5-1 邂逅記録中
目覚めた安藤陽葵の目に見慣れすぎた天井が飛び込んできた。
ああ、またかと思うと同時に騒がしさを覚える。ゆっくり体を起こす。
ボサボサになったおかっぱを整えながら、安藤は腹に痛みを感じた。よく見れば修道服の腹の部分がぐずぐずに溶けて腐っている。服ってこんな腐り方すんだ……。
でも、腹の痛み以外に異常はなさそう。健康健全の安藤陽葵だ。それよりも、なんだか騒がしいこの教会内の探索からすべきであろう。
安藤はベッドから飛び降りた。
さてさて? 安藤はなんでこんなとこにいるのだろうか。答えは簡単、ベルゼブブに木っ端微塵にされたからである。木っ端微塵という言い方はまあ誇張された感じはあるけど、事実、安藤はベルゼブブにハラワタをぐずぐずにされたはずだ。腐乱死体もびっくり仰天。蛆と蝿がどこからともなくやってくる、虫さんトコトコ大行進って感じの地獄絵図。虫嫌いだったら狂い死んでいただろう状態になった安藤は、なんてちょっとポンポンいたいいたいだなー程度で済んでいるのだろう? 流石に死んだと思ったし、あそこで死んでも悔いはなかったし。生きる理由すら失った安藤は、生きることを諦めたのに、なんでここで呼吸をしている?
「なんでかしらねえ」
「シャーロットが頑張ったんだよ……」
隣のベッドから声が聞こえた。
ただいまの時刻は深夜も深夜。真夜中も真夜中である。月明かりに照らされたお隣のベッドを見ると、そこには橙色と真紅に染まった少年がいた。
「うあー……クソ痛え。あのやろー、本気でやりやがって……」
「何やってんですか、アルベルト先輩」
アルベルト・フォーセット。安藤の上司その一。ついでに天使の器その二。神の炎の名を冠する天使、ウリエルを宿す一風変わったお方である。街中だと一等目立つ橙色の髪はなぜかぐしゃぐしゃだし、真紅の瞳はやる気なさげに閉じられているけど、それでもアルベルト・フォーセットだ。
「あなたは神崎くんのバグ直しに専念してたはずでは?」
「ああ、それね……今セドリックが行ってるよ……てか騒がしいな」
「騒がしいのは置いときましょう。なんでそんな弱ってるんです?」
「強欲の悪魔使いくんがちょっかい出してきたからぶっ潰してた」
「……お大事に?」
「はてな付けんなよお……」
アルベルトはますますグッタリする。痛いなーと弱音を吐く。
それにしても、騒がしい。はてさて、この教会にこんな大人数の足音が響くことはあっただろうか? ない。安藤がいた時からは、ない。振動がここまで伝わってくるほどの大勢の足音だ。
「なんでこんな騒がしいのですか」
「アマネくんのバクの件だけど」
「はあ」
「ミスったから尻拭いさせてる」
ミスった。
あちゃー、そっか。まあそんなこともあるよで済ませられたらよかったんだけど、そんなことは出来ないのだった。神崎雨音の制御ミスっちまいました。サーセン。赦されない。神である主も石を投げるレベルである。安藤はアルベルトの腹を殴った。
「いってえ!」
「何やってんですかバカちん!」
「い、痛い……お、オレ、肋骨折れてる……」
「んなこと関係ありません! どうするんですか!」
うぐぐとうめきつつアルベルトが身を起こした。痛え痛えと泣き言を呟きつつ、彼は答える。
「どうするも何も、一応対処療法はしてるさ。ほら、騒がしいだろ?」
「……それが?」
「腹が減って減って仕方ねえと泣き喚く子供を黙らせるにはどうしたらいい?」
「射殺」
「不正解だ。正解はパンを与えること」
「正解でしょう。……それで? 神崎くんは腹が減って減って仕方ないと泣いているんですか?」
「んなわけないだろ」
「じゃあなんです」
「人を殺したくて殺したくて仕様がねえと泣き喚く子供を黙らせるにはどうしたらいい?」
「射殺」
「だから不正解。正解は死んでも問題ない人間を与えること」
……
死んでいく。
死んで死んで死んで死んでいく。死人が出る。死人が大量に出る。死人が多量に出ていく。
死臭と腐敗、それから鉄錆の匂いに塗れた神崎の部屋の前で、セドリック・ライトフットは手首を切った。
