第3話 パン焼きの日

 礼拝堂の鐘を聞き、ヴェラは目を覚ました。朝の鐘は起床の時を告げる音だ。

 目をこすりながら寝台を降りて、窓の鎧戸を開ける。夏の厳しい暑さが和らぎ、涼しさを感じられる季節になった。

 

 ヴェラは寝台に駆け寄り、まだ横になっている両親に声をかける。

「起きて! 今日はパン焼きの日だよ!」

 寝台をぽんと叩くと、敷布の下の藁がかさりと音を立てる。

 いつもならば、ヴェラもまだ寝ていたいと思い、寝台で体を丸めているだろう。しかし、この日は楽しみにしているパン焼きの日なのだ。心が弾むのは仕方ない。




 村にはオスター家が所有するパン焼き小屋がある。その小屋を農民が順番に使用する。各家庭の順番は約十四日ごとに回ってくるので、その日数分のパンを焼く。

 一度に何個ものパンが焼ける大きな竈で、家庭で食べるパンの他に、納めるパンも焼かなければならない。パン焼き小屋の使用料に、薪代や製粉代が必要だ。

 とても忙しい日だが、焼き立ての温かく柔らかいパンを食べられる嬉しい日でもある。


 一日にパン焼き小屋を使うのはヴェラの家だけではない。昼の鐘が鳴れば、次の家が使う番だ。

 朝に使用する「一番」と昼に使用する「二番」に分けられ、これは次のパン焼きの日には入れ替わる。今回が一番なら、次回は二番で焼くことになる。

 二番は竈が十分に暖かい状態でパン焼きを始められるので、燃やす薪の量を抑えられる。同じ家がいつも二番のパン焼きでは不公平だ。


 一番にも、朝に焼いたパンは酒場に買ってもらえるという利点がある。

 酒場は農民から買ったパンを客に出している。農民以外のパン焼きをしない村人や、宿を兼ねた酒場に泊まる旅人が食べるのだ。

 昼から焼いたパンでは食事に間に合わない。だから、朝のパンが求められる。




 ヴェラとアウラは、前日に用意しておいたパン生地を持ってパン焼き小屋に向かった。先に薪を運び入れたジェイロによって、竈に火が付けられている。


 作業台でパン生地をこね、次々に成形していく。ヴェラにとって、パン作りも慣れた作業となった。

 料理が得意でないアウラも、パン作りはそれなりにできる。アウラは材料を選んだり、味を付けるのが苦手なのだ。


 麦粉にミルクや果実を混ぜた早くに消費するパンから、水と塩しか混ぜない遅くに消費するパンまで、数種類のパンを焼く。形を変えたりナイフで切れ目を入れたりして、どんなパンなのかわかるようにしてある。


 パンは広大な畑で働く農民には欠かせない、手軽に腹を満たせる食料だ。

 切ったパンとチーズ、果実などを布に包んで持って出掛ける。一度畑に出れば、閉門の鐘が鳴るまで食事のために戻ることはしない。

 

 時間が経って硬くなったパンは、細かくしてポタージュに混ぜ、パン粥にして食べる。ジェイロの作るパン粥は、味に工夫が凝らされていて食べ飽きることがない。

 他の家の子どもがパン粥に不満をこぼすのを聞くと、ヴェラは自分の家のパン粥を自慢したくなる。

「あたしの家のパン粥はすごくおいしいのよ!」

 大声でそう言いたいが、家族の秘密を守るために心の中で叫ぶだけにしている。




「おいしいっ!」

 ヴェラは温かいパンを頬張った。

 竈に入っているパンが焼き上がれば終わりというところで、いつもより遅い朝食をとる。

「そうねえ。おいしいわねえ」

 アウラも目を細めながらパンを味わっている。

「父さんも早く戻ってくればいいのに」

「きっとどこかで引き止められているんだわ」

 ジェイロは、先に焼き上げたパンを各所に納品しに行った。帰ってくるのが少し遅い。

「どうして?」

「あのね、ヴェラの焼くパンがおいしいんだって」

「どういうこと?」

「最近はヴェラが中心になってパンを焼くようになったでしょう? それがおいしいからって、酒場でヴェラのパンを待っている人もいるらしいわよ。『個別に売ってくれ』なんて言われることもあるみたいね。きっと今も声を掛けられているんだわ。酒場との関係を考えたら断るしかないのに」

「うーん。教わったとおりに焼いてるだけなのになあ」

「作り方を変えたのでもないし。でも、わたしも前よりおいしく感じるのよね」

「そう? どうしてだろう・・・・・・」

 ヴェラは手に持っているパンを見つめる。ヴェラ自身は味が変わったとは思えず、理由がわからない。




「タルトは・・・・・・もうちょっとかなあ」

 ヴェラは竈の様子を確認する。

 タルトを焼くのも、パン焼きの日の楽しみの一つだ。

 この日の主な具材はタマネギで、塩とハーブで簡単に味付けをした。甘みが引き出されたタマネギと、それを覆うようにとろける濃厚なチーズの風味がよく合う。

 秋が深まるとリンゴのタルトを焼き、冬には肉のタルトを焼く。季節が変わると具材も変わる。


「もうすぐで、ヌボートさまの聖炎が来るね!」

 ヴェラは高揚した声で、アウラに話しかけた。

 ヌボートはヴェラの住むオスタリア地域に祝福を与える神の名だ。公都ソワルフォで行われる秋祭で、聖女がヌボートから聖炎を授かる。

 聖炎はオスタリア地域の全ての礼拝堂に分け与えられ、フェルリナの礼拝堂にはメサパトル伯が運んでくる。

 フェルリナを含むメサパトル周辺の町や村を統轄しているのがメサパトル伯だ。フェルリナはイグレアという男爵が管理している。


「ヴェラが楽しみにしているのは、聖炎ではなくて、その後の宴でしょう?」

「えへへ。だって、いつもと違う料理が食べられるんだもん!」

「ヴェラは食べるのが本当に好きねえ」

「食べるのも好きだけど、父さんと料理の話をするのも好きだよ」

「そうね。いつも家に帰ると夢中で話しているものね」

 アウラは柔らかな笑みを浮かべ、ヴェラの頭をなでた。


 一年に一度、メサパトル伯が聖炎を灯す特別な礼拝を行う。その後、オスター家の屋敷では盛大な宴が開かれる。

 宴のために用意されたご馳走は、ねぎらいの意味を込めて村人にも振る舞われる。そして、酒場に運ばれた上等な料理で腹と心を満たし、また仕事に励もうと奮い立つのだ。


「おいしいものを食べると笑顔になるでしょ。あたしはみんなが幸せそうに笑ってるのが好きだよ」

「わたしもヴェラの笑顔が大好きよ」

 アウラの腕が優しくヴェラを包むと、鼻に感じるパンの匂いが濃くなった。パン焼きをしていた体には、香ばしい匂いが染み付いている。

「えー、じゃあ、笑ってない時は?」

「ふふっ。笑ってなくたって、いつでもヴェラを愛してるわ」

「あたしも! いつだって母さんが大好き!」

 そして「父さんも大好き」とヴェラは付け加えた。パン焼き小屋には母娘の楽しそうに笑う声が響く。

 ヴェラはアウラの胸に顔をうずめ、幸せを確かめるようにぎゅっと抱きついた。

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