第31話 意思の力


 フェデリカがモモの魔法陣を起動させる様子を、私は横たわったまま眺めていた。

 ふわん、とモモの――ベルナールの体から、白い光が浮かび上がった。さっき、フェデリカが示してくれたよりは小さい。赤ん坊の頭くらいのサイズだ。中心に輝きを秘めた丸い繭、それが魂の印象だった。

 次に、リナの魔法陣が起動される。黒い犬の体から浮かび上がったのは、大人の頭サイズの白い光だ。モモの光と違うのは、獣と人間の違いなのかもしれない。


 フェデリカが私の魔法陣も起動させる。フェデリカの魔力に包まれる感覚とともに、強烈な眠気のようなものに襲われて、私は目を閉じた。

 次の瞬間、不意に体が軽くなったような気がして、すぐに目を開ける。視線を動かすと、隣に黒髪の少女が横たわっている。その奥には、毛足の短い黒い犬が伏せているのが目に入った。耳が垂れている……あれはモモの本来の姿か。私も自分の体を見てみた。長身で痩せぎすの体。鏡がないので顔は見えないけれど、もしも鏡があれば、焦げ茶色の癖っ毛が野暮ったい、ぱっとしない男が映るだろう。

 私たちはそれぞれの体の上に、少しだけ浮き上がっている状態だ。白い玉に重なるようにして、本来の姿が淡く光って見える。これは魂同士ならではの視界だと、フェデリカは言っていた。


「あれが魂か。……ってことは、今、あいつらの体から魂が抜けてんだよな。死んでるのとは違うのか?」

 私たちの様子を眺めながらセロが言うのが聞こえる。

「うん、見てごらんよ。みんな、ゆっくりだけど呼吸はしてる。ここでよけいな魔法は使わないけど、呼吸が乱れてないってことは心臓も動いてるんじゃないのかな」

 セロの隣でアロイが答えているのも聞こえる。

「あ、モモのが動き始めたな」

「ベルの魂、動きがにぶくない? なんかもっそりしてるよ」

 2人の実況を聞いていられる余裕はなかった。

 というのも、普通に起き上がるようにすれば大丈夫と言われていたのに、妙に体が重いのだ。いや、今は体の存在を感じていないのだから、体が重いというのは正確じゃない。なんというか……体に引っ張られる感じがする。


「人間の体から人間の魂が出るときに、一番、抵抗を感じると言われているわ」

 私の様子を見ながら、フェデリカが言う。

 だからか。モモもリナも、もう体からずいぶん離れている。モモの魂はふわふわと動き始めた。

 んぐぐぐぐっっ!

 力を入れて起き上がる。……力? 体もないのにどこに力が入るって言うんだ?

 そう思った次の瞬間、ぐっとまた体に戻されそうな気がする。まるで二日酔いの朝のようだ。起きようとしたのに頭痛に負けてベッドに倒れ込む時の感覚……いや、私は今、二日酔いなんてしていない。

 体がないのだから、意思の力でどうにかするしかない。どこに力が入るのか疑った瞬間に戻されそうになったということは、私の心の持ちようが影響するのだろう。これは頑張らねば。

 ふんぐぐぅっ!!


「フェデリカ、ちょっと聞いていいかな」

 声をかけたのはアロイだ。

「いいわよ」

「今、使ってるこの魔法は、実験的な意味合いってどのくらいの割合? だってこんなこと、前例はないんだろう?」

 話が気になる。気になるけれど、私がなかなか起き上がれないのも気になる。

「そうね。そういう意味で言うなら、ほぼ実験よ。でも、魂を出し入れすること自体は研究で何度かやってるわ。もちろん、魂の了承を得てね。だから、リナちゃんが使い魔の体から簡単に抜けられることはわかってた。モモも、獣の魂は人間の体に馴染まないから、簡単だと思ってたわ。問題は、人間の体に入っているベルナールの魂ね」

「んじゃ、失敗するってこともあんのか」

 そう言ったのはセロだ。不吉な!


「魂を繭で包んでさえしまえば、最悪の事態にはならない。それは確認済みなの。そして、今、わたしができる範囲内で、一番成功率の高い術式がこれなのよ。……成功率、なんてね。そんな言葉は好きじゃないけれど、でも、今はこれしかできないのだから仕方がないわ」

 フェデリカの声を聞きながら、私はなんとか体から起き上がった。少しだけ浮いた感じがする。下を見ると、さっきまで私が入っていたリナの体が横たわっているのが見える。

 実験でもいい! 成功すればいいだけだ!


