深入り
第28話 新たな協力者
ナーディヤたちが街の西部にあるジャービヤ門近くで待っていると、クバイバート街区の住人から接触があった。彼らがクバイバート街区から戻ってきたマムルークを追跡できるのはここまでだ。
ナーディヤたちはそれを引き継ぎ、城壁内を移動するマムルークを追っていく。
ウトバも離れたところからナーディヤたちを監視していた。以前も似たような光景があったが、その時とは全く状況が違う。今となっては酒宴に潜り込むのは不可能だ。無理にすれば今度こそ外出禁止を言い渡されかねない。
しかしマムルークに着いて回るだけでは成果が出ない。当然、ナーディヤは問題を理解しているだろう。サービトはあえて何も聞かず、ナーディヤの足音に着いていく。
マムルークは直線通りに面したスークを通って北上する。その先にあるのは城塞だ。喧噪が若干落ち着き、ナーディヤが足を止めた。しかしそれも一瞬、直ぐに歩みを再開する。
盲目のサービトには何も見えないが、それでも何があったのかは想像できた。尾行していたマムルークが城塞に入ったのだ。だからそれ以上は何もできず、ウトバに不審がられないようそのまま行き過ぎるしかなかった。
結局、ナーディヤには何の対策もなかったのだろう。たった一回の失敗で全てが終わるわけではないが、このままでは同じ失敗を繰り返すのは目に見えている。
解決策は一つだけあった。サービトはそれが何か分かっていたが、ナーディヤには何も言わなかった。言ってどうにかできる問題でもなければ、そもそもナーディヤ自身も解決策が何か分かっていると思ったからだ。
「戻りましょう」
ナーディヤが言った。ジャービヤ門へ行こうと来た道を戻る。
不意に、妙に騒がしい風が流れてきた。
明確な騒動源があるというよりも、直線通りを中心にして全体が騒いでいる。ところが祭りのような賑やかな雰囲気は欠片もなく、そわそわと浮付いて地に足着かない感じだ。
「だったらこれからどうなるんだ」「蓄えなんてほとんどないぞ」「今の内に買えるだけ買った方がいいんじゃないのか」「まだ分からないだろ。今慌てるのはバカのすることだ」
足早にスークを進む通行人が多かった。サービトはナーディヤに少し近づき逸れないようにする。
「これからどんどん穀物の値段が上がるぞ、間違いねえ」「総督は何を考えてるんだ」「ナイル川が増水してないんだろ? 原因はそれなのか」「マムルークのクソ野郎どもが」
直ぐ横を二人組の女が追い越していく。それを、ナーディヤが駆け足で追いかけた。
「すみません、何かあったのですか?」
「私もよく分からないんだけど」
女は足を止めずに言う。
「ムフタスィブが辞任したらしいの。それも総督様と揉めて辞めたとか」
ナーディヤは礼を言って振り返った。
「家に戻りましょう。何があったのか確かめないと」
急いでアル=アッタール邸に帰った。
街中と違って屋敷内は落ちついている。普段と変わらない様子で出迎えに来たヤークートにナーディヤが訊ねた。
「ムフタスィブが辞任したという話は聞いた?」
「はい。穀物を退蔵している総督に蔵を解放するよう要請したところ、拒否されたので激しく言い合いになり、最終的に辞任されたそうです」
「後任は?」
「任命権を持つのはカイロのスルタンただ一人。しかし正式な決定はしばらく先でしょうから、数か月は総督が任命した代理人が立つでしょう」
ナーディヤがニカブの下で歯噛みした。
「総督もムフタスィブも……二人とも何を考えているの」
良くない状況だった。
ナイル川の増水不足で穀物を初めとした食料品の値上がりが始まっていた。それを是正しようとしたムフタスィブが辞任したことで、その後任が総督の意を汲んだ人物になるのは間違いない。値上がりに拍車が掛かるのは確実だ。
値が上がれば上がるほど表に出てくる食料品の量は減り、さらなる高騰を呼ぶ悪循環に陥る。栄養不足で餓死する者も出てくるだろう。治安も瞬く間に悪化する。ただでさえマジュヌーン騒動やハラーフィーシュ、ズールの揉め事が頻発しているダマスクスの街にとって、この一件はあまりにも痛手だった。
