第38話 萩原和佳子

 三月八日、春日の高校の卒業式の日、楠木は診療所を臨時休診とした。


「お客さんが来るんだよ」と言いながら、午前中いっぱいを使ってリビングを片付けていたので、珪はソファの上からそれを眺めた。片付けに参戦しようものなら「頼むから座ってて」と言われるため、手は出せない。


「そういや、春日は今日来んのか?」


「ああ、うん。春日も来る。卒業式がお昼に終わって、友達と打ち上げ行ってからだから、夕方か夜になるって言ってた」


「明日引っ越しだろ、あいつ。暇あんのかよ」


「珪も、来月には引っ越しだからな。準備進んでる?」


 こちらの引っ越しは四月末だ。先週、ようやくアパートを決めた楠木は、二人暮らしにしては随分と広い物件を選んだ。


「進んでる。つーか終わった。あとは直前に梱包するもんだけだから、やることねえよ」


「こっちの部屋はそうだけど、お前の家の方だよ。かなりあるだろ、荷物」


「あの家、売ろうと思う」


「はい?」


 楠木は素っ頓狂な声をあげて振り返ってきた。

 まとめていた生ごみの袋を縛ってゴミ箱に入れ、手を洗ってからソファに寄ってくる。隣に腰かけた楠木を見返して、珪は「だから」と続けた。


「もうこっちに戻ってこねえだろ。なら、管理できない中古物件持ってても邪魔だし。すぐじゃなくてもいいけど、お前が新しい仕事落ち着いて、時間できたら、どっかの不動産に売り払ってほしい。未成年じゃ不動産の売買契約できねえし」


「けど、」


「要らなくなったらすぐ売れって奏真に言われた。資産持ってりゃ何かの時に金になるからって。無駄な感傷で持ち腐れてても負債になるだけだし、現時点でほとんど帰ってねえんだから、手放すにはいい機会だろ」


 夏を過ぎた頃から、珪はほとんどこの診療所で暮らしている。奏真との家は、今は物置状態である。


 こちらの家を自宅と思えるようになった心境の変化を、珪は素直に受け入れている。


「お前ら親子そろって、情緒ないよなぁ……」


 楠木はどこまでも呆れたような顔をしていたが、珪の判断に否とは言わなかった。

「お前の家だから」と一任してくれるのは、放任ではなく信用である。


「あの家が売れたら多少まとまった金が入るだろ。それ元手にして、大学入って落ち着いたら、一人暮らししようと思う。すぐじゃねえけど、二年目か三年目か、どっかのタイミングで。奏真の金はまだあるけど、医学部六年通うとなるとさすがに目減りするし」


 未成年のうちは、養育者の目の届く範囲にいるべきだ。楠木の監護義務を考えれば同居が最善である。しかし大学に入った後は、少しだけ離れてみようと思った。


 今より確実に忙しくなる楠木の新しい職場を考えれば、いつまでも同じ屋根の下ですねをかじるわけにもいかない。


「あー……楠木と、同居が嫌なわけじゃない。ただ、ちょうどいい機会だし、俺も、いい加減、自立の準備しねえと、大学卒業後までお前の世話になる気はねえし」


 楠木の顔を見返して、珪は苦心しながら言葉を並べた。腹を割って話せと春日に言われて以来、なるべく楠木相手に言葉を尽くすようにしているが、今でも口下手は治らない。


 楠木の負担にならない形で、これからも縁を続けたいのだと伝えるには、果たしてどのような言葉が適当なのか。


 悩む珪を数秒眺めて、楠木は「うん」と笑った。


「わかった。ありがとな、珪」


 のほほんとした笑顔にほっとした。この顔で「わかった」と言う時、楠木は大抵、珪の言いたいことを汲んでいる。


 ミカンを取って来てそのまま休憩に入った楠木は、むいた半分を珪にくれながら、

「それにしても」と顎を撫でた。


「珪も、落ち着いたら、一人暮らしか。そうだよな、そういう歳だし、うん。大きくなったなぁ、そうか。……そうかぁ。俺が寂しくて泣いても気にするなよ」


「それは全く気にしねえけど」


「だよな」


 楠木は満足そうに笑った。


「お前のそういうとこは、俺に似たよ」


 ◇◇◇


 来客があったのは、夕飯時に差し掛かろうかという時間帯だった。

 チャイムが鳴って楠木が玄関に向かったので、珪はさっさと自室に引きこもった。

 話声からするに、女らしい。その声は玄関から廊下にあがり、リビングへと入って行った。


 楠木に女の影はなかったはずだが、引っ越しを機に所帯でも持つ気になったのか。まったく興味がないので話し声は聞き流して、珪は適当な本を取るとベッドに腰かけた。


 夕飯までまだしばらく、ここで時間を潰すことになる、はずだった。


「けーーーーい!」


 バン! とドアがぶち開けられた。飛び込んできた子どもが勢いのままに飛びついてくる。


「ぐっ」


「久しぶりやーん! 怪我もう治ったって聞いたよ、ほんまよかった! 相変わらず美人やな! あと、いいにおいする! 美人の匂いがする!」


 腹に顔をうずめながらスーハーと深呼吸を始めた結衣を、珪は渾身の力で引きはがした。


「何を、してんだ、お前は。人に飛びつくなって何度も」


「お寿司持って来たよ、お寿司! 一緒に食べよ! 珪呼んで来いっておにいに言われた!」


「春日も来てんのかよ……来客って誰だ」


 ハイテンションで騒ぐ結衣に引きずられ、否応なしにリビングへと行けば、見慣れた焦げ茶がダイニングテーブルについていた。その隣に、見たことのない女が座っている。


 ベージュのボブヘアの奥で、大ぶりのリングピアスが揺れていた。年齢は楠木と同程度だろう。白のカットソーに黒のパンツスタイルはキャリアウーマン然としているが、書類よりはビールが似合いそうな雰囲気である。