「アオン!」

 モモの嬉しそうな声が聞こえた。

「モモ! すごい、ちゃんとモモの姿だね!」

 リナがモモの近くに漂っていく。リナもモモも、もうある程度自由に動けるようになったのだろう。私はようやく体から離れつつあるけれど、まだ、なんというか奥のほうで繋がっているような感覚がある。


 モモがぴょんぴょんとリナの周りを飛びまわる。今までのベルナールの体では、運動能力が足りなかったと言わんばかりだ。実際にそうなのだろう。私はそれほど運動が得意なわけではないし、得意だったとしても、犬と人間では身体能力に違いがありすぎる。


「ベルナール、あなたは話せる?」

 フェデリカの声に返事をしようとするが、声が出ない。喉の奥で何かが引っかかったように、息を吐き出すこともできずに、ただ口をパクパクとさせた。が、フェデリカのほうからは私は白い玉にしか見えていないはずなので、これも意味がないだろう。

「……体のほうの口が動いているわね。もう少し離れないと自由に話したり動いたりはできないわよ」

 フェデリカに言われて下を見る。私が声を出そうと思うと、リナの体の口元が動いた。まだしっかりと繋がっているということかもしれない。


 重い。ぬかるみに腹までどっぷりと浸かってるみたいに体が重い。

 それでもなんとか前に進もうともがくと、少しずつ動き始めた。

 アロイの声が聞こえる。

「モモの魂は一回り小さいから見てすぐわかるけど、リナとベルのは、大きさも同じくらいだし、見た目の違いはないね」

「そうね。人間の魂はどれもあんな感じよ。年齢も性別も関係なく」

 フェデリカが答える横で、セロが腕を組んでこちらを眺めているのが見える。

「でも今ならどっちがどっちかすぐにわかるな。リナの体の上でもぞもぞしてるのがベルだろ。中央、少し上でふわふわしてるのがリナだ」

「友人の魂がむき出しのまま、ぶるぶるしてるのを見ることになるとはね……」

 アロイとセロが揃って苦笑しているようだ。もぞもぞとか、ぶるぶるとか……仕方ないじゃん! どろっどろの粘液の中に放り込まれたようなものなんだから!


 じわじわと進み、少しずつ浮き上がる。体と距離をとれたことで、さっきよりも動きが軽くなる。

「ここまで来れば話せるのかな」

 声が出た。元の体と同じ声だ。

 ああ、懐かしい、覇気のないおっさんの声!

「ベルナール、どう? 動けそう?」

 フェデリカの問いに頷いてみせる。……が、フェデリカからは白い玉が震えたようにしか見えなかっただろう。

「うん、さっきよりは体が軽い。まだ、リナたちほどには動けないけどね。それにしても疲れたよ。体が……違うな、魂が引っ張られるようで、ぬかるみに全身はまっているみたいに動けなかった。すごく体力を使ったような気がする」

「そうね……」

 私の言葉に、フェデリカが真顔になってこちらをじっと見つめる。


「ぎりぎり動けたようでよかったわ。これ以上動けずに、あの場でもぞもぞを続けたら、魂がすり減るところだったかもしれない」

「え!? なんだよ、怖いこと言わないでよ……」

 魂がすり減るって、なんだそれ! どうなるの!?

「この術式も、使い魔の体に魂を出し入れするくらいならいいけれど、それ以上のことは改良が必要ってことね。もう少し、体の活動をぎりぎりまで抑えれば動きやすくなるのかしら……たとえば、擬似的に死の状態を作り出すような……」

「もっと怖いこと言ってるよね!?」

 思わず大声を出してしまった。その声に意識を引き戻されたようで、フェデリカが小さく咳払いをする。

「とにかく。ベルナールも動けるようだし、モモとリナちゃんも充分に離れたようだから、モモを誘導するわね。リナちゃんとベルナールはわたしの体にぶつからないように、もう少し離れてくれる?」


