。もうやめて……誰か助けてぇ……」

 声は、折れ曲がった首の先、アキラの口から漏れ出ていた。

 それは本当に一瞬の儚すぎる希望だった。

 誰から見てもそれはもう手遅れだったのだ。

 すでに己の体ではなくなった体にアキラは恐怖の悲鳴と絶望に塗れた呪いの懇願をただひたすらに紡いだ。

 その口から垂れた唾液が、頬を伝い何も映さない瞳に至り。

 まるでそれは涙のように地面へと滴る。

 蛆虫の入り込んだアキラは、自身の口からこぼれる助けを求める悲鳴をBGMにひたひたと闇の中へと消えていった。


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