第54話

 私たちは裏通りにある喫茶店に入り、一息ついていた。


「はぁ~。東京って怖いところなんだねぇ」


 マスターがクスリと笑って応える。


「人が多いと、どうしてもたちの悪い人間も増える。

 彼らは弱いものを見つけるのが得意だからね。

 朝陽あさひたちみたいな女子は、ねらい目なんだよ」


 秀一さんがコーヒーを飲みながら告げる。


「ま、俺たちが来たからには安心だ。

 お前ら、買い物でかなり小遣い減ってるだろ?

 この店は俺たちが持つから、好きなもんを頼め」


 早苗さなえが「悪いよ、そんなの!」と告げた。


 私はメニューを見ながら告げる。


「いやぁ……ここは秀一さんのお言葉に甘えたいかな」


 メニューに並んだ金額は、ちょっと驚く値段になっていた。


 これが、都会の値段……っ?!


 観光地価格と変わらないじゃん!


 こんなところでご飯を食べたら、お財布が空っぽになっちゃうよ。


 歩美あゆみがマスターに頭を下げていた。


「マスター、本当にありがとう。

 あのままだったら、どうなっていたか」


 マスターがニコリと微笑んで応える。


「足が震えても頑張っていた歩美あゆみさんの勇気、立派だと思うよ。

 でも無理はいけない。

 ああいうときは、話を聞かずにすぐに逃げるんだ」


 秀一さんが手を挙げて店員さんを呼んだ。


「そらそら、のんびりしてるとバイトの時間になるぞ。

 早く何を頼むか決めておけ」


 私たちはあわててメニューに目を走らせ、目を奪われながら注文を決めていった。





****


 喫茶店を出た私たちは、秀一さんに連れられて渋谷を歩いて行く。


 綺麗な顔だけど、背が高くて髪が紫の秀一さんは、見た目がちょっと怖い人だ。


 黒いタンクトップに柄物の半袖シャツで、体付きはがっしりしてるし。


 彼が先頭を歩くと、面白いくらいに人が避けていく。


「うわ、便利……」


「ハハハ! 神は恐れ敬われるもんだ。

 人を追い払うくらい、簡単なもんさ」


 辺りからは色んな人の声が聞こえる。


 日本語も、そうじゃない国の言葉も。


 早苗さなえが秀一さんに尋ねる。


「ここはどこなんですか?」


「そろそろ文化村通りだ。

 そこを渡ってセンター街を見て回るぞ」


 ――渋谷のセンター街!