「……さっさと立てよ、罪人。クズどもが」
ぼたぼたと血が垂れる。セドリックの足元に垂れる。
その血液が、下に倒れていた男の口に入った。
頭が吹っ飛んでいた死体である。ベキベキベキッ! と音がして、撒き散らされた脳髄と頭蓋骨、その周辺が戻っていく。ふらりと立ち上がった。
「せめて役に立て。役に立って、死ね」
ハラワタが飛び出て苦しんでいる女の口に、血液を垂らす。治っていく。その女もまた立ち上がり、ふらふらと歩く。
その間にも、たくさんの死体が出た。
目玉が飛び出て死んでいく人間がいる。大量の血を吐いて死んでいく人間がいる。ぐちゃぐちゃに丸められて死んでいく人間がいる。
「テメエらは死んだところで永遠の命は与えられない。ならば、私が仮初の永遠を与えてやろう」
セドリックは床に血を垂らす。死体未満が這いずり、血を舐めとった。治る。また立って神崎の部屋に入って、ぐちゃぐちゃになるのを繰り返す。
「神を知らぬ異教徒ども。役に立ってから地獄に堕ちろ。足掻き切ってから死ね」
教会を裏切った人間を、送り込まれた人間を、ただセドリックは肉壁として治していく。
元来、セドリック・ライトフットという青年は慈悲深くともなんともなかった。
神崎雨音の先生だからといって、その性格、性質まで神崎義信と瓜二つかと言われればそうではないのだ。セドリックは真逆と言ってもよかった。死を恐れる神崎義信に対してセドリックは死を利用する。便利だから。戦えるから。どれだけ残虐でも、残酷でも、冷徹でも非情でも非道でも無慈悲でも因業でも邪道でも。
それで戦えるなら、神崎雨音が失敗しないのなら、それでいい。
これで神崎が落ち着いてくれるのなら、セドリックはいくらでも死人を使い潰す。殺させる。戦場に立たせて何度でも幾度でも殺させてやる。元々死罪だった野郎どもである。罪悪感なんてものは微塵も感じない。
「テメエらのような罪人にも血と肉を分け与えるんだ。感謝してほしいぐらいだな」
ダラダラ、セドリックの腕から血が垂れて床に溜まる。死人が舐めて飲み干して生き返って、死人以上で生者未満のよくわからない肉塊になって、またまた再突撃してを永遠に繰り返す。神崎雨音が飽きるまで、リピート、リブート、リフレイン。ぐるぐる死人は死に続ける。
死人に思考能力はない。動くだけの死体だ。セドリックに、一回死んで失われた思考能力を回復させるような力はない。神経は復活しているからギリギリ脊髄反射で動いているってだけだ。ゾンビとなった皆様は、英雄にやられるためだけに立ち上がって死んでいく。治る。
ふらりと、セドリックの体が揺れた。
貧血だ。単純に、流した血が多すぎたのだ。なんとか踏みとどまる。ここで倒れたら神崎は死体を全員殺して出ていってしまう。レイモンドとアルベルトがどうにか解決策を見出すまで。安藤が起き上がるまで。
セドリックは、それまでここで神崎を食い止めねばならない。
それくらいならやれる。やれ。神崎雨音を英雄にするために。セドリックは無慈悲な人間だから、かつて生きていた兄のような存在のフリをする子供が痛めつけられるのを黙って見ていることができた。自分が傷つかなければそれでよかった。セドリックはひたすら死を利用する。自分の死が神崎雨音を成長させるなら、喜んで死ぬ。アルベルトを殺したらみんな幸せになるのなら、セドリックは殺しに行く。そういう人間だ。死を最大限に利用する、腐れ外道だ。
それがセドリック・ライトフットの生き方である。
大人になれ。大人になれ。大人なら命を天秤にかけることができる。トロッコ問題を素早く解くことができる。臓器くじをためらいなく引くことができる。世界的に有名なバイオリニストへの輸血を少しの葛藤もなく止めることができる。大人だから、セドリックは異様に非情になれるんだ。あの時のレイモンドや神崎義信のような過ちは犯さない。セドリックは成功する。その冷徹さでもって、セドリックは神崎雨音を完璧な英雄にするのだ。それからフォーセット兄弟を治して、『蜘蛛糸の魔女』をお役御免にして。それから、それから……。
それから、どうすればいいんだろう?
