こーくん②
──すてきなお名前ですね。
そのような話題を振って住吉くんの反応を見たのには理由があった。
以前、私は妊娠中の未冬から「赤ちゃんの名前を一緒に考えてほしい」と頼まれたことがある。その時に彼女から「すーくんは、あたしの好きに決めていいって言ってくれたし」とも聞いた。
それがどこまで本気の言葉か分からないとは思いつつ、私は「そういうことは旦那と決めなよ」と突っぱねた。未冬は寂しそうな顔をしたが、その翌日以降、彼女はもうそのことを言ってはこなかった。
だから、その後のことは知らない。
そんな状況で、私の意地悪い心が『さあ、どうなった』と囁いてしまったのだ。
この不可解な夫婦の温度を探ろうとして。
「ど、どうもです。……なんだか照れくさいですけど」
未冬の夫は、とりわけ動揺するでもなく、しかし『きまずい』という顔を貼り付けたまま後頭部に触れた。
私は静かに相手の言葉の続きを待った。それを察したか、彼はおずおずと口を開く。
「コウという音は、家内が、いや、未冬が決めまして、私は航海の"航"の字を当てただけなんですけどね。……何と言いますか、子の名前は母親が付けるのが一般的なんでしょうか。私自身の名付けも、ほぼ母の独断だったそうで……」
話しながら彼は目を泳がせる。最終的には航くんのそばにあったぬいぐるみを手に取って、ガラガラと鳴らし始めた。
「あ、でも、航の字にはちょっとした遊び心もあるんです。もとより、住吉という苗字は海のイメージが色濃かったので」
航くんは、父親が動かすぬいぐるみをじっと見つめ、追いかけるように手を伸ばしている。
よく見ると、ぬいぐるみもメリーもピコモンというゲームのキャラクターのものだ。これは父親の趣味なのだろうか。
「全国の住吉神社で祀られている住吉三神は、水の中で生まれたとされる航海の守護神ですからね。まあでも、宗教的な意味合いは薄いんです。苗字と組み合わせることで、大海を渡るたくましさを表現できればな、と思っただけで。……説明下手で恐縮ですが」
そう話す彼の表情はうかがえなかった。当人がこちらを振り向かなかったためだ。おそらく、私ではなく息子に対して語りかけている。
「──なるほど。より素晴らしいお名前に感じます」
未冬はまだ戻らないのだろうか。そう思ってキッチンの方に目をやった時、
「お茶が入りましたよ〜!」
明るい声と共に元気印が戻ってきた。
「我が家でブームになってる淹れたてのルイボスティー! を、氷でキンキンに冷たくしたやつ!」
未冬は「外は暑いもんねー」と言いながら、ダイニングテーブルにグラスを並べる。
「あれっ、二人ともまだ座らない?」
配膳を終えた未冬は、小首を傾げつつこちらに寄ってきた。そのままの足で子どもの元へ向かうと、その髪や頬を優しく撫でる。
「こーくん、良い子してるねー。茉侑子が来てくれてるからかな?」
「僕よりも、航のほうが立派だな……」
妻が来たことでようやく来客対応から開放されたとでも言わんばかりに、未冬の夫は深いため息をついていた。
「ところで茉侑子、カンパーニュのエッグタルト好きだったよね?」
未冬からの問いに私は頷く。
ここでいう"カンパーニュ"はパンの種類ではなく、この近所にあるベーカリーの屋号のことである。
「わあ、良かったぁ!」
未冬は楽しそうにポンと手を叩いた。
「すーくんが買ってきてくれたの。もしかしたら茉侑子がお家に上がってくれるかもだから、おもてなしのスイーツ用意したほうが良いよねって」
夫の手柄であるとわざわざ主張されたことに若干の引っかかりを覚えたが、私は素直に亭主の方を向いて礼をする。
「お心遣い、痛み入ります」
未冬の夫は「いえ」と静かに首を振った。
「よ、宜しければ召し上がっていってください」
それを見ていた未冬は「ふふふ」と可笑しそうに笑う。
「もしかして、二人ともずっと敬語で会話してたの? なんか新鮮だね。ほら、茉侑子も昔は普通に『すーくん』って呼んでたし、仲良かったじゃない?」
確かに、と反応したのは、私ではなく住吉くんの方だった。
「まあ、これ以降の敬語はナシにしましょうか。同い年なんですし……」
「言ってるそばから丁寧語になってるよ、すーくん」
未冬の小声のツッコミに、「あっ」と照れる夫。
「そうだね、私相手にそんなに
私はそうやって作り笑いを返すことしかできなかった。
ここに居続けたら、私は息が詰まって死んでしまう。
◆
それからテーブルに着いて、ルイボスティーとエッグタルトをいただいた。
未冬は思い出話が尽きないようだったが、私が持ってきたメロンを「切ってこようか?」と訊かれたタイミングでそれを断り、席を立った。
「メロンは実家でイヤというほど食べられるから」
「あ、そうだったよね! 美味しいメロン食べ放題、ほんと羨ましいなぁ」
そう言う未冬に笑いかけ荷物をまとめる。長いように感じて、滞在時間にしたら30分程度しか経っていなかった。
「じゃあ、ご馳走様でした。そろそろお
「あっ、うん。こちらこそ……」
帰りがけ、玄関まで見送りに出てきた未冬に「茉侑子」と呼ばれた。
「茉侑子、本当にありがとね。お祝いもありがたいけど、来てくれて本当に嬉しかったし、楽しかった……」
潤む瞳。寂しそうな、憂いを帯びた顔も絵になる女。私との別れを惜しんでくれているのか。
──息子と夫と、上手くやってるくせに。
「お返しは気にしないで」と私は告げた。
「少額だし、時期も遅くなっちゃったから」
親族でもないのに高額を包みすぎると、かえって相手の迷惑になる。そんなネット情報を参考に、五千円しか包んでいない。
「それなら、今年の茉侑子の誕生日プレゼントに上乗せするね! いいでしょ?」
冗談ぽく笑うと、未冬は私の背に腕を回して抱きしめてきた。彼女の髪がふわりと甘く香る。
「また実家に帰ってくるときは、あたしにも教えてね。じゃないと寂しいからやだよ?」
「……うん」
このくらいのスキンシップは、未冬にとっては普通のことだ。
特別な意味はない。
それは分かっているつもりだったけれど。
「また来てね、茉侑子!」
元恋人に見送られ、完全に一人きりになったとき、鼻の奥につんとした痛みを感じた。
◆
──結局、男しか好きになれなかったってことでしょ?
──仲の良い同性の友人だと思ってたのに、勝手に惚れられて、性欲を向けられて。
──いい迷惑だったんじゃないかと思いますけど。
私は、いつから間違っていたんだろう。
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