 私たちはちょっとテンションを上げながら、秀一さんの後をついていった。



 センター街にはやっぱり都会らしいお店がいっぱいあった。


 大きなショーウィンドウの中に、綺麗にディスプレイされた洋服やバッグ。


 可愛らしいファッションのお店や素敵な雰囲気のカフェ。


 路上で歌う人たちと、それを取り囲むようにする人たち。


 漫画で見たような光景や、テレビで見たような活気が押し寄せてくるみたいだった。


 秀一さんはここでも大活躍だ。


 彼を一目見た人は、あわてて目をそらして避けていく。


 うつむいてスマホを見ていた人も、気配を感じるのか顔を上げた瞬間に飛びのいていた。


 遠くでは秀一さんを撮影しようとしてるのか、スマホを向けて小首をかしげる若い子たちもいる。


「なんでスマホを見て、困ってるんだろう?」


「今の俺たちは機械に写らん。

 スマホで撮影しようとしても、歩いているのはお前たち三人だけだ。

 それで首をかしげてるのさ」


 それ、怪しげな心霊現象とか言われないのかな……。


 秀一さんが楽し気に笑った。


「ハハハ! 目撃証言しかなければ、どうにもならんよ」



 スクランブル交差点まで辿り着き、そのまま渡っていく。


 向こうから来る人たちは秀一さんを大きく迂回するように歩いて行く。


 私たちは行きと同じように、誰にもぶつからずに渋谷駅前に着いた。


「ほんとに便利だな……」


「ハハハ! またここに来たければ、いつでも同行してやるぞ?」


 いや、それはさすがに悪いかな。


 女子だけで遊びたい日もあるし。



 楽しげに笑う秀一さんが、改札まで案内してくれた。


 マスターが私たちに告げる。


「僕らはここでお別れだ。

 喫茶店で待ってるから、まっすぐ帰ってくるんだよ?」


「え?! それはどういう――」


 私が言い終わる前に、マスターと秀一さんの姿が掻き消えていった。


 早苗さなえが唖然としながらつぶやく。


「もしかして今の、幻だったのかな……」


 あー、そういえば『カフェ・ド・ビジュー・セレニテ』も、マスターの幻なんだっけ。


 幻を飛ばして、助けに来てくれたのかな。


 歩美あゆみが小さく息をついて告げる。


「どうでもいいわ。早く電車に乗りましょう。

 次の電車を逃すと、駅からダッシュすることになりかねないわ」


 ――おっと、それはちょっと嫌だな。


 私たちは改札を通り、横浜方面に向かう列車に乗りこんだ。





****


 潮原しおはら駅に着くと、私たちは真っ直ぐお店へ向かった。


 カランコロンとドアベルを鳴らして店内に入ると、カウンターの中からマスターが笑顔で迎えた。


「お帰り。丁度シフトの時間だよ。

 ギリギリ間に合ったね」


「はーい! すぐに着替えまーす!」


 スタッフルームに荷物を持って駆け込んで、手早く着替えていく。


「ちょっと買い物し過ぎたかなー?」


 早苗さなえが楽し気に応える。


「せっかく渋谷に行ったんだし、これぐらい買わないと!」


 歩美あゆみがうなずいて応える。


「バイトがあるから、普段は行けないものね」


 私はおずおずと二人に告げる。


「別に、二人は無理に土日シフト入らなくてもいいんだよ?」


 歩美あゆみがフフンと笑みを浮かべて応える。


「あら、マスターの美貌を独り占めしたいの?

 ほとんどお客さんが来ないお店でじっくりとイケメンを堪能できるのよ?

 渋谷に行くより楽しいわ」


 早苗さなえは手早く着替えを終えて応える。


「まーでも、たまに行くなら面白いところだったね」


 早苗さなえが先にスタッフルームを出ていき、歩美あゆみがそれに続いた。


「わー! 待ってよー!」


 少し遅れて、私もスタッフルームを飛び出した。





****


 歩き疲れた足をカウンター席で癒しながら、マスターの入れてくれたコーヒーを飲む。


 店内に流れる音楽を耳にしながら、私はマスターに尋ねる。


「ねぇマスター、いつもお店で流れてる曲って、なんていうの?」


「んー? 五十年くらい前のジャズだよ。

 僕はサックスの情感豊かな音色が好きなんだ。

 静かだけど、演奏者の熱い叫びが聞こえてくるような音色でしょ?」


 うーん、そう言われればそう聞こえるような……。


 でもやっぱりわからないかなぁ?


 マスターがクスリと笑った。


朝陽あさひの趣味とは、少し違うのかもね。

 若い子はもっと、わかりやすい音楽が好きみたいだし」


 む、子ども扱いかな?


 でも大人びた感じがする曲は、聞いていて心が落ち着いて行く。


 ……今日のお兄さんたち、怖かったなぁ。


 都会の女子は、ああいう人たちをどうやって避けてるんだろう。


 マスターが洗い終わったカップを拭きながら告げる。


「都会の子はね、隙を見せないように気を付けてるんだ。

 でも東京に初めてくるような子は、どうしても隙が見えてしまう。

 そういうのを食い物にする連中がいるだけだよ」


「そっか、隙を見せないように気を付けないといけないのか。

 それって東京の女子は、すっごい疲れるんじゃない?」


「そうかもね。

 潮原しおはらぐらいの街は、そこまで気を付けなくても大丈夫だけど。

 そういった地域から東京に行くと、ちょっと危ないんだ。

 自分たちが『狙われる獲物』だっていう自覚が薄い子が多いからね」


 歩美あゆみがコーヒーを一口飲んで、一息ついた。


「働くようになったら、そのくらいの心構えが必要になるはずよ。

 守ってもらえるなんて、今だけだもの。

 優しい男性なんて、幻想なのかしら」


 マスターがクスリと笑みをこぼした。


歩美あゆみの知り合いにも、『優しい男性』はいるだろう?

 ここまで彼から、危険を感じたことがあったかい?」


 ……孝弘さんのことかな?


 歩美あゆみも同じことを思ったのか、コーヒーを見つめて考えこんでいた。


 私たちはジャズの音色に身を任せながら、静かなひと時を過ごしていた。

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