わからない。
わからないけど、進むしかない。
「……クソッ」
セドリックは勝手に塞がり始めた手首の傷を、もう一度開く。ダラダラと血が垂れ始める。
これでいい。
余計なことは考えるな。その後を考えるな。とにかく進め。進め。進め! 前だけを向いてとにかく進め! セドリック・ライトフット!
「それが私の生き方だろうが……!」
「つまんねえ生き方」
少年の声が聞こえた。
嘲るような、憐れむような、そんな声。中学生の声。
死体に紛れて子供が立っている。
灰色のパーカーに学ランを羽織った、黒髪黒目の少年が。
「なんともまあ、見切り発車もいいところ。苦しくねえの?」
死体の影に紛れて、すぐ見えなくなる。でも、声だけは何故かクリアに聞こえる。
「大人に幻想を抱きすぎだ。大人はもっと見苦しい。精神はガキと一緒だし、そのくせプライドだけは高いし。変に語彙力があるからすぐ失敗を隠してそれっぽい理由つけて、誤魔化す。大人ほど汚ねえ生き物はいないぜ。なあ、セドリック」
「……誰だ」
「さあ? それ、お前に関係ある?」
クスクス笑う。死体に紛れて見失った。
セドリックは目を擦る。見えない。幻覚? 幻聴? 何だったのだろうか。
……やらなきゃ。
今は幻想かもわからない誰かにかまっている暇はない。さっさと終わらせる。神崎雨音は失敗させない。何が何でも、失敗させない。ここまでやってきたんだ。もう少しだ。もう少し。あとちょっとだけ、耐えれば。
「飽きちゃった」
死人が一斉に爆ぜた。
シャボン玉のように、内側から爆ぜて、その汚らしい肉片を周囲に撒き散らす。壁も天井も床も赤に染まる。
ペタペタと、足音が聞こえる。
「うん、飽きちゃったなあ。死んでも死なない。なかなかに面白かったけど、それでも繰り返しってのはものすごくつまらない。単調だよ。単純だよ。飽きちゃったよ」
血と体液に塗れたしわくちゃの修道服。ふわふわとした黒髪。澱んだ黒目。血溜まりを踏んで、彼は──神崎雨音は、セドリックに笑いかける。
「飽きちゃったんですよ、先生」
……
「オレらがやるべきことって何だと思う?」
勝手に薬棚を漁りながら、アルベルトはそう聞いてきた。
安藤はベッドに腰掛けながら、穴の空いた修道服を縫いながら、適当にそれっぽく答える。
「怪我の治療及び勝手にどっかいった情報屋探し」
「いやまあそれもそうだけどさ。まずやるべきことがあんだよ」
アルベルトは痛み止めをこれでもかと手のひらの上に出して、一気に飲み込んだ。胃と喉がやられるからせめて水で流し込めと言っても後の祭り。オーバードーズ一歩手前の量を飲んで、アルベルトは折れた胸をさする。
「飲む?」
「遠慮しときます」
丁重に辞退した。そもそも痛みはそんなにない。縫合用の糸と針でも案外なんとかなるもんだなあと思いつつ、安藤はソーイングセット(医療用)をしまった。
「んで、やるべきことがあるんだけどさ」
「はい」
「ヒマリちゃんは銃の扱い得意だよな?」
「それなりには」
「謙遜謙遜。ま、静止してる二、三メートル先の物体が打ち抜けないってことはないだろう?」
「……まあ、多分」
「歯切れ悪う」
抗生剤あったけどいる? と聞かれ、安藤は辞退した。ハラワタは腐っているのだろうか? わからない。シャーロットによって治されたという腹は、見た目はちょっと縫い目があるだけだけど、中身までは保証してくれていない。皮膚でも何でも裂いて確認すりゃあよかったかな?