ナーディヤが俯きながら自室に戻っていく。悠長にその行動を待っていられる状況ではなくなった。サービトはナーディヤを追い掛けて、二階に上がったところで声を掛けた。
「ウトバはそんなに信用できませんか?」
「後にして。しばらく一人で考えたいの」
言いながらナーディヤは歩いていく。
サービトはすぐ後ろに着いて話を続けた。
「彼がありのままを報告していればお嬢様は外出すら禁止されていた筈です。しかしこの通り自由に外を歩けている。何故ですか? 彼が真実を隠して報告していたからです」
ナーディヤは足を止めない。それぞれの自室に繋がる広間に入った。
「嘘の報告をしていたのがバレれば怒られるのはウトバです。最悪職を失うでしょう。その危険を冒してまでお嬢様が外出できるように嘘を吐いていた彼が、そんなに信用できませんか?」
ナーディヤは自室の前で足を止め、サービトに向き直った。
「……時間を頂戴」
言う事は言った。サービトは大人しく引き下がる。これ以上できる事はない。後はもう、ナーディヤが自分で考えて結論を出すしかない。
翌朝、ナーディヤは何も言わずにサービトを連れて外出した。しばらく歩いて振り返り、離れて歩くウトバに声を掛ける。
「私に協力してほしい」
待ち続けていた一言だった。
ようやく一歩進んでくれた。いや、一歩目はサービトに声を掛けた時に踏み出している。これは二歩目だ。サービトは安堵とともに、心が温かくなるのを感じた。こんな気持ちになるのはいつ以来だろうかと述懐する。弓矢の下手な子供が猛練習してようやく一本当てたと泣きながら伝えに来たときだろうか。
果たして、ウトバも虚を突かれたように口を開いて固まっていた。なんとか紡いだ言葉も形にならず、しどろもどろの声になる。
「私は今、マムルークの不正を追っているの。あなたにもそれに協力してほしい」
ウトバがさっと俯き頭巾を深めに被った。
「私はずっとあなたを避けていた。勿論、あなたを嫌っているわけではないの。ただ昔色々あったから信用できなかっただけで、あなたが私に良くしてくれていたのは分かっているわ。今までごめんなさい」
瞬間、ウトバがナーディヤに視線を戻した。
「止めてください。私は一介の使用人です」
「いえ、本当にごめんなさい。そして無茶を言っているのは承知で頼みます。私と共にマムルークの不正を暴いてください」
ウトバは姿勢を正した。常に見開いているような大きな眼で、ナーディヤを堂々と見据る。
「私は旦那様よりお嬢様を守るよう仰せつかりました。そしてその時から、私はお嬢様の配下として身辺警護を務めて参りました。何なりとお申し付けください」
ナーディヤはニカブの下で微笑み、全ての事情を話し始めた。
ウトバの理解は早かった。事情を説明し終えるとすぐに提案が上がる。
「それなら二組に分かれて尾行しましょう。お嬢様とサービト、私に分かれて交代しながらそのマムルークを尾行すれば、以前より気付かれにくくなります」
「分かったわ。それで行きましょう」
ジャービヤ門でクバイバート街区の住人から尾行を引き継ぎ、交代しつつ尾行を続けてたどり着いたのはやはり城塞だ。
ウトバの協力を得ようともこれ以上の尾行はできない。ナーディヤが諦めて踵を返そうとすると、ウトバがしたり顔で城塞にちらちら視線を送った。
「少し待っていてください。中に行ってあのマムルークが誰なのか聞いてきます」
ナーディヤが驚いたように声を洩らした。
「できるの?」
「私の父はマムルークでした。私自身旦那様に拾われる前はハルカ騎士団にいましたから、伝手を使えばなんとかなります」
「深入りはしないでね」
ウトバは大きな眼を細めて笑み、城塞の門に向かった。ナーディヤたちが遠くから様子を伺っていると、ウトバはすんなり城塞の中に通されていった。
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