第13話 若い商人
朝から混雑していた食堂は、昼の鐘が過ぎると落ち着いた雰囲気を取り戻していった。
「やあ、久しぶりだね」
ヴェラに声をかけたのは、一年ぶりに顔を見せる若い商人だ。従者と護衛を連れている。
「ええと・・・・・・あっ、リケルタさま、よね?」
「そのとおりだ。よく覚えていてくれたね」
「エテルファムの商人さんだもの。忘れることの方が難しいわ」
エテルファム家は王家と公爵家以外で家名を持つ唯一の家門だ。当主は家名を冠するエテルファム商会の長でもある。
本拠地は北部ノーレリア地域だが、各地の主要都市に商館を構え、ノヴァテッレ国全域で取引をしている。
リケルタは現当主を祖父に持つ、エテルファム家の直系だ。
リケルタの隣にはもう一人、商人の服を着た男子が立つ。リケルタより少し年下のようで、顔に少し幼さが残る。
「こっちはおれの弟。昨夏から交易の旅に同行しているんだ」
「じゃあ、今年で十六歳? あたしと同じね」
エテルファム家の男子は十五歳になると、一年をかけて各地の大市を巡る旅に出る。成年になるまで旅をしながら経験を積んでいくのだという。
「はじめまして。あたしはヴェラよ」
「あ、えっと、アルテオ・エテルファムです」
アルテオは恥ずかしそうに名乗った。
「どうした? これまではしっかり挨拶できていただろう?」
「ごめんなさい」
アルテオがうつむくと、髪がさらりと流れるように動いた。星空のように輝く黒色の髪はうっとりするほど美しい。
「きっとあたしのせいだわ。いつも相手にしてるのは、あたしみたいな人じゃないでしょ? 敬語だって使えないし。だから、どうしていいかわからないのよ。ね?」
「そうだな。ヴェラのせいかもしれない。魅力的すぎて緊張してしまったんだろう」
リケルタがアルテオをからかうように言った。
「あっ、そういうわけじゃなくて」
「否定するのか。では、ヴェラに魅力がないと言うんだな」
「いいえ。とても、とても素敵な女性です」
アルテオの慌てる姿をリケルタは楽しんでいるようだ。
「ふふっ。あんまりからかったらかわいそうだわ」
ヴェラは思わず笑ってしまう。
「アルテオが困っているのは久しぶりに見たからな。つい、
「ヴェラさんは本当にかわいらしい女性だと思います。だから、さっきのは・・・・・・」
「いいのよ。気にしないで。嘘でも褒めてくれて嬉しいわ」
「嘘じゃ、ないです」
アルテオは瞳を潤ませる。かわいげのあるその表情を見れば、リケルタがからかいたくなるのも理解できた。
「ヴェラ、すまなかった」
リケルタが謝罪の言葉を述べた。
「あの、謝られる理由がわからないわ」
「タルトを売るのをやめたと聞いた」
「そうね。でも、リケルタさまが謝ることじゃないわよ」
それは前年の新年祭が間近に迫る頃のことだ。リケルタが褒めたことで、ヴェラのタルトに注目が集まった。
おいしいビスケットを焼く宿の話を聞きつけたリケルタが、貧相な旅人に扮して宿泊した。当然、出立の時にはビスケットを渡す。
次には正体を偽ることなく現れて「ビスケットのレシピを売ってほしい」と言った。しかし、作り方自体は何の変哲もなく、教えられることはない。
せっかく足を運んでもらったのだからと出したのがタルトだ。それもまたリケルタに気に入られた。
エテルファムの商人が認めたというだけで、それまで見向きもしなかった人が押し寄せた。
しかし、ビスケット焼きに余裕がある時だけ焼くタルトは、欲する全ての人に売る量を焼けない。
結果、もめ事まで起きてしまい、売るのをやめざるを得なかった。
「ぼくもヴェラさんのタルトを食べてみたかったです」
「それは嬉しいわね。でも、商館の料理の方がずっとおいしいと思うわ」
「いいや。商館の料理人の腕はたしかに良い。でも、それだけでおいしさが決まるわけじゃない。おれがヴェラのタルトもビスケットも気に入ったんだ。だから自信を持ってくれ」
リケルタの堂々とした物言いが、ヴェラに自負心を芽生えさせる。
「じゃあ、タルトの代わりに——」
言いかけた時、ヴェラの背後から声が聞こえた。
「うちのヴェラにあまりちょっかいをかけないでもらえます?」
耳の近くで響いたマグナスの低い声に、胸が激しく鼓動を打つ。
あまりにも眠そうだったので、家族の寝台に寝かせておいたはずだ。
「もう起きて平気なの?」
「おれはいつでも平気さ」
目が半分ほどしか開いていないマグナスの言葉は、説得力に乏しい。
「ねえ、もう帰ったら? 帰れそうにないならまだ寝てていいわよ?」
「少し眠ったから問題ないさ。それよりも、おれはヴェラちゃんが心配なんだ」
「何が心配なのよ。マグナスさんがいてくれるのは心強いけど、今はそんなに混んでないし・・・・・・」
「いいや」と言った瞬間、マグナスはよろめいた。ヴェラは抱きつくようにして体を支える。
鼻に流れ込むマグナスの匂いは甘美で、酔ってしまいそうだ。汗臭さも混ざっているというのに、離れがたいほど好ましく思う。
「やっぱり眠いんでしょ? もう少しで次の勤務時間なんだから、帰ってちゃんと休まなきゃ」
「ああ。ごめん。でも・・・・・・」
弱々しい声が余計にヴェラを心配させる。
「『でも』じゃないの。こんなことが続くなら、新年祭の間は来てくれたって追い返すわよ」
「うう。わかったよ。今日はもう帰る」
マグナスはヴェラの腰に手を回して引き寄せた。息が交わるほどに顔が近づく。
「えっ? 何?」
驚いてヴェラの声は裏返る。
「商人は口がうまいから気をつけろよ」
マグナスの視線がリケルタとアルテオに向いた。
「お客さんに対して失礼よ」
離れようとマグナスの体を手のひらで押す。
「また来るから」
耳元でささやいた唇がわずかに触れたような気がして、全身が熱くなった。
思いがけないマグナスの行動が、ヴェラの心をかき乱していく。
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