第21話 斜陽の檻で眠れぬ夜を
傾いた日差しの中。夜と黄昏しか存在しない世界が楓の生きる場所。
腰に佩いた刀を揺らして、ぼろ布で顔を隠した楓は雑踏を歩く。がたがたと荷車が目の前を通り過ぎれば、アスファルトの上に溜まっていた土埃が宙を舞った。夕闇の街を薄汚れた姿の人々は行き交う。
ぼうと光って見えるのは、ひび割れたコンビニエンスストアの看板だ。けれど、そこに商品が並んでいるわけではない。誰かしらのねぐらだろう。商品がまともに販売されることを望むのなら、ここではなくもっと五星結界に近い場所に行かないと。
霊力を持たないからと、五星結界の中に住まうことを許されなかった人々は、少しでも結界の恩恵に預かろうと結界の周囲にいつの間にか身を寄せて、住処を作っていた。
道路、道、建物のすべては
空を見れば、すぐ向こうは夜。あのとろりとした漆黒の下で、
ごう、と強い風が楓の顔を隠していた布切れを攫っていった。マズいと思ったけれど、もう手遅れで。
「アマミヤだ!」
「アマミヤがいるぞ!」
石の
「参ったな……」
天宮楓はちょっとばかし、有名人なのだ。まともな教育を受けていない〝淵〟の人間でさえ、天宮という名を知っている。それが今のこの社会構造を作り上げた家であることも。無能であろうと、天宮の名が楓を
「……っ」
ぎりぎりと
「わかった、から……、ちゃんといく、から」
掠れた声で呟けば、絞め付けが僅かばかり緩んだ。生ぬるい風が吹きすさぶ。じきに夜が訪れる。それまでに、黄昏の境界を越えて夜の野に行かなければならない。最後の街明かりを通り過ぎて、廃墟ばかりが広がる夜に入る。
楓の仕事は、
蛍のような淡い星の光が揺れる。誰もいない夜の中に身を沈めて、
がさがさと草木が擦れる音がした。
楓は刀を抜いて駆け出した。耳元で風が唸る音を聞く。二十匹くらい大した数ではない。右から楓に向かって
斬って、斬って、斬って、斬って。動くものが己以外消え去るまで、手を止めない。頭から血を被っても、
再び黄昏が訪れ、
「汚いわね、もっときれいにやれないの? 無能のせいで服がまた無駄になったわ」
「すみません」
鞭が飛ぶ。容赦なく振り下ろされる鞭に楓の血塗れの服が余計に裂けて、楓の肌も切れていく。血が滲んでじくじくと。顔に当たれば、頬から血が飛んだ。倒れてしまわないよう、歯を食いしばって耐える。いつだって殺すつもりで暴力は振るわれる。彼らは楓が決して壊れないことを知っていた。
「無能、おまえはバケモノなんだ。そんなモノを置いてやっていることに感謝しろ」
「はい」
その答えが気に食わなかったらしく、先ほどの女に加えて男が楓の顔を殴り飛ばした。その時にはもう既に、鞭で与えられた傷は紅い痕だけになっていた。切った唇もゆっくりと再生していく。地面に頭をつけて震えながら息を吸った。
「あ、りがと、うござい、ます」
血の味を飲み干して、やっとのことで声を出す。最後にもう一度蹴られて、無様に地面を転がった。
そろそろと顔を上げて、立ち上がる。おぼつかない足取りで、孤児院の建物の脇にある倉庫へ。窓もない狭い檻のような倉庫で楓は毎日眠るのだ。くずおれるように倉庫の冷たい地面に座り込む。深く眠っては
黄昏と夜の
天宮楓は、十五年前──赤子のときにこの孤児院の目の前に置き去りにされていた。持ち物は、天宮楓という名前ひとつ。
楓は刀を抱きしめる腕に力を込める。狭い倉庫の中は本当に真っ暗で、果てのない闇の中に置き去りにされたような心地がした。遠くで子どもたちのはしゃぐ声がする。ずっと前はその輪の中に入ってみたくて、のこのこと外に出て行っていた。けれど、楓は無能だったから駄目だったのだ。
うとうとと浅く眠る。ほんの僅かな気配でも覚醒できるように。首が絞まるまで。
「行け、早く」
いつもよりも早い時間だった。楓は刀を持って倉庫を後にする。
指示された通りに野を駆けて、草原に出る。金色を通り越して、鮮血のように紅く染まる世界にただ独り。丈の長い草が揺れる草原はまるで燎原。夜の方からのそりと姿を現した
見上げるほどの黒い異形の生き物は、三つの目で楓を見下ろす。そして、草原に波紋を作るほどの咆哮を放った。紅い光の中、獣の黒は闇色を深め、光を吸い込んでいるようにすら見える。
