幕間 死人の手招き
死んでしまいたいと思っている。
桐生渚はこの十二年間、ずっと死んでしまいたかった。希死念慮。自殺願望。どんな楽しいことも、嬉しいことも、どれだけ幸せでも、いつだって死んでしまいたいと願う自分がいて、思い出は塗りつぶされていく。面倒だと思う自分がいる。かったるいと思う自分がいる。変わらない本質を抱えて、桐生は生きてきた。
しかし、桐生は希死念慮以外は普遍的な子供である。
こんな自分によくしてくれる母と父と祖父に報いたいとも思っている。もう大丈夫だよって言ってあげたい。こんな陰気でカビ臭い子供のままでいていいはずがない。
だから、その誘いはなんとも魅力的だった。
「こんにちは、桐生渚!」
塾の帰り道。フラフラと帰宅していた桐生に、話しかけてきた人物が一人いた。塾指定のリュックを背負い直して、改めて自身の目の前に現れた人物を観察する。
夕暮れに照らされた、錆びついた歩道橋の上。道を塞ぐように立っているのは、十にも満たない子供だった。くま耳のついた可愛らしいフードを被っている、黒髪の少年。なぜか裸足。特殊メイクでも施しているのか、黒い絵の具を混ぜたような赤色の瞳の片方、左目は黄色のボタンが縫い付けられていた。
誰だろうと、桐生は疑問に思う。親しげに名前を呼んでくる、ずいぶんメルヘンな格好をしているこの子は、一体誰なんだろうか。知り合いじゃあない。桐生は意外に思われるかもしれないが記憶力だけはよかった。
じゃあ、だれなんだろう。
「うんうん! ルシファーの言いつけで渋々コッチに来てみたけど、ちょーベルフェゴール好み! だいすき! まさに一目惚れ! わざわざおもったい腰あげた甲斐があったねえ!」
「……誰だ」
「おっとっと、自己紹介がまだだったねえ。ベルフェゴールはちょっとだけ反省してあげる」
クスクス笑って、ひどく桐生を愛おしそうな瞳で見つめながら。
「ぼくちゃんはベルフェゴール。大罪の魔王が一柱、怠惰の悪魔ベルフェゴールだよ。桐生渚に会いに、わざわざこの世界まで出向いてきたんだ」
……虚言癖?
それか妄想が活発なお方。悪魔だなんだと言われても、そんなのは知ったこっちゃないし、桐生はさっさと帰りたかった。道を開けて欲しかった。会いにきた? 頼んでない。ファーストコンタクトに点数をつけるならマイナス三十点。もちろん百点満点の話で。
桐生は他人に興味がない。
いや、それなりに親睦を深めれば、それなりに大事にしようとは思える。だから桐生と仲良くなりたいのならとりあえず第一印象からやり直した方がいい。虚言と妄想にどっぷり浸かった、ピンクの象が見えちゃってるようなヤツは好みではないのだ。
「……そ。暗くなる前に帰ったら?」
「ん? スルー? ひどいなあひどいなあ。ベルフェゴールはとっても桐生渚のことを思ってるんだよ? まさに百年の恋さ。アスモデウスの気持ちがわかるね。いや、アスモデウスにこの気持ちはわからないね。偽物の愛しか食らったことのないアスモデウスに、この感情がわかってたまるもんかって話だよねえ」
ベラベラと身内(?)の悪口を喋り続ける彼に、桐生は若干疲弊していた。早く帰りたかった。桐生のベストフレンドは半分万年床と化しているお布団である。
桐生は喋り続ける彼を無視して、横を通ってすれ違おうと歩を進めた。
「──無視すんなよ死にたがり。欠陥品ヤロウ」
踏み出しかけた足が止まった。
ぞわりと何か、薄寒いものが背筋を駆け回る。足がマトモに動かない。息が詰まる。気を抜くと倒れてしまいそうだった。少年がじっと、桐生を睨んでくる。
「……怯えなくてもだいじょーぶだよ! ベルフェゴールはとーっても優しくて慈悲深い悪魔だから、ちょっとの無礼は許してあげるの。しかも桐生渚だしね。うんうん、もう二度とするな。自分の立場ぐらいわきまえておけ」
