第41話 愛理の役割
息子はため息を吐く。愛理は息子の壮絶な過去を聞き、言葉を失う。息子や仕事のためと言いながら必死に生きているように見えたが、本当は違っていた。最愛の人間を失ってしまった心の隙間は埋めることはできなかった。息子のことを最愛の妻と間違えて生きていただけだった。
「それで、父親は時間売買を行いました。結果はご覧の通りです。父は時間売買によって得られた時間を最初はとても喜んでいました。しかし、それもつかの間、今度は苦しみ始めました。そして、最期には」
「時間売買の副作用に耐え切れず、自殺してしまった」
百乃木が息子の言葉を引き継ぎ、無情に言い放つ。
「百乃木さん!」
愛理は百乃木の言葉に思わず叫んだ。自分の父親が亡くなって悲しんでいるのに、それを言葉一つで言い切ってしまう無神経さに腹が立った。しかし、そう思ったのはその場にいる愛理だけだったようだ。
「愛理さん、仕方のないことですよ。このようなケースはよくあることです。ただし、私はこのような光景を見たくなくて、仕事を辞めてしまいましたが」
田辺も愛理と同じ気持ちのようだったが、それでも半ばあきらめているのか、苦笑するだけだった。
「それで、朱鷺さんは何かこの男性に質問などはありませんか。せっかくお越しいただいたのですから、聞きたいことは聞いておいた方がいいと思いますよ」
百乃木は平然と話してくれた男に質問はないかと愛理に促す。
「別に何を聞いてもらっても構いません。僕にはもう、何も隠すことはないですから」
男は自分の父親が亡くなったというのに、なぜかすっきりした表情をしていた。愛理が悲しんでいると思っていたのは、彼女の想像だったのだろうかと思うほどに、悲しさは男の表情には見受けられなかった。先ほどまでは怒りの目を愛理に向けていたが、話していて、気分が変わったのだろうか。愛理には彼の心情を知ることはできない。
『特に質問なんてないよね。とはいえ、この男、そう先は長くないかも。父親が亡くなって、逆に重荷が外されて安堵しているから、その反動で、ね』
頭の中では物騒なことを言いだす白亜に、愛理は戸惑う。しかし、父親が亡くなっている人にどんな質問をしろというのだろうか。結局、愛理が質問することはなかった。
「私が、時間をあげたせいでこんなことになってしまったんですよね。私のせいで、すいません」
ただ謝ることしかできなかった。時間売買とは、時間が欲しい人が時間をお金に替えたい人から買うという、両者にとって都合の良い関係かと思っていたが、実際には、一般人には知られていない闇があった。愛理は時間売買を行うことで、その事実を知ることになった。
男はその後、自分の仕事があるからとその場で別れた。塾の控室は、また百乃木と田辺、愛理の三人だけとなった。
「では、私たちも解散しましょうか。ああ、でも朱鷺さん、あの男性にではなく、私たちに質問があるのなら、聞いてください」
「いえ、今日はもう、家に帰ります。いろいろ自分の頭で考えたいことがありますので」
「確かに今日はもう、家に帰った方がいいかもしれませんね。塾の方は、僕からすでに、愛理さんは休むように伝えてありますから、心配はいりませんよ」
「じゃあ、私は先に帰らせていただきます。まこと、お前が家に送ってやるんだな」
「わかっていますよ」
百乃木は愛理に質問がないとわかると、すぐに帰り支度を始めて塾から出ていった。
「はあ、私は少しだけ愛理さんにお話があるので、もう少し、家に帰るのは待ってもらえますか」
百乃木が出ていったことを確認すると、田辺はため息をはき、愛理に話があると塾に引き留めた。
「男が来る前に話していたことですよ。あなたの協力というのは……」
田辺が話した内容に愛理は苦笑した。犯人を捕まえ、これ以上の犠牲を出さないためならば、それくらいの協力は造作もないことだ。愛理は田辺の心配は無用だと伝え、家に帰ることにした。田辺は家まで自分が送ると言ったが、愛理はそれを断り、自分で帰りますと伝えた。
『白亜、あの時間を止めるのは、そんなに何回も使って大丈夫なのかな?』
塾でお手洗いを借り、用を済ませて手を洗っている最中、近くにいるであろう白亜に話しかける。
『愛理なら大丈夫だよ。何せ、いや、とにかく問題はない』
愛理は大きく息を吸い込んだ。お手洗いですることでもないが、気持ちを落ち着かせるために深呼吸をした。そして、時間を止めるイメージを頭に思い浮かべる。
『コツをつかんできたね』
目を開けると、目を開ける前と変わらない光景が目に入る。しかし、確実に自分以外の時間が止まっていることが愛理にはわかった。そのまま、お手洗いを出て田辺がいる塾の控室へ急ぐ。そこには、立ったままピクリとも動かない田辺の姿があった。
愛理は塾の外に出る。そこには時間が止まった世界が広がっていた。通りの車は渋滞があったかのようにぴたりと動かず、歩く人の姿もオブジェのように動かない。
『何をもたもたしている。僕に捕まって』
愛理は時間の止まった世界を思わず凝視してしまった。何度か行っている時間を止める行為だが、今までは止まった世界を見て、それについて考える余裕がなかった。本当に自分以外の時間が止まっているのだと実感した愛理だが、それと同時に己の力に恐怖する。自分は人とは違う力を持っていることに。そんな心中の愛理に、白亜は手を愛理に差し出した。塾から出ると、白亜が急に姿を現した。
「うん、早く帰らないとお母さんが心配するしね」
きわめて明るく返事をしたつもりだが、それでも言葉の端々に暗い影が宿っているのを白亜は見逃さなかった。
『まったく、面白い奴だ。これだから人間は』
二人は行きと同じように宙を浮かびながら、空を飛んで家まで帰った。
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