「……っ!」
爪が伸びて、楓の立っていた地面を抉り取った。跳んで、抜刀。楓の黒髪が激しく翻る。
「硬いなっ!」
刀が身体に沈み込むのを剛毛が妨げる。ちょうど楓が刀を抜いた瞬間に、
「いッ……!」
苦悶を呑み込んだ。真っ赤に染まった脇腹は焼け付くように痛みを訴える。血をぼたぼたとこぼして、それでもなお楓が倒れることはない。さすがに抉られた傷は修復に時間がかかる。動きが鈍るのは避けられない。
けれど。
血を吐き出して、ゆっくりと息をする。それだけで身体中が悲鳴を上げる。無視して、迫りくる爪に合わせて地面を蹴った。爪を振るう勢いを利用して、獣の首に刃を添える。
風切り音を奏でて刀を振る。
もしも、こんなふうに斬り刻まれたのなら、楓も死ねるだろうか。終われるだろうか。
そんなことを考えていたら、背後から誰かが近づいてくることに気がつくのが遅れた。
遠くから人影が近づいてくる。濡れ羽色の長い髪がぬるい風の中に揺れていて。それは紅く燃える景色の中でさえ分かるほどに特別美しい少女だった。茫然と見入っていると、少女は楓を前にして
「──お迎えに上がりました。我らが最後の姫君」
ぽかんと楓は口を開ける。何を言っているのだろうと目をしばたたかせていると、少女は焦れたように立ち上がった。
「あなたが天宮楓よね?」
「あ、はい……、そうです、けど」
「私は木葉よ。おいで、楓。私たちはあなたを迎えに来たの」
「なにを、言って──」
今更、なにを。
ずっとずっと独りぼっちだった。無能はいらないと言われて。弱いから駄目だったのかと、強くなりたいと願った。
ある時から密かにやってくるようになった
けれど、違った。無能でありながら
何をしても足らない。何をしても、受け入れられることはない。
──天宮楓はヒトではないのだから。
やがて
そのはずだろう?
なのに、目の前で微笑む少女があんまりにも嬉しそうに楓を見つめるから、差し出された手を握ってしまった。人の手がこんなに温かいものだと知ってしまった。泣きたいくらいだったけれど、泣くことを忘れてしまっていたから代わりに笑ってみる。よかった、まだこっちは忘れてない。
木葉は楓を連れて孤児院の方へ向かった。近づくにつれて顔が強張る。
「大丈夫よ。もうあなたを傷つけるものは何もないわ」
夕闇の中、男が走って来るのが見えた。孤児院の人でないことは確かだ。彼らはあんなふうに必死には走らない。
「楓っ!」
懐かしい声がした。楓は目を見開く。木葉に劣らないくらい端正な顔立ちの男を忘れるわけがない。昔と同じ青みがかった黒い双眸は、けれど今は悲痛に歪んでいる。
「
目をまともに見れなかった。見捨てたくせに、と思ってしまう自分が嫌いだ。しかし、この
「ごめん、楓。ごめん。独りにしてごめん。謝って済むことでないことも分かってる」
ぴりぴりとするくらい痛い言葉だった。
「……いいんです。ボクは」
ぼそりと返した。その言葉に何も感じなかった自分自身への失望を隠す。これでは本当にヒトとは違ってきてしまっているよう。心さえ失っていたとすれば、という恐怖に胸がざわつく。
「がッはッ──」
突然首が絞まって、楓は地面に膝をついた。いつもより執拗に締め付ける首輪を両手で触れる。空気が欲しくて水から引き離された魚みたいに懸命に口を動かす。
「楓!?」
「獣用の呪具か……、やってくれるじゃないか」
「な、なんなんですっ! アレは無能でバケモノなんです! そんなモノをどう扱おうがあなた方には知ったことはないでしょうッ!?」
孤児院の職員がヒステリックに喚いている。
「ボコっていいわよ、みのる。天宮の姫君に手を出したことの罪の重さを分からせてあげなさい」
ボコッ、バキッ、メシャッなんていう間抜けな音がして、後には地面に伸びている職員たちが残される。それから、ぱんぱんと手を払っている
「楓、行きましょ」
「……どこへ?」
まばたきをすると、木葉は淡く微笑んだ。
「ここよりは少しだけ、マシな場所へ」
そうして楓は黄昏の下から連れ出された。まだ昇らない月を待たずに。
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