薬棚をガサゴソと漁るアルベルトを眺める。
「ハンドガンとスナイパーライフルの準備を」
「……何をする気で?」
「全部終わらせる気でいる」
「……はあ」
要領を得ないアルベルトの返事に突っ込む気にもなれず、安藤は曖昧に返した。安藤はそもそも出来損ないの軍人気取りなので、はなから上官であるアルベルトの命令を拒否するなんて考えちゃあいないのだがね。だから答えは全部一緒。おんなじ。等しい同調である。返事は『はあ』か『はい』。それか『へえ』。
「終わらせるとは」
「それはそのままの意味さ。オレの存在意義はアマネくんを英雄にすること。だから、その使命を達成するために何でもする」
「……」
「なんでもだ」
狂信者だったか。
久しく忘れていたが、こいつは、アルベルトは狂信者だった。神崎雨音を英雄と疑わない素直な人間。過去に何があったか知らないが、神崎雨音という存在を崇め奉る心酔者。
彼は神崎のために殺して裁く。
ふむ、結局安藤はいらないな。よしよし、価値の再確認終わり。結果は変わらずゼロのまま。小数点すらありゃしない、絶対的なゼロである。安藤陽葵に価値はない。
閑話休題。お話を戻す。
アルベルトは何でもする。神崎のために、神崎を英雄にするために、文字通り何でもする。神崎を教皇の護衛にしようとする計画は幾度となく立てられたけど、アルベルトが燃やした。文字通り燃やした。計画書も計画した人間も、裁いて火刑である。お気の毒様。しかし天使の器に喧嘩売ったのそっちだから。
神崎雨音はエクソシストの頂点で、シンボルで、精神的な支えで、英雄。
それだけの看板を維持するために、アルベルトは手段を選ばない。
「アマネくんを現地で活動させるなんて、危なっかしかったんだよ。そもそも怠惰の悪魔討伐時点でかなり不安定だった。恐怖政治はうまくいかねえんだ。すぐ綻びが出る。すぐ反乱が起きる。すぐ破綻して終わる。だから、オレは──アルベルトとしては、あの教育は反対だったんだ。そりゃ簡単だけど、いつかはぜってえ破綻すんだからやめろって言ったんだけどなー」
「……で?」
「アマネくんを現地で働かせるメリットは、エクソシスト全員に神崎雨音こそが英雄であると知らしめられること。目の前で救えばそりゃもう救世主だ。神の子だ。でもぶっちゃけデメリットの方が多い。いつ崩壊するかわからねえアマネくんを戦場に立たせる。毎度毎度ヒヤヒヤしてたんだぜ? 急にスイッチが入ってエクソシスト皆殺しにすんじゃねえかって」
「今の状況はそれですね。破綻しました」
「そ、破綻した。表舞台にアマネくんはいらなくなった」
「……もう終わってません? 神崎くんはもう活躍できない。殺処分まっしぐらでしょう。どう足掻いても挽回できない」
「まださ」
アルベルトは笑う。薬棚の奥の奥に隠された、レトロな拳銃を振り回して。
「まだ方法はある。てか、初期設定はそれだった」
「……?」
「まだ内緒だけどな。全部全部全部終わってから、話してやる」
「……はあ」
安藤はため息にも似た返事をした。言っていることがよくわからなかった。神崎雨音は英雄としてはもう終わっている。死んでいるも同然だ。あれだけ暴走してしまえばあとは殺処分の許可願いが受理されるまで時間の問題だろう。誰かが恐れて、誰かが見切りをつけて、誰かが焦って。英雄として崇められてきた怪物は退治される。それが現実だ。
「まずは何をするつもりで?」
アルベルトは銃弾を探しながら答えた。
「兄貴と会話」
……
例え話。
むかしむかし、あるところに、ある事件によって仲違いしてしまった兄弟がいました。その兄弟はお互いのことを害虫が如く嫌っておりました。そりゃもう出会った瞬間にゴキブリスプレーをぶっかけた挙句殺鼠剤を顔面にぶちまけるぐらいはしそうな勢いでした。ガスバーナーとライターを使った火炎放射器で相手の顔面を焼きそうな勢いでした。混ぜちゃいけない洗剤を混ぜて相手の部屋に放置しそうな勢いで、嫌いでした。
さて問題。そこまで関係が破綻した兄弟はキャッキャウッフと仲睦まじく和やかに会話ができるでしょうか?