少年が笑いかける。固まった桐生の袖を引っ張って、無理やり膝を付かせた。彼が桐生の頬を包んで、目を合わせてくる。
「ね、桐生渚。とっても死にたがりで面倒くさがりな桐生渚が、ベルフェゴールはだいすきだよ。愛してるよ。だからね、お願いを叶えてあげる」
「……どう、いう」
「契約しよ、桐生渚」
赤色の瞳が細められる。今更ながら、桐生は少年の手が氷のように冷たいことに気づいた。
「桐生渚は頑張り屋だから、こんなクソッタレな世の中でも頑張って生きようとしてるよね。えらいねええらいねえ。はなまるまんてんをあげよー。でもね、ベルフェゴールはどうしようもなく救いようがない桐生渚がすきなの。己の欲望を丸出しにした、本音中の本音を晒し出した、桐生渚がだいすきなの」
そのまま彼はさらりと頬を撫でてくる。桐生はただ、手を払うこともできなくて、彼の言うことに耳を傾ける。
「休んじゃいなよ、桐生渚。のんびりぼーっとしちゃお。学校とか、家族とか、そういった面倒臭くて仕方ない事象なんてほっといちゃえばいいんだよ。時間も何もかも忘れちゃお。ベルフェゴールといっしょに、何も考えずに暮らそうよ」
「で、も」
「家族が心配? 学校が不安? 面倒で仕方ねえこの現世に、何か未練が?」
なぜ。
なぜ自分は、まだ出会って五分も経っていないだろう少年に、心を奪われているのだろう?
この少年が囁いてくる御伽話のような幻想は、桐生にとってひどく心地よくて。実現できたらどんなにいいかと夢想してきたことが、この少年といれば叶うような気がして、しょうがない。
「じゃあさ、こうしよっか」
「……?」
「三日間だけってのはどう? お試し期間。トライアル期間。なに、桐生渚だけの特別サービスだよ。代償はうんとお安くしてあげるさ」
三日間。それだけなら、いい気がした。それだけ休んだら、また頑張れる。もう大丈夫だって言えるようになろう。そろそろ希死念慮なんてなくすべきなんだ。
「で、どうする? 桐生渚」
乾いた喉を必死に動かして、桐生は決まりきっていた答えを口にした。
「けいやく、する。させてもらう」
彼は、ベルフェゴールは笑った。腹の奥から滲み出てきたような、低い声だった。先ほどまでの可愛らしい笑い方からは想像できないような、暗く黒い笑み。
「じゃ、契約成立だ。──怠惰の悪魔、ベルフェゴールは契約者、桐生渚に絶対の忠誠と信頼を誓うよ。桐生渚がカラスを白と言うのなら、カラスを白にしてあげる。三日間だけ休みたいと言うのなら、ベルフェゴールはベルフェゴールの領域である夢の底にご招待する。代償さえ払ってくれれば、ベルフェゴールは桐生渚のものだよ」
……
シーツの海で、桐生渚は寝っ転がった。
薄ぼけた白っぽい、しかし眩しくはない空間。行き止まりが見えないほど、だだっ広いこの空間にはぬいぐるみとクッションとおもちゃと布団が散らかっていて、その一つ、ぺったんこになった枕を抱えながら、桐生渚はぼんやりしているのだった。
天井なんて概念は、この空間にはないらしい。上を見上げてもただ真っ白い霧がかかっているだけで、何も見えない。この空間を照らす光がどこからきているのかもわからない。
「やっほー、桐生渚。ベルフェゴールの契約者さん。満喫してる? エンジョイしてる?」
「……ベルフェゴール」
「そう、桐生渚だけのベルフェゴールだよ。満足してるようで何よりだねえ」
ぺたぺたと近づいてきて、桐生の近くに寝っ転がる。近くにあったクマのぬいぐるみを抱えてニコニコ笑っている。何がしたいのかよくわからない。
「なんの用だ」
「ああそれね。代償についてのお話をしにきたの」
ごろりと回転し仰向けになる。ベルフェゴールは桐生に向き直った。
「三日間休みたいって桐生渚は願った。だからベルフェゴールは叶えた。でもコッチも慈善事業じゃないからねえ。お代が欲しいの。それが代償」
「……なにを払えばいい」
「桐生渚が大事にしてるものみっつ」
