第29話 進展

 城塞の近くでしばらく待っていると、ウトバが変わらない姿で戻ってきた。

「やはり総督子飼いのマムルークのようです。クバイバート街区にいる他のマムルークも同様らしく、総督直々の命で動いているのだとか。それ以上の事は聞けませんでした」


 シャイフの悪い予感は的中していた。クバイバート街区は何かしらの企みに巻き込まれたらしい。

「退蔵と関係はあるのかしら」

 関係しているかもしれないし、また別件かもしれない。サービトが曖昧な返答をしているのを余所に、ウトバは城塞に目を向けた。


「先ほどのマムルークが二人で出てきました。どこかに行くようです」

 すぐに追った。マムルークたちは直線通りに戻る道中にあるスークを通り抜け、ハーン(隊商宿)に入っていく。


「先に行って責任者に話を通してきます」

 言ってウトバが走り出す。遅れてナーディヤたちがハーンに入ると、中庭の奥から責任者が大声で出迎えてきた。

「お話は伺っております。どうぞ二階に上がってください。お連れ様がお待ちです」


 管理人が腕で示した先でウトバが手を振っている。合流しようとして、サービトは唐突に郷愁に襲われた。ハーンの一階は倉庫だけでなく厩もある。そこから発する動物たちの獣臭、鳴き声や身じろぎから生まれる喧噪は、遊牧生活をしていた頃を無性に思い起こさせた。

 本来首長となる筈だったボズクルトを失った仲間たちは、今頃どうしているのだろうか。


「どうしたの?」

 ナーディヤに呼ばれ、サービトは我に返って二階に上がった。先に待っていたウトバが声を潜めて目の前の部屋を指し示す。

「ここです。隣の部屋を取りました。声が聞こえるかは微妙なところですが」

「ありがとう」


 ナーディヤたちは物音を立てないよう客室に入り、マムルークがいる部屋の壁際に移動する。

 微かに話し声が聞こえたが内容は判然としない。壁に耳を当てても変化はなく、ウトバは諦めて耳を離し、サービトだけが耳を澄まし続ける。


 視覚を失ったサービトはそれ以前と比べて聴覚が敏感になっている。それでもマムルークたちの会話が完全に聞き取れるわけではない。集中してようやく分かりやすい単語のいくつかが判別できる程度だ。


「中庭に戻って話を聞いてきます」

 ウトバがそう言って部屋を出ていく。ナーディヤは壁に耳を当てたそうな素振りを見せるも、最後はサービトに視線を寄越して大人しくなった。


 しばらくして、立ち上がるような音が鳴った。サービトは音を立てずに姿勢を変え、ナーディヤが声を発した瞬間首を振る。それでナーディヤは押し黙り、マムルークたちの足音が部屋の扉の前を横切っていく。

 少し待ってナーディヤたちが部屋を出ると、ハーンの出口付近でウトバが呼んでいた。


「追いながら話します」

 三人は雑踏に消えようとするマムルークたちを追っていく。

「出ていく時に話が聞こえたのですが、どうも総督は酒やハシシの売買に関わっていないようです。むしろ嫌っているような事を言っていました」


「そう言われてみれば、確かに総督は敬虔な方だったような。ワクフにも積極的でマスジドやマドラサ(学院)の修繕にもお金を出していると前に聞いたことがあるわ」

「その為マムルークたちは総督に隠れて酒やハシシを楽しんでいるようです。あいつらも今から買いに行くような事を言っていました」


 ダマスクス総督は善人である。そう考えるのは早計だろう。現に食糧不足を意に介すことなく穀物を退蔵し、それを解放するよう求めたムフタスィブを跳ねのけた。


「そちらはどうでしたか?」

「少し分かったことがあります」

 サービトがそう言うと、ナーディヤとウトバの視線が集まった。


「会話の内容はほとんど分かりませんでしたが、多分相手は商人です。それに喋り方に覚えがあります。絶対とは言いませんが、イルハンの訛りだと思います」

「ここの管理人に商人の事を調べさせてきます」

 そう言ってウトバが踵を返した。ナーディヤたちはそのまま尾行を続ける。


「イルハン国の訛りというのは本当なの?」

「奴隷になる前はイルハンの人間とも関わりがありました。今がどうかは分かりませんが、彼らがイルハンで育った人間なのは間違いないと思います」


 総督の指示でクバイバート街区を闊歩していたマムルークが、イルハンの商人と話し合っていた。この二つが無関係だと考えるのは難しい。総督が画策しているのは確かだろう。


「お父様と総督は仲が悪いらしいの」

「旦那様は総督のお目付け役だと聞きました」

「それもあるのでしょうけど、クバイバート街区に異教徒を受け入れる時にかなり揉めたと聞いた事があるわ。お父様は異教徒に寛容だから、総督が敬虔な方だとすれば辻褄は合う。恐らく総督は異教徒を嫌っていて、それが揉めた原因ではないのかしら」


