八題噺(寒い,鍋,鏡,堕ちる,絵画,憎たらしい,穿つ,舞い上がる)

 この街からが消えたのは、先週のことだった。いつも通りの時間に目を覚まし、ぼんやりとした視界のままカーテンを開いた僕を、遥かに穿った光はいつもより白く、冷たく、しかし妙に心地よかったことを憶えている。眩んだ眼が慣れたとき、視界いっぱいに捉えたのは灰色の街並みと、アスファルトのようなアオ空だった。


 色の消滅を発見してからは、家中のあらゆる物を見て回った。本棚の背表紙、花瓶に生けられた枯れかけの花、テレビの奥のモーニングショウ。何を見ても白か黒か、灰色ばかり。いくら細分化しても、ほかの名前で表せる彩色は見つからなかった。かえって面白いなどと呑気に思ったが、食パンの焼き具合が曖昧なのには困った。


 それならば少し街中を歩いてみようと、僕は使い古した鞄を手に取った。財布にスマホ、双眼鏡なんかを入れると、すぐにそれは一杯になった。そろそろ買い替え時だったか、なんてどうでもいいようなことを考えつつ、誰もいない玄関に「行ってきます」を残す。扉を開け、廊下から見下ろした街並みは、一本の鉛筆で描かれたモノクロームの絵画のようだった。



 マンションの階段をゆっくりと下り、川沿いの土手へ向かって歩いた。色が抜けたというだけで、いつも通る道もまるで映画のワンシーンのようだ。住宅街を囲った石塀に垣間見える解像度の低い生活感も、不思議とノスタルジーを醸している。生垣に至っては葉の一枚の陰影まで際立って、普段のミドリ色よりよほどかっこいいじゃないか、なんて思ったり。


 ……ふと、朝から誰にも会っていないことに気が付いた。僕以外の視界からも、色は消えているのだろうか。或いは、この街の外には色が残っていたりするのだろうか。道中で誰かとすれ違ったら、それとなく訊いてみるべきだろうか。しかし、どうも人と話す気にはなれないようだから、いっそ色を探しに彷徨してみようか。


 土手に着いて、すぐ横を流れる川も眺めてみたが、やはりただ薄い灰色に他ならなかった。透き通った川と茂った河川敷を見下ろして、晴天に舞い上がるサクラ色の吹雪。これだけ素晴らしく完成された構図でさえ、春の訪れを伝えることはままならないようだから、まだ肌寒い風と一緒に鼻で笑ってやった。


 すると、そんな僕をあしらうように、花弁の一枚が鼻先に留まった。手に取ってみると、あまりの薄さに指紋が微かに透けている。少しでも力を込めれば、コピー用紙のように容易く破れてしまうだろう。儚さという名のついた薄弱に、陶酔した脳味噌がぐらりと揺れる。憐みと、嘲りと、そして僅かな親近感を感じていた。




 あの日、僕が帰った家には、誰も居なかった。



 そういえば、今日は遊園地に出かけているのか。あんな誰も食べない寄せ鍋のような、ごった返した場所に行く気など起きず、素っ気なく断ってしまったが。今頃きっと、最後に乗るアトラクションにできた長蛇の列にでも並んでいるだろう。少しくらい帰りが遅れたって、何ら不思議ではないだろう。



 寂しいような、少し気楽なような。誰もいないリビングで一人、バラエティを見ながら夕食を摂る。食べ終わったら、風呂も沸かしておこうか。また大袈裟に褒められるのを想像してみたが、あまり悪い気はしなかった。



 久しぶりに一番風呂に入ったが、これはこれで心地が良いものだ。普段より熱い橙色の湯船に、新学期の疲れが融けてゆく。未だ誰もいないから、うろ覚えの歌を口ずさんでみる。風呂場に反響した虚勢は、湯気とともに霧散した。



 家中の電気を消すと、睡魔とともに宛てのない孤独感に襲われた。よほど酷い渋滞に見舞われているのだろうか、せめて電話の一本でも入れてほしいものだが。まあ、そのうち帰ってくるだろうから、風呂はまだ抜いていないし、玄関先の照明だけは付け放した儘だ。


 ――――でも、もしも。もしも何か――なんて。そんなこと、考えたってどうしようもないし、考える必要はない――考えたくなどない。きっとこんなのは、杞憂に過ぎないのだ。呼びかければ返事をしそうな暗黒の天井を睨んで、僕は頭から毛布を被った。


 そんなの、寝て忘れよう。そうだ。一度寝て起きれば、今日の明日はいつも通りの明日だ。何も変わらない、何も失わない、何もかもいつも通りの、普通の明日。非日常も特別も要らない、普遍的で、八百長で、くだらない明日が。



 それから僕は、目を覚ました。最後に寝てから起きるまでの間に、思い出したくないような日々を過ごしていたような気がするし、長い長い一つの夢を見ていたような気もする。ただ確かなことは、家族は未だ帰っておらず、僕の世界からは色が消えていたことだ。一体、皆はどこに行ったのだろうか?




 ――ふと我に返ると、先程まで荒んでいた風が穏やかになっていた。散った花弁は地べたに積もって、まるで雪景色だ。もう少し眺めていてもよかったが、無彩色の花見にはそれほどの面白みもなく、おもむろに歩みは進んでいた。


 色とりどりを探して、踏切を渡り、太い道路に沿って歩き、遂に歓楽街まで辿り着いた。団子屋にたかる観光客に、八百屋で賑わう地元の人間。白昼堂々の呑んだくれには、何の因果か、嫌悪感や憎たらしさの類を一層感じたが。果たして色という色は見当たらなかった。


 しかし、目障りな万華鏡のようなネオン看板も、色さえ抜いてしまえばただの板切れだ。そう考えると、多少は無色の生活も悪くないように感じたが、それがひと月もふた月も続いたならば、きっと僕は壊れてしまうだろう。やはり一刻でも早く、鮮やかなが見たくて仕方がなかった。



 次はどこに行こうかと考えながら、信号を待つ。海に行こうか、山に行こうか、とりあえずこの街の外を見てみるべきか。ひとまず駅へ向かって――いっそのこと飛行機に乗って、どこか遠くまで行ってみるのもいいかも知れない。あれもこれも、考えるだけなら無償タダだ。


 行き交う乗用車やトラックの色を想像しながら、最初に何色を探すか考える。透き通るようなアオか、眩しいくらいのキ色か、それとも......でももし、一色ずつしか戻らないとしたら、灰の色をした空を真っ先に埋めてしまいたい。それならやはり、近くの海へ行ってみようか。


 信号の色が変わり、横断歩道を渡る。白線に飛び乗って、暗晦あんかいに落ちないように、足を滑らせて転ばないように。足元を眺めていた視線をふっと上げた刹那、僕の右には車が走っていて、どうにも止まる様子はなくて。スロウモーションの交差点でただ一人、僕は空を飛んだ。


 痛みも衝撃もアスファルトに置き去りにして、景色が大きく弧を描く。黒と白が散り散りになって渦を巻くそれは壮観で、目の前の恐怖すらも忘れていた。撥ね上がった儘の僕の身体は、抗えない重力によって遂に振り堕とされた。全てが朦朧とする中、ただ真っ赤な赤だけが僕の視界を埋め尽くしていった。

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