 私とリナはふわふわと結界の壁近くまで漂った。お互いに目を見合わせて、ふふっと笑い合う。

「なんか、変な感じ。ベルさんがあたしの体じゃないなんて」

「こっちも変な感じだよ。リナといえば黒い犬だったからね」

 リナが入っていた、黒い犬の体。今、フェデリカがその体にモモの魂を誘導する。両手で優しく包み込むように、モモの魂を引き寄せて、それをそっと犬の体の上に置いた。


 それまでモモの魂を包んでいた白い繭がほどけて広がり、ふわふわとした糸のようなものが犬の体の中へと入っていく。繭を構成していた糸はどんどんとほどけて、それはすぐに体に吸収されていった。繭が全部ほどけるまで、1分もかからなかった。

 最後に、繭の中心にあった光の玉が犬の体の上で溶ける。ぽう、と犬の体が一瞬だけ淡く光った。説明されなくてもわかる。今、モモの魂が使い魔の体に入ったんだ。


 私たちの魂もああやって、繭がほどけて、体に吸い込まれていくんだろう。

 フェデリカは、今回の術式は実験的な意味合いが強いと言った。それでも、私たちがこうやって繭に包まれていることで危険が少ないというのなら、私は成功に向けて努力するだけだ。まだ少し、体が重いような気がするけれど、きっと大丈夫。


 リナの強さを思う。突然この世界に呼ばれてしまって、しかも犬の体だったなんて。それでも誰かを責めることもせず、この世界で生きようとしている、たった13歳の少女の強さを思う。

 セロとアロイの強さを思う。前世での経験や仕事に関わらず、この世界でできるだけのことをしようと、立ち止まらずに努力と研鑽を続ける彼らの強さを思う。彼らの強さは後悔しないための強さだ。

 稀人が強いのは、死の記憶を乗り越えてきたからだと思っていた。でもそれだけじゃない。彼らはこの世界に転生したと知った時に、それでも生きようと思った。その意思の力が稀人の強さなんだ。

 それならば私にも、少しだけ真似ができるかもしれない。


 床に伏せていた黒い犬が、ゆっくりと目を開ける。パチパチと何度かまばたきを繰り返し、少し離れたところに浮いている私たち2人を見て、なんだか嬉しそうに起き上がった。

「ワン!」

 望み通りの体だと、言わんばかりの声。

「モモ……! よかった!」

 リナも嬉しそうに声を上げる。

 モモの耳がぴくりと動く。

 モモがリナに向かって嬉しそうに飛びついた。

「モモ!?」

 リナがあわてて避ける。ふよん、とリナの体が浮き上がる。

 そういえばリナは時々、モモに抱きつかれていた。


「ワフ!」

 ふわふわと浮かぶリナに、モモがじゃれつき始めた。モモの目から見て光の玉だということを考えれば、ひょっとしたら遊びモードに入ってしまったのかもしれない。

「モモ! こら、やめなさい! ステイ!」

 リナが声を上げるが、モモの遊びモードはなかなか元に戻らない。

「こら、モモ!」

 私も声をかけてみるが、この状態だと私の声は元のベルナールの声だ。モモにとっては知らない成人男性の声ということになる。全力で無視された。


「ベルナール、リナちゃん、早くお互いの体に戻って。モモを止めたくても、わたしたちが近づいたら、リナちゃんの魂がどこかに弾き飛ばされちゃうのよ」

 フェデリカの声。そうか、実体のある3人にどうにかしてもらうわけにはいかないのか。

「リードつけときゃよかったな」

「でもセロ、さっきまであの体にはリナが入ってたんだから、それもはばかられるよ」

 セロとアロイも、食べ物を出してみたり、食器を鳴らしてみたりしているようだが、どうにも効果は出ていない。

 フェデリカに眠りの魔法をかけてもらおうかと思ったが、そもそもここはフェデリカの結界内だ。普通の魔法は霧散してしまうだろう。


 モモに追われて、リナはふよふよと移動していった。私より自由に動けるとはいえ、普段とは違って、地に足がついていない状態だ。ふわりと逃げては、またモモにちょっかいをかけられて、思わぬほうへ流されていく。


「リナ! 駄目だ、そっちは違う!」

 リナが流された先を見て、私は声を上げた。

 確か、体に近づきすぎると吸い込まれると言っていた。さっきのモモの様子を考えるに、一度吸い込まれれば、無理に剥がすことはできないだろう。

 リナに手を伸ばす。実体のある人間は私たちに触れられなくても、魂同士なら問題はないはずだ。

 体は重く、まるで水の中を泳いでいるみたいだ。

「ベルさん!」

 リナも気づいた。今、自分がどこにいるのかを。リナのほうからも手を伸ばす。


 えい、くそ! 間に合えーっ!!



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