T氏

「優秀なヤツってどんなヤツやと思う?」


 私がまだ支店に配属されていたときのことだ。トイレで手を洗っていると、用を足し終えたT氏が背中越しに話しかけてきた。


 T氏は職場の先輩である。年次でいうと5つ上だが、私が大学に入るのに一回、出るのに一回失敗しているため、歳は3つ違いである。


 T氏は大変気さくで、面倒見のいい性格であった。右も左もわからない私に財務のイロハをたたき込み、いっぱしの融資担当を名乗れるようになったのは、間違いなく彼のおかげである。


 ただ、彼のポリシーとして若手の思考のプロセスを大切にしており、「自力で答えにたどり着く」ことを何より重要視していた。その傾向は業務範囲にとどまらず、こうして時折禅問答めいた問いを若手社員にぶつけ、回答に困る姿を見て悦に入る姿が度々目撃されている。


 Tさんみたいな人です。


 ペーパータオルで手を拭きながら私は答えた。先輩に対する返答としては多少ぞんざいだったかもしれないが、雑な対応ができるという関係性にT氏と私の絆があらわれていると思っていただきたい。


「……質問変えるわ。優秀の定義って何なん?」


 これ、色んな人に質問してんねん、となぜか得意気に続けるT氏の表情は、どこか少年のようだった。


 誰しもこの手の問いに心を躍らせる時期はあるものだ。「普通とは何か」「自分らしさとは何か」「どうして人を殺してはいけないのか」などなど、答えのない哲学的な問いを考えることに喜びを覚える、言い換えれば語源通り「知を愛する」ことの原体験はどんな人間にもある。もちろん私にもあった。


 ただ、この手の問いは中高生までに済ませる麻疹のようなものだと思っていたが、三十路になってもそういった感性を持ち続けるのは素晴らしいことである。哲学的原体験が早いから偉いというわけでもない。決して、T氏の純粋さを揶揄しているわけではない。


 さて、なんと答えるべきだろうか。

 だいたい、こういうことを聞いてくるときは自分なりの回答が決まっているものだ。


「もらってる年収とかですかねー」

「いや、金もらってても使えん奴山ほどおるやろ」

「たしかに。じゃあTさんはなんだと思うんですか?」

「俺はな、共感力やと思う」

「ほえー。なるほどー」


 これである。あとは「あなたの言葉で人生観が変わりました」顔をしながらタイミングよく顔を上下に振ればよい。私はこの手の問いにだいたいこうやって乗り越えてきた。


 しかし、相手は敬愛するT氏である。そんな忖度にまみれた応答はむしろ失礼にあたるだろう。全身全霊をもって彼の予想を裏切ってみせなければ。


 多分、「かわいい」の定義を考えるのと同じですね。


「……ほう?」


 T氏は眉根をよせた。どうやら予想外の回答だったらしい。


「かわいい」という概念が持つ性質の一つとして、その拡張性があげられます。漠然とした良さを表現する言葉ですから、非常に汎用性が高く、様々な概念と組み合わさることもできるため、適用範囲は時代とともに大きくなっていきました。ブサかわいい、キモかわいいなんてその最たる例です。


「……ほんで?」


「かわいい」はその対象の漠然とした良さを褒める言葉ですから、裏を返せば、何が良いのかわからないものさえも褒めることができます。ゆえに、その概念の拡張は原理上無限です。


「まあ、言わんとすることはわかるわ」


 つまり「かわいい」の最大公約数的な意味は「何がかはとりあえず置いといて、私はあなたを褒めようとしています」という意思表示と言えるでしょう。


「なるほどなぁ」


「優秀」という言葉も「かわいい」と少し守備範囲は違いますが、同様に漠然と何かを褒めることができるため、意味合いは拡張していく特性を持っています。


 多様性が叫ばれるようになった昨今はよりその傾向を強めることでしょう。テストの点数や業績みたいな定量的に測れるものもありますが、やはり定義を考えるのなら「かわいい」と同じように、「とりあえず、何か褒めようとしています」という意思表示だと捉えておけばいいんじゃないかと思いますよ。


 私が一通り詭弁を述べると、T氏は満足そうに頷いた。


「いやあ。流石やな。今までで一番深い回答やった。お前に聞いて正解やったわ」


 軽く会釈し、私はトイレを出た。T氏が上手に相槌をうつものだから、話し過ぎたかもしれない。相手が話を聞いてくれるとわかると無限に無駄話を話してしまうのは私の悪い癖だった。できれば30歳までには治療したい。


「おーい、ちょっと待ってや!」


 執務エリアに戻ろうとすると、後ろからバタバタと足音が聞こえた。振り返るとT氏がいた。小走りで私を追いかけてきたようである。


 何事かと軽く身構える。するとT氏は渾身のドヤ顔で言い放った。


「やっぱりお前は『優秀』やな」


 それだけ言うと、大変満足そうにT氏は私を追い越して仕事に戻っていった。

 私はしばし茫然とし、整髪剤で軽く逆立った彼の頭髪を見つめた。


 他にも彼とは色々あったのだが、これがT氏との一番の思い出である。

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