なんだ、そんなものならくれてやる。元々大事にしているものなんてなかった。集めているキンケシだけはちょっと惜しいけど……まあ、どうでもいい。考えるのは面倒だ。
桐生は寝返りを打つ。ベルフェゴールは桐生が了承したことを感じ取ったのか、また立ち上がった。
「じゃ、これで正式に契約は成立ね。ごゆっくりしてていいよー。管理者権限はベルフェゴールから桐生渚に移しとくから」
よくわからなかったが、どうでもよかった。考えるのがひどく面倒だった。とにかく桐生は人生最後の休みを謳歌したかったのだ。
だから、聞き流してしまった。考えることを放棄してしまった。契約内容をキチンと吟味して、熟考しなかった。
その報いは、必ず受けることになる。
……
懐かしい夢である。
あの時クソ悪魔の手を呑気にも程がある考えで取った過去の自分をビンタしてやりたい気分だ。齢十四歳となった桐生渚は、舌打ちをしたくなりつつ深夜に目覚めた。万年床と化した布団の上。暗くて周囲の状況がよくわからなかったが、間違いなくここは桐生の自宅である古い平屋の一室、つまりは桐生の部屋であることが分かる。
「おはよ、桐生渚」
顔も合わせたくないクソ悪魔がお出ましやがった。お出ましやがったって多分正式な言葉じゃないだろうけど、とにかくそう言いたかったのでお出ましやがったと言ってみた。語呂はあんまりよくないけど、桐生は好き。
挨拶も返さず仏頂面でベルフェゴールを睨む桐生の態度が、よくがわからないとでも言いたげに、ベルフェゴールは首を傾げる。
「あれれ? 不機嫌なの? おかしいねえおかしいねえ。ぐっすり眠っていい夢見れて、幸せな気分じゃなかったの?」
「……お前と会話をするだけで俺は不機嫌になるんだ。よく覚えておけよ」
「おっかないねえおっかないねえ。肝に銘じておくよ、桐生渚。……でさ、もうちょいで殺せそう? そろそろ配信しないとリスナーさんが怒っちゃうよ」
「……それは」
桐生は逃げ続けている。
家族を殺したあの日からずっと、桐生は現実から逃げ続けている。ベルフェゴールが言うままに、ずるずると契約関係を続けている。もうやめてしまいたいのにやめられなくて、ただ夢が見たくて、休みたくて、ベルフェゴールに代償を──生贄を捧げる。そんな生活がもう二年だ。
いいよどむ桐生に、ベルフェゴールは呆れたようにため息を吐いた。桐生は今現在、DV被害者である山口杏子の夢で色々やっていた。それっぽい救いの言葉を囁いてみたり、思い通りになる空間で幸せにしてやったり。そろそろ夢遊病も出てくるだろう。完成間近。もう少し経ったらリアルで会いに行って監視カメラを仕掛けなければいけなかった。そのあと山口杏子は配信のネタにされつつ救いを求めて死ぬ。救いなんてないから、その後はベルフェゴールの養分だ。
「……イマイチ気乗りしない桐生渚に、ここで朗報を教えてあげようじゃないか」
「なんだよ。傲慢の悪魔使いの話か? 断っただろうが。いちいち掘り返すのはやめてくれ。まだ勧誘してくるなら追い返してくれ。俺は英雄殺しなんかに興味はない」
「ああ違う違う。英雄殺しじゃなくて……まあ近しいかもしれないけど、とりあえず死にたがりな桐生渚にとってはまさに救いって感じの話だよ」
渋々体をあげる。ベルフェゴールに向き直りつつ、耳を傾ける。
悪魔は嗤った。
「勘付かれた」
「……は?」
「教会の情報屋に、勘付かれちゃったの。ベルフェゴールの自殺配信。または桐生渚の生贄作り。それがバレちゃった。あんだけ大々的にやってたら、いつかはバレちゃうと思ってたから、まあいいかな。二年かあ。二年ならもった方だよねえ。うんうん、しかたないよねえしかたないよねえ」
「……つまりは」
「桐生渚はもう生贄を捧げられない。もう自分自身を差し出すしかないってこと。死なせてなんてあげないから、せいぜい余生を思いっきり苦