第9話 家族(アロイ視点)
僕がアロイと呼ばれる少年の体で目覚めたのは、8年前だ。この体はまだ7歳だった。日本での僕は28歳で人生を終えた。若くして厄介な病気にかかり、治療の甲斐無く、という形だった。
おそらくこれは先がないなと自覚したのは、命を落とすほんの2週間前のことだった。そもそも病気が発覚したのだって、その半年ほど前だ。何かを覚悟して受け入れるような猶予も何もあったもんじゃなかった。
若くして亡くなる人間はたまにいる。僕がたまたまそのうちの1人になっただけだ。何の偉業もなしていない、偉業どころか何かをやり遂げた大きな達成感みたいなものを覚えたこともない。何もかもこれからだと思っていた。家族だっていたし、付き合っていた彼女もいた。会社では営業職をしていたけれど、ようやく中堅と呼ばれるようになる年齢で、成績はおそらく中の上といったあたり。そろそろ転職活動でもしようかと思っていた矢先のことだった。
ごめんとか、ありがとうとか、家族に言えたかどうかも覚えていなかった。病院のベッドの上、薬が効いていてさえ体のあちこちにやむことのない痛みを感じていた。意識はもうとっくに朦朧としているのに、その痛みだけが僕の体の
「アロイ! アロイ!? よかった、気がついたわ!」
青空が目に映った。次に自分の顔をのぞき込む、金髪の若い女性が見えた。
「あ……ごほっ! げふっ!!」
声を出そうとした瞬間、盛大にむせた。喉の奥から水が出てくる。気づくと全身がびしょ濡れだった。
体は、もうどこも痛まなかった。
急に記憶が流し込まれる。自分がアロイという7歳の少年であること、目の前で心配そうにしている金髪の女性は母親であること、その母親の後ろで同じように心配そうにのぞき込んでいる焦げ茶の髪の男性が父親であること、家族で遊びにきた湖でボートから落ちた自分が溺れて死にそうになったこと。
けれど、目覚める前のことも覚えている。病気療養のためということで退職願を出した時に、休職にしておけばこっちでしてやれることもあるぞと言ってくれた上司のこと、何もできなかったねと言ったら、そんなことないよと言ってくれた母親のこと。
「ああ、神様……よかった」
こちらの世界の母親が、びしょ濡れの僕の体を抱きしめる。
「アロイ、よかった……」
こちらの世界の父親が、母親ごと抱きしめてきた。
アロイの記憶はある。この2人が両親だった記憶もある。けれど、僕はついさっきまで病院のベッドにいた、IT機器のリース会社勤務、営業職である28歳男性だ。
そんなこと、目の前の2人に言えるはずもない。見れば母親は自分と――自分の意識と同じくらいの年齢だ。父親はそれよりいくつか年上か。母親は濡れるのも構わず抱きしめてくるし、父親はもとよりびしょ濡れだ。おそらく、ボートから落ちた僕の体を助け出したのは父親なのだろう。
生前の自分が、親よりも先に死ぬという最大の親不孝をした自覚があるだけに、自分たちの息子が助かって喜ぶ両親に申し訳ない気持ちになった。
ごめんなさい、僕はあなたたちの息子ではありません。
ただ、アロイとしての記憶もあることが不思議だった。
ひょっとして自分はやはりアロイで、アロイとして生きてきたのに、溺れて意識が一瞬途切れたのをきっかけとして前世の記憶を思い出したのだろうか。
家に帰ってベッドに入るまでの間に、僕は前世という可能性を捨てることになった。
あの後、僕の新しい両親は僕を連れて馬車に乗り、
(馬車!)
付き添っていたメイドが魔法で僕の服を乾かし、
(魔法!)
自宅に戻ると、先生と呼ばれるおじいちゃんが事前に呼ばれていたようで、「大丈夫ですな。念のため回復魔法をかけておきましょう」と言うと、僕に何やら温かな光が降り注いだ。
(回復魔法!?)
いやいやいや、前世ではないだろう。世界中にインターネットが普及して、アフリカの少数民族ですらスマートフォンを持っている時代から、どれだけ時が流れたとしても馬車と魔法の時代になる想像ができない。
「アロイ、今日は大変だったね」
ベッドに入れられた僕の枕元に膝をついて、父親がゆっくりと僕の頭を撫でる。温かく、力強い手だ。僕の目を見つめる琥珀色の瞳は愛情に満ちている。
その愛情を受けるべきは、僕ではない。
「あの……僕は……」
なんて言えばいい。自分はあなたたちの息子ではない、でも息子の記憶をまるごと持っている、と? そんな話、誰が信じるのか。このまま黙って、息子のふりを続けるほうがこの優しい両親を傷つけないのではないだろうか。それに、息子じゃないならと家から放り出されても困る。なにせまだ7歳だ。
「アロイ?」
「いえ……」
そう、放り出されたら困るんだ。記憶をまるごと持っていれば、独り立ちできる年齢までなんとか演技することくらいできるかもしれない。
「僕は、本当のアロイじゃないと思います。アロイとしての記憶はおそらく全部ありますが、それとは別に、ここではない世界で28歳まで生きた記憶があります」
言ってしまった。
「な……にを、アロイ……まさか……」
当惑し、何かに気づき、そして絶望したような父親の表情。
カタン、と部屋の扉のほうで音がした。金髪の女性――母親がそこに立っていた。
「あの、私……先生をお見送りして……それで、あの……アロイに何か欲しいものはないか聞きに……」
彼女はか細い声で呟くように言いながら、そのまま力が抜けたようにすとんと床に座り込んだ。
僕は思わず、ベッドから身を起こして目の前の父親と戸口の母親に頭を下げる。
「申し訳ありません。ただ、お伝えするのは早いほうがいいかと思いまして」
