蠢くダマスクス
第39話 剣呑
「もう大丈夫なの?」
ナーディヤの驚きの混じった問いに、サービトは完治せずとも塞がりはした腹の傷を叩いて見せた。
「問題ありません。今日から復帰できます」
ナーディヤは疑わしそうにサービトの腹部を見やり、格子窓の凹部から立ち上がった。
「……それなら今日、一緒にカターダさんを尾行しましょう。サービトがいるなら計画の懸念点もなくなるわ」
この数日間、ナーディヤたちはクバイバート街区の異教徒に調査を任せ、情報を受け取るばかりで外出を控えていた。
全ては事実上クトゥブの部下という、カターダの立場故だ。
カターダがその立場を利用してナーディヤの動向を知るのは容易い。尾行は尾行されていると対象に気付かれた時点で失敗だ。しかも場合によってはカターダの背後にいる人物を探る必要も出てくる。
決してカターダに察知されるわけにはいかない。その為計画を練って機を窺い、慎重に時間を掛けてきた。
「今日、私は一階の部屋に籠るわ。その後部屋に入ってきた女中と入れ替わって外に出る。ウトバを屋敷に残せば、その忠実さのお蔭で使用人たちは私が外出しているとは夢にも思わないでしょう。それから変装したサービトと合流してカターダさんを尾行するの」
異論はない。カターダは午前中はフブズ屋で仕事をこなし、午後からズールとしての活動をすることが多いという。サービトは時間まで仮眠を取り、一足先にアル=アッタール邸を出た。
人の声や足音が聞こえない場所に移動して、ターバンを外して外套を頭から被って全身を覆う。それから身を屈めれば変装は完了だ。尾行そのものはクバイバート街区の異教徒が担当し、核心部への突入に限ってはナーディヤたちが行う手筈になっている。変装は最低限で問題ない。
やがて待ち合わせ場所に女中に化けたナーディヤが到着した。
「上手くいったわ。行きましょう」
その顔はヒジャブを巻いただけで露わになっている。しかしカターダを始め、ほとんどの人間はナーディヤの素顔を知らない。その程度の変装で十分だった。
カターダのフブズ屋の近くに待機して連絡を待つ。
「来たわ」
ナーディヤが一言そう告げ、二人は歩き出した。クバイバート街区の異教徒の案内はハヤブサを使う。カターダの頭上をハヤブサが舞い、ナーディヤはそれを目安に後を追った。
喧噪が、以前より殺伐としていた。
擦れ違い様に肩がぶつかった程度で揉め事が起き、店と客のやり取りは素っ気なく、あるいはやけに語気が強い。遠くに耳を澄ませば四方八方から騒ぎが聞こえ、平穏とは程遠い様相を呈していた。
「街の状況はどうですか?」
「……良くないわね。食料品の中でも特に小麦が高騰していて、その上小麦問屋が小麦を売ろうとしなくなっているの。しかも臨時に立てられたムフタスィブが小麦を安く売るように要請したのが問題で、事態はさらに悪化しているわ」
サービトにはいまいち理解できない理屈だった。
「普通、値段は下がるものじゃないんですか?」
ナーディヤは苦い顔で首を振った。
「値下げを要請したのは小売のお店だけよ。でもそのままだと小売の人は損をするから仕入先にも値下げを要求する。でも最近は輸送商人がベドウィンに襲われている影響もあって輸送費が高くなっているの。だから輸送商人は売買そのものを拒否して、それが原因で街に入ってくる小麦の量そのものが減り、却って値上がりが激しくなったのよ」
失策ではないだろう。今のムフタスィブは食料品の高騰を望むダマスクス総督の息が掛かった人物だ。さらなる高騰を招く為に故意に行い、ついでに世間への言い訳を用意したといったところか。サービトはそう当てを付け、マムルークの動きを訊ねようと口を開く。
そこで、ナーディヤの呼吸の乱れに気付いた。
足音に注意を向ければやはり弱弱しい。ここ数日外出を避けていたことで躰が休まったと思いきや、依然ナーディヤの体力は限界を迎えようとしていた。いや、数日休んだ程度で回復しないのでは既に限界を超えているのかもしれない。
ナーディヤは不治の病に侵されている──クトゥブの言葉が脳裏った。流石に止めるべきではないのか。その思いがサービトの胸に去来する。
「……カターダに気付かれる可能性も考えて、尾行は他の人に任せた方がいいんじゃないですか?」
「ありがとう」
ナーディヤはサービトを振り返って微笑んだ。それから唇を結んで前を見据える。
「私は何もできない。だからこそ、危険から逃げるわけにはいかないの。私が血を流して初めてみんなが着いて来てくれる。それにカターダさんがお父様を害する可能性があるなら、家でじっとはしていられない」
分かり切っていた答えを言わせ、余計に体力を消耗させてしまったとサービトは後悔した。それきりサービトは口をつぐみ、ただナーディヤの足音に着いていく。
「止まった。待機しましょう」
ナーディヤがそう言って間もなく、前方から揉め事のような激しい言い合いが聞こえた。かなり一方的に複数人が怒鳴り散らしている。
「製粉所の前に人が集まっているわ。恐らく抗議ね」
やがて騒ぎが落ち着いた。近くにいる野次馬の会話が聞こえてくる。やはり騒ぎの原因は小麦の高騰に端を発する抗議のようだ。間もなく、前方の喧噪が広がり薄くなっていく。
「カターダさんが宥めて解散させたわ。行きましょう」