 慌ただしい結衣の騒音に、女が振り返ってきた。はっきりとした化粧で武装した強気な顔は、春日と結衣にどことなく似ていた。


 その目が、まるまると見開かれた。


「──あなたが噂の珪ちゃんね!? 京介と結衣がお世話になって! 噂通りの可愛さ! やだもう、ホントべらぼうな美人! マイナスイオン出てる!?」


 椅子から飛び上がって突進してこようとした女を、隣の春日がかろうじて止めた。猛進する女の服を引っ張って「待って! いきなり抱き着くとセクハラで訴えられるから待って!」と引き戻している。


「あれな、うちとおにいのおばさん。萩原はぎわら和佳子わかこ、年齢不詳、好きなものはたこわさとチーカマ」


「見りゃわかる、お前の血縁だな。人に飛びつこうとするのは血筋か?」


 椅子に押し込められた萩原の向かいに、楠木が座っていた。いつもの笑顔で手招かれたので、珪はひとまず楠木の隣に腰を下ろした。向かいの位置に春日が座っており、結衣は春日の膝によじ登って腰を下ろしている。


 穴が開きそうなほど凝視してくる萩原から視線も顔もまとめて逸らし、珪は「で?」と楠木に聞いた。


「この人、萩原さん。春日と結衣ちゃんのおばさん。今日はご挨拶ってことで、お寿司持って来てくれたんだよ。明日には引っ越しだから、最後にみんなで食べようって」


 促されてキッチンを見れば、カウンターの上にプラスチックの巨大な寿司桶がふたつ並んでいた。


「そうよ、おばさん奮発しちゃったから! 今日が関東最後の夜だからね! お世話になった珪ちゃんと楠木先生に、ちゃんと挨拶しなきゃと思ってたのよ。君には今回のことで怪我までさせちゃって、本当にごめんなさい」


 快活に話し始めた萩原は、最後に神妙に頭を下げた。根元まで綺麗に染まった髪色は艶があり、抜け目なく手入れされているそれである。


「お詫びにもならないだろうけど、これ、私からの罪滅ぼしね。受け取ってもらえるかしら」


 萩原は、足元に置いてあったバッグから、大判の茶封筒を取り出した。テーブルに置いたそれをスススと差し出される。


「何だよ、それ」


「お詫びの品よ。現金なんて下品なもの入れないわ。これは私がこの一か月をかけて作った力作」


「いらねえ。そこの馬鹿から腐るほど謝罪されてるし、もともと俺が売った喧嘩だし」


「いいえ。今はこの子たちの保護責任者は私なの。うちの迷惑に巻き込んだのだから、ここはけじめとして、せめて受け取ってちょうだい」


 毅然とした態度で、萩原は手を引かない。「もうケリもついた件ですし」と楠木が取り成して、軽く封筒を押し返したが、萩原はなお力強く珪に向けてそれを押しつけてきた。


「ええって、おばさん。そんなんしてくれんでも」


「良くないわ。今回の事件は、あの×××の××××を野放しにしてた私の責任でもあるんだから。速やかに××しておくべきだったのよ、あのクサレ×××」


「結衣の前で放送禁止用語やめて!」


 結衣の耳を塞ぎながら、春日が喚いている。

 封筒を挟んで押し問答を始めた三人を眺めやり、珪はとりあえず聞いた。


「で、何入ってんだよ、それ」


「よくぞ聞いてくれたわね! これはこの子たちの写真をまとめたアルバム『京介新生児期から保育園時期』、および『結衣新生児期ベストショット百』、どちらもハードカバー防水仕様よ!」


「なんでそんなもん作ってんの!?」


「えっ、うちのもある!? 見たい!」


「よし、もらう」


「うわあ、それは見たいなぁ」


 封筒を奪い取ろうと伸びてきた春日の手を、珪は手早くはたき落した。「いって!」と恨みがましく睨まれるが、これは珪に差し出された詫びの品である。春日が強奪して良い道理はない。


「いらんて! そんなもんが詫びの品になるかい!」


「なる。すげえ気になる、あとで見るぞ楠木」


「やめて! はずい! なんかはずい! 変な写真入れてへんやろな!?」


「変な写真って何よ。ちびっこの写真なんて大抵変なポーズして変なキメ顔して」


「やめて!!!」


 耳を赤くして騒ぐ春日から封筒を死守し、珪は自室に逃げ込むと、本棚にそれを突っ込んだ。

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