自分がどんな感情を持てばいいのかわからなかった。だから咄嗟に出たのは仕事の時の口調だった。お取り込み中のところ恐縮です、と言わなかっただけマシだ。
自分が死んだことすらまだ飲み込めていないのに、これはちょっと急展開すぎる。
「君の、本当の名前は?」
父親が少し悲しげな目で見つめてくる。
「ケント、と言います」
「そうか、ケント。稀人になったということは、君は以前の世界で命を落としてここに来たのだろう。そして親しい者たちと別れて来たのだろう。……私たちも同じだ。今日、私たちは愛する息子と別れた。同じ瞬間に死によって引き裂かれ、残してきた者と残された者だ。我々は、しばし悲しむ時間を共有しよう。私とマリーはアロイを思って泣く。君も家族を思って泣きなさい」
父親はもう一度僕の頭を撫でた。息子ではないと知ってなお、温かいその手で。
それは僕の……ケントの父親の手を思い出させた。子どもの頃、時々撫でてくれた手。中学の頃、親に隠れて煙草をいたずらしようとして怒られたげんこつ。大学の頃にはたまたま親父のスーツからキャバクラの名刺を見つけてしまって、母さんには黙っててくれと1万円札を握らせてきたこともあった。そして僕が死ぬ間際は、何も言わずにそっと頭を撫でていた。
ああ。もう会えないのか。
涙がこぼれた。
僕は死後の世界なんて信じていなかったから、残されるより残していくほうが気楽だと思っていた。死ぬことは、手術で全身麻酔をかけられる時のように、ふっと意識が途切れたらそれっきり何も感じない闇に包まれていくだけだと思っていた。
死んでなお、残してきた者たちのことを思ってこんな風に泣くなんて。
アロイの父親がゆっくりと立ち上がり、戸口に座り込んだままの母親のもとへ行く。
「マリー、さぁ立って。私たちはまだ幸いだ。アロイの全てを知る人物が、アロイの姿形を生かしてくれる」
「ええ、ええ。わかってるわ、スコット。でも……」
こちらの世界の死生観はよくわからない。ただ、自分の子どもの死というのはなかなか割り切れるものではないだろう。
僕のベッドから少し離れたところにあるソファに2人が並んで座る。互いを慰めあうようにして悲しみに浸る彼らを見て、僕の、ケントの両親も今頃あんな風に過ごしているのかと考えると、悲しいより申し訳ない気持ちになった。
ひとしきり涙をこぼすと、少し落ち着いてきた。そうなると急に気になってくる。
稀人、ってなんだ。
さっき、アロイの父親は、稀人になったということは、と言った。僕が急にアロイじゃないと言っても笑い飛ばしもせず、何もかもを信じて、それを稀人になったと言った。
「あの……お父さ……いえ、スコットさん?」
母親のほうはまだ悲嘆に暮れているが、父親のほうは少し落ち着き始めたようだ。それを見て、そっと声をかける。
「君さえよければ、お父さんでかまわないよ。ぜひそう呼んでほしい」
ソファから立ち上がってベッドに近づいてくれた父親がそう言って微笑む。
「じゃあ、あの、お父さん。稀人というのはなんでしょうか。アロイの記憶にもないようで……」
「そうか、アロイにはまだ教えていなかったかもしれないな。稀人というのは、ここではない違う世界の魂が、こちらの体に宿ることを言うんだ」
父親がこの世界の稀人のことを説明してくれる。体の記憶や魂の記憶についても。
なるほど、やはりこれは転生で、そう頻繁に起こることでもないが、こちらの世界ではそれなりに認知されている現象らしい。
そこでクラウドですよ、と自分が客先で説明している声が脳裏に浮かんだ。データをクラウド上にアップしておけば、出先でスマホやタブレット、ノートパソコンからもアクセスできるし、万が一、パソコンが壊れてもデータを失うことはありません――つまり、魂の記憶というのはクラウドデータなのかもしれないと思う。そして物理端末にあるのが体の記憶なのだろう。僕は今、アロイという端末でケントのクラウドデータを利用できる。端末にはアロイの記憶が残っているからそちらにもアクセスできる。
「そういえば、アロイは来月から初等院に入学するはずだったが、どうする? その予定でいいかい?」
父親がそう聞いてくる。
「僕は、このままこちらにいていいんですか?」
「もちろん。私たちはアロイの体を生かしてくれて感謝しているんだ。一緒に暮らして、時々アロイの記憶の話をしてくれると嬉しい。ただ、稀人は別の世界で高度な教育を受けている者も多いと聞くから、初等院からでは申し訳ないような気がしてね」
アロイの記憶を探るに、初等院というのは小学校のようなものらしい。読み書きや簡単な計算、魔力の扱い方などを学ぶ場所だと……魔力!? そうか、魔法が普通にある世界だったか。
魔法か……。さっき、おじいちゃん先生がかけてくれた回復魔法。あれがあったら、僕は日本で死なずに済んだのだろうか。僕自身は偶然、生の続きとも言える運命を得た。でも向こうの世界で僕を見送った両親はこのことを知らない。
「ぜひ、学校に行きたいです。内容によっては飛び級してしまうかもしれませんが、僕の世界には魔法がなかったので、その点だけでも興味深いです」
「わかった。……ケント、魂の年齢はどうあれ、君の体は7歳の子どもだ。よければ私たちに面倒を見させて欲しいし、その……君さえよければ、家族のような関係を築ければいいと思っている」
父親が遠慮がちに手を差し出してきた。
「僕のほうこそ。あの……中身が28歳の息子でもよろしければ。それに名前も、もしそのほうが混乱が少なければアロイのままで」
僕たちは互いに何かに遠慮しながら握手を交わした。
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