尾行を再開した。しばらくして野次馬からも離れると、ナーディヤが神妙に切り出した。
「……やはりカターダさんはお父様の部下よ。そうでないと今の行動に説明つかない。お父様の部下として治安維持に努めているのよ」
「まだ判断できません。仮に総督の部下だとしても同じように収める理由はあります」
「……分かっているわ」
妙にナーディヤの歯切れが悪かった。カターダがクトゥブを裏切っている可能性とは別の何かに不安を覚えているように思え、サービトは疑問を口にした。
「何か心配でも?」
「……嫌な予感がしているの。でもそれが何か私にも分からない。きっとお父様が危ないから必要以上に危機感を煽られているだけだと思うわ。気にしないで」
確かに今日のナーディヤは冷静さに欠け、どこか思考が短絡的だ。しかしサービトが頭を働かせても思い当たる節はない。父クトゥブを心配するあまり根拠のない不安に襲われている、そう解釈するほかないだろう。
それからカターダはアル=アッタール邸のある街区を中心にして様々な場所に顔を出した。製粉所の時のような揉め事があれば諌め、乱暴狼藉を働いている者がいれば腕力で懲らしめ、怪我人がいれば介抱してその後の手配まで行う。そこに悪意は一片もなく、明らかにクトゥブの部下として一帯の平和を担っていた。
ナーディヤが胸に手を当て、深々と息を吐いた。
「カターダさんは裏切っていない。これはもう疑いようもない事実よ」
盲目のサービトではカターダの行いは視認できない。それでも辺りの喧騒が他の街区と比べて穏やかなのは感じ取れる。カターダがクトゥブの部下としてアル=アッタール邸周辺の治安維持に努めているのは事実だろう。
しかし、カターダがクトゥブの部下として活動している事とクトゥブを裏切っている事は矛盾しない。何より一つ大きな問題が残っている。
「では何の為に俺を誘拐したんですか?」
「……それは」
考えられる理由はいくつかあるが全てが曖昧で釈然としない。はっきりしているのは何をするにも手心を加えていた以上、カターダはクトゥブの影響下にあるという事だけだ。
「彼らの要求は一つ、大人しくしておけ、です。つまり俺たちに動かれては困るが、直接言って辞めさせる事のできない人間が犯人でしょう。それとカターダを動かせるだけの力も必要になります。思いつく人はいますか?」
「いないわ……いえ、そうね。カターダさんが自分の意思で行動しているのならあり得るかも。例えば止むに止まれる事情があって私たちを止めたいけど、お父様には逆らいたくない。つまり……カターダさんは誰かに脅されている?」
ナーディヤがそう呟いた時、サービトもその可能性に思い至った。現状で考えられる可能性はそれしかないだろう。カターダの裏切りはあながち間違いではなかった。
「報告です」
すぐ横で、聞き覚えのある少年の声が聞こえた。クバイバート街区の異教徒が伝令に使っている少年が、通行人を装って話しかけてくる。
「対象が民家に入りました。ですがその民家は我々がマムルーク絡みで怪しんでいた民家で、以前より大量の荷物が運び込まれていました」
「中身は?」
「不明です。しかしかなり量が多く、とてもあの民家に納まるとは思えません。おそらく地下倉庫があるのでしょう」
急にきな臭くなってきた。
「……近くで騒ぎを起こしてください。そうすればカターダさんは様子を見に外に出て来る筈。その間に私たちが中を調べます」
危険ではあるが、今日を逃せばどうなるかは読めない。サービトが何も言わないでいると、少年がサービトに何かを渡してくる。握りしめると剣の柄だと知れた。鞘に触れて短剣である事を把握して、サービトはそれを懐に仕舞う。
「危なくなったらすぐに逃げてくださいね」
頷き、少年は雑踏に消えた。ナーディヤたちはハヤブサを目安に目的の民家を突き止めて、近場で待機して時を待った。
通りから喧嘩のような騒ぎが起こり、あっという間に大事になる。触発されたように目的の民家も慌ただしくなってきた。すぐに数人の足音が表に出て来る。
「カターダさんたちが止めに行ったわ。今の内よ」
ナーディヤに続き、サービトもいつも以上に耳を澄ませて民家に入った。
中庭のない三階建ての民家は静まり返っていた。上階に続く梯子の先は薄暗く、物音一つ聞こえない。少なくとも地上に人の気配はなさそうだ。
サービトが頷いて合図を出すと、ナーディヤは部屋を仕切る垂れ幕をめくった。
「……下に続く階段があるわ。降りましょう」
ナーディヤが戻ってきてサービトの手を握る。相も変わらず病人のように細い手だが、心なしか火照っているような熱さがあった。やはりナーディヤは限界だ、そう思いながらもサービトは導かれるままに煉瓦で舗装された階段を下りていく。
一度も身を屈めることなく底に着いた。壁に掛けられたミスバに室内が照らされている。太った麻袋が所狭しと積み重なっていた。地下空間はそれだけに留まらず、左右にも通路が伸びている。
ナーディヤが麻袋に歩み寄る間に、サービトはさらに聴覚に集中した。反響する地下空間に異音は聞こえない。
「……小麦よ。ここにあるのは全て小麦だわ」
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