日常に戻る男

 ねむい。

 まだ朝だというのに、今日になってもう何度あくびを噛み殺したか分からない。

 おはようございまあす、と席に着く。早々、中村さんに声を掛けられた。


「住吉さん、昨日は残業で遅かったんですか?」


 中村さんは今日も髪をうしろで一つ結びにして、グレーのカーディガンを着ている。

 僕はというと、今日は打ち合わせで外出をするので、ストライプのネクタイをきっちりめに締め、「ちゃんと」感を演出する細身のスラックスを穿いてきた。上着は……いつもの作業服だけど。あと、いつものメガネ。


「いや、昨日は最低限のことだけだったんで、そんなに残業してないですよ……」


 始業前の執務室には、穏やかな空気が流れている。周囲を気にしつつ、小声で返答した。

 中村女史は「そうなんですか?」と首をかしげつつ、自席のキャスター付きチェアに深く腰掛ける。


「でも住吉さん、少し眠たそうだったので。お疲れなのかと思いまして」


 にこっと無邪気に言われて、心臓がぎくりと跳ねた。


「それはその……昨日は妻と……ええと、色々話し込んでいたというか」


 しどろもどろになる。

 決して嘘をついたわけではないのだが、頭に浮かんできてしまうのは、妻にじゃれつかれ、頬ずりされ、甘えられ、撫でられ、終いにゃ終いにゃ……。

 あー。

 いや、違います、まだ朝ということもあり、エンジンが掛からないだけです。


「す、すみません」


 気まずく頭を下げると、中村さんにくすっと笑われてしまった。


「ところで住吉さんの奥さまって、モデルさんみたいにお綺麗な方とのお噂ですよね」


「モデルさんみたいにお綺麗な方とのお噂なんですか……?!」


 びっくりして、オウム返しになってしまった。

 中村さんがどこでそんな噂を、と思ったけれど、思えば披露宴には上司にも出席いただいたし、どこかで話題にされていても不思議じゃない。……一番大きな可能性としては、向後もいるか。

 なんにせよ、出回っている噂が良いものなのであれば、悪い気はしない。


「そうなんです、僕にはもったいないくらいの人で……」


 そう口にしながら照れてきたのと、ふと飯田さんの顔が浮かんできたのもあって、僕は言葉を止めてしまった。なんとなく次の動作に迷い、作業服のポケットを探る。


「よかったら、写真……見ます?」


「えっ、よろしいんですか?」


 想定を超える食いつきだったので、なんだかどきまぎと緊張してしまう。

 後輩女子の期待の目を向けられながらのスマホの操作だ。僕のような者が落ち着いていられるわけが、ない、のです。

 やっとのことで未冬さんの写真を表示させ、彼女に差し出した。こうを抱いているところを写したツーショットで、二人ともがいい笑顔をしている、お気に入りのもの。

 中村さんは「わぁ」と目を丸くし、カーディガンの袖で口元を軽く押さえた。


「噂どおりの美人さんですね! お子さんも天使すぎます!」


「あっ、ありがとうございます」


 気はずかしい。けれども、二人を褒めてもらえたことは素直に嬉しいし、やっぱり女性から見ても未冬さんは綺麗なんだな、と口角がニヤついてきてしまう。


「ん、なになに、未冬ちゃんの話?」


 二人で盛り上がる僕らに近づいてくる者があった。そんなやつは一人しかいない。向後である。

 向後はいつもながらの陽キャスマイルで、ニカッと歯を見せてきた。そして中村さんのほうを向いて何やら説明を始めた。


「こいつ、高校一年から未冬ちゃんに惚れられて付き合っててさ、その頃からカノジョ、マドンナ的な美人だったんだよね!」


 今は就業時間前。とは言えど、さすがに声がでかいのではないかとヒヤヒヤしてしまう。……それに、その言い方では、僕らが一度も別れることなく順風満帆に結婚まで進んだように受け取られてしまう。


「わ、素敵! 純愛なんですね!」


 ほら、案の定じゃないですか!


「…………う」


 なんなんですかね? この恥ずかしい状況は。

 なんだか中村さんを騙しているみたいになっちゃったし。

 しかし、いや、と思い直した。向後はわざと情報をカットしたのだろう。破局と復縁という、ノイズとなる背景をあえて出す必要はないからと。

 ぐいぐい押しが強いようでいて、さりげなく気を利かせてくれる存在なのだ、向後こうご大地ひろただという男は。


「ほーんと、羨ましいくらいラブラブだもん、な!」


「いッ……たあ」


 前言撤回。『な』のところでバシッと肩パンされた。ふつうに痛い。


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