 総督は気に入らない異教徒を追い出す為に何か画策している。そう考えるのが順当だろうか。やがてウトバが駆け足で戻ってきた。


「話をつけてきました。やはりイルハンの商人のようです。ハーンにいる間の情報は流れてくるようにはしましたが、管理人曰く普通の商人との事です。商人がイルハンに帰る際に追う事ができれば別でしょうが、私たちの力ではこれ以上掴みようがありません」


 ウトバの手を借りれるようになったとは言え限界はある。ナーディヤはウトバに礼を言い、前を進むマムルークに眼を向けた。

「それなら今はマムルークに集中しましょう」


 再び二組体制に戻り、交代しながらマムルークが民家に入っていくのを見届ける。

 離れていても笛や太鼓、弦楽器の音が響き渡り、大騒ぎする声が聞こえてくる。この民家が酒宴会場で間違いないだろう。


 先頭を行くナーディヤが足を止めてウトバを待とうとした時、サービトにだけ聞こえる声量でアスワドが囁いた。

「気を付けろ、マジュヌーンの気配がする。偽物じゃねえ、本物の方だ」


 言うが早いか、音楽が止んだ。

 悲鳴が上がる。男も女も声を上げて逃げ惑い、猛獣が暴れているような音が何度も起こった。まるで戦場だ。後方にいたウトバが猛然と走り寄ってくる。


「ウトバはお嬢様を。俺ならハラーフィーシュにしか見えませんから様子を聞いてきます」

 返事も聞かずにサービトは酒宴会場に向かった。このダマスクスの街にいる本物のマジュヌーン──サービトが知る限り奴らしかいない。女のマジュヌーンの集団だ。


「俺は何もしねえからな」

 アスワドが消え入るような声で呟く。サービトは民家の壁に手を着いてたどたどしく歩いて盲目である事を見せつけ、開け放たれた酒宴会場の入り口の傍に坐り込んだ。


「俺たちを誰だか分かってんのか! マムルークだぞ!」

 馬に頭を蹴られたような強烈な音が鳴った。それきり威勢の良い男の声が途絶える。気付けば女の悲鳴も止んでいた。喚き散らす男の声も収まっていき、表にまで血の臭いが漏れてくる。


「ハラーフィーシュのスルタンを知っているか?」

 女が誰かに訊ねた。男が震えた声で返答する。知らない、そう言い掛けて声が止まり、水音が散らばり重い物が落ちるような音が鳴った。


「お前は知っているか?」

「し、知ってる。だから殺さないでくれ。あいつは昔ハシシの売人をしてたんだ。嘘じゃねえ。俺があいつに捌かせてたんだ」


 瞬間、その男が声を上げた。腹を絞り上げるような声だ。呻きながらなんとか呼吸を繰り返し、思い出したように腰の抜けた嗚咽を洩らす。


「嘘ではないだろうな?」

「ほ、本当だ。数か月前、あいつがスルタンを名乗ってるところを見た。最近も会った。随分羽振りが良くなってた。間違いねえよ、あいつがハラーフィーシュのスルタンだ」


「ハシシを捌かせていた大本は誰だ?」

「アミール・スワイリフだ。でも数か月前に死んだ。そうだ、丁度あいつがスルタンを名乗りだした頃だ。あいつが殺したんだ」


「ここにあるハシシはどこで手に入れた」

「今さっき殺した奴だ。今日はただの客なんだ。これ以上は何も知らない」


「奥で隔離しろ。何としてでもハラーフィーシュのスルタンの情報を絞り出せ」

「分かった全部話す。話すから血を止めてくれ。躰が寒くなってきた。死にたくねえよ、なんとかしてくれ頼むよ!」

 胃液の混じったようなくぐもった悲鳴が上がった。人を引きずる砂擦れの音が遠くなっていく。また、別の男の尋問が始まった。


 どれだけ経ったのか。誰かが表に出てきた。

 軽い足音だ。それが、一直線にサービトに向かってくる。


「あなたに平安がありますように」

 そう言って、女はサービトの前に何かを置いた。女が離れていくのを待ってサービトはそれを手に取る。


 硬貨だ。

 それも盲目のサービトには分からないが銅貨だった。後に続いて出てきた女たちも全員がサービトの前に銅貨を一枚ずつ置いて去って行く。

「ふう……危機一髪だな」

 アスワドは無視してサービトは思考を巡らせる。


 女マジュヌーンの集団も新種のハシシやハラーフィーシュのスルタンを追っている。連中がマジュヌーンを狩っていたところを考えるに、偽マジュヌーンが目的だろうか。なんにせよマムルークを攻撃している時点でナーディヤとは無関係だろう。何よりナーディヤと関わらせるには危険すぎる相手だ。


 サービトは合流したナーディヤたちに、追っていたマムルークはハラーフィーシュやズールの争いに巻き込まれたらしいとだけ告げる。

 ナーディヤたちはそれをすんなり信じ、ひとまず報告の為クバイバート街区に向かった。

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