答えは否である。
そりゃそうだろう。当たり前だろう。どう考えたってドラックストアで買えるお手軽毒薬博覧会(バトル付き)になるに決まっているのだ。バカでもわかる。世界が十人だけ住んでいる村ならば、百人がそうなると異口同音に唱えるだろう。安藤陽葵は巻き込まれたくない。死因が他人の兄弟喧嘩に巻き込まれてなんて、無様にも程があろうに。
だから安藤は確認する。死因を無様にしないために。
「正気ですか?」
「正気だって言ってんだろ」
アルベルトは肋骨が折れているのにも関わらず。軽い足取りで廊下を歩いていた。目的地はもちろんのこと、レイモンドの書斎である。紙束で溺れたあの部屋である。会話内容がお叱りしかない部屋である。
安藤はアルベルトの後ろをついていく。何をするのかもわからないまま、とにかくオレが合図したら撃ってねと軽すぎるオーダーを承ったので、安藤は持ち慣れぬ他人のハンドガンを腰にぶら下げながら歩いているのだった。
「どういうおつもりですか」
「アマネくんを英雄にするつもりだぜ」
「だから、それはもう破綻して──」
「まだまだ。こんなん修正可能の代名詞みてえな状況だ。誤差の範囲。想定の範囲」
「……はあ」
相変わらずとんでもねえスケールで物事を見ているお方だこと。一介の小市民にもなれなかった安藤には、その考えの一片もわからない。何言ってんだこいつで思考停止である。だって本当にわからないんだもの。
「そのために、もうちょいオレが動きやすい状況を作るのさ」
「……」
「動きやすい状況を作る。それが本題。でも、可愛い弟として壊れちまった兄貴と話をしたいってのもあるぜ」
「……なるほど?」
よくわからない。
自分のことを可愛いと言ってしまうタイプの自己愛者ってことしかわからない。ふむふむ、手がかりゼロ。どうせ当たっても答え合わせはできないからどうでもいいけど、それでも気になる。仕事内容ぐらい教えて欲しいものだ。安藤は出来損ないの軍人だからどうでもいいけど、もっとちゃんとした人間だったら大憤慨である。
安藤はただ歩いていく。アルベルトの毒にも薬にもならない話を、聞き流す。
……
悲鳴が己の喉から発せられたのだと気づくのに五秒ほどかかった。
バキバキバキッ! と両手の指、合わせて十本が笑っちゃうぐらい簡単に折れて、セドリックは似合わない悲鳴をあげたらしかった。少年の笑い声が聞こえる。
「ねえ、先生。先生は楽しかったことってありますか?」
神崎雨音が近づいてくる。
ペタペタと素足で血溜まりを踏みつけ、足を失い倒れたセドリックに語りかける。
「楽しかったことです。なんでもいいですよ。毎日の一服の時間とか、友人との思い出とか。縋り付けるような過去の遺物は、先生にはありますか?」
セドリックは目玉だけ動かして周囲を確認する。先ほど切り取られた足ははるか彼方にあった。あれだけ遠いと、流石のセドリックも再接続は無理と考えていい。よって歩き出すのは不可能。立ち上がるのも不可能。ついでに死人はもういないとお伝えしておく。一瞬のうちに文字通り塵となった。肉片って言った方が正しいかもね。
「僕はありませんよ」
左腕が吹き飛ばされた。
バチン! と音がして、セドリックの腕が破裂する。もうない。その肉片すら見当たらない。痛覚はとっくに麻痺しているし、元々失血死寸前だったしで、セドリックにはもう神崎の姿すら見えないのだが、それでも声は聞こえるし、これ以上の血は傷口が塞がってしまうから流れない。
つまり、セドリックは死にかけのまま、神崎に虐め殺されるしかないのだ。
おやおや八方塞がり。どうしようか。脳に血液が行き届いてないのか、セドリックの思考はもうまともな方向に働いていなかった。今日のお昼ご飯は残っていた冷凍のカルボナーラにしようとか考えている。
ダメになってきている。
オーケイオーケイ。少し真面目に考えてみよう。思考を無理矢理にでもシリアスにシフトしよう。……シリアス。シリアス。……シリアル? シリアルっておいしいよね……。オッケオッケ、ちょっと黙れ。
もう一回現状把握に努める。神崎の声は聞こえる。しかし、返答はできない。考えなければならないことは山のようにあると思うのに、うまく考えられない。ああ、セドリックはこんな風に終わってしまうのか? あっけない。つまらない。これじゃまるでやられ役じゃないか。強すぎる主人公の強さを見せつけるためだけの登場人物。
セドリックは死ぬ。
死ぬことが確定してしまった。
流石に四肢のうちの三本を欠損してしまったらセドリックといえども死ぬ。ああ、死ぬのかあ。結局フォーセット兄弟を治すことはできなかった。神崎義信を超えることはできなかった。せめて、死ぬ間際にみっともない悲鳴をあげるのはやめておく。どうせならカッコつけて、大人ぶって、最後の最後まで理想の大人のふりをして、死んでしまおう。
失敗だらけの人生だった。
なんの意味もない人生で、セドリックは何も成せずに終わる。なるほど、価値のない人生だ。生きている意味なんてとっくのとうになくなっていたのに、なんで生きていたのか不思議なぐらいだ。じゃあせめて格好つけて。恥を晒さずに。死を利用する者として、足掻きすらせずに死んでしまおう。
神崎雨音が、死にかけのセドリックに囁いてくる。
「先生、死んでしまいたいと願ったことは?」
何度でもある。
「先生、自分の価値を問ただし、結果的に価値がないと気づいたことは?」
何度でもある。
「先生、ありえないほどの幸せの中でも、自分が不幸だと思ってしまうことは?」
何度でもある。
「先生、うっかり過去を振り返って気分が悪くなったことは?」
「先生、取り返しのつかない間違いを夜中にずーっと悔やんでいたことは?」
「先生、ダメ元で、いるはずもない神に、祈ってみたこともない神に祈ってみたことは?」
「先生、幸せになるはずと信じていた未来を惜しんだことは?」
「先生、幸せを望んでも、幸せがわからないから、幼児の妄想の域を出ずに終わったことは?」
何度でもある。
繰り返してきた。それでもセドリックは大人だから、全て飲み込んで前を向いて、その先が崖であると分かっていても進んだ。セドリックが死んだところで誰も悲しまないからどうでもいいという、なんとも後ろ向きな前進思考だった。ネガティブ極まりないボジティブ思考だった。
セドリック・ライトフットは後継機だから。
神崎義信の代わりにしかなれないから。
せめて大人になろうと思ったけど、結果はご覧の有り様である。
「先生、幸せになったことはありますか?」
そんなのねえよと返事をしたかったけど、声は出なかった。そもそもの話、喋ろうとも思っていないのかもしれないね。どうでもいいから。セドリックは最初から最後まで失敗し続けていたと察してしまったから。
何も成せなかった。
願ったことすら、自分からやろうと決意したことすら、押し付けられた責任すら、全うできずに、セドリックは死ぬのだ。
それはそれで喜劇である。
「それでは、先生。お聞きします」
散々聞いてきただろうが初めから許可をとれやと思いつつ、セドリックはだらだらと口から血をこぼす。どこか出血しているらしい。術式で、なんとなく癖で治す。
神崎は膝をついて、セドリックの目を覗き込んで、心底楽しそうに言う。
「先生、世界を終わらせたいと考えたことは?」
……。
……あー、なるほど?
「先生、世界なんてぶっ壊してしまいたいと願ったことはありますか? 僕はあります。何千回も願いました。何万回も夢想しました。何百万回も、それこそこれまでの人生ずっと、ずっとずっとずっと! そう願ってきました。僕はみんな死んじまえと思っています。僕は全部ぶっ壊れちまえと思います。この世に存在する生き物も物体も何もかもなくなってしまえと思います」
あー、はいはい。オッケー。
「先生、僕は壊してしまいたいんです。先生はどうですか? どこまでも誰かの代わりとして生きてきた先生は、セドリック・ライトフットは、何を望みますか? 誰を殺したいですか? 誰を不幸せにしたいですか? どれを壊したいですか? どれをなかったことにしたいですか? ねえねえ、教えてくださいよう。いっしょにやりましょーよお。 きっとすっごく楽しいですよ。ねえ、先生──」
「……神崎くん」
思ったよりもつっかえずに声が出た。
こてんと、神崎が首を傾げる。
「なんです? 先生」
「私は、テメエにとってなんなんだ?」
「神崎義信の代わり」
なるほどなあ。
うんうん、なあるほど。それはそうとして──
「何言っちゃってんだ、クソガキ」
教え子は悲しそうに顔を歪めて。
「そうですか」
セドリックの首を刎ねた。
コロコロと首が転がる。出血量は少ない。傷口はすぐ塞がるから。
「僕のこと、否定するんですね」
「私は神崎義信じゃねえから、スパルタに行きますよ。間違っていることは間違っていると言いますし、テメエの全てを肯定なんてしてやりません。今までのように優しい優しい赤子扱いはしねえと思っててください」
セドリックは散々っぱら甘やかしてきたガキに、最後の最後に世の中の厳しさと愛情を教えてやる。
「テメエが神の愛子だろうが英雄だろうが、んなのは関係ねえ! テメエのようなただのクソガキの、思い通りになると思うなよ!」
セドリックの頭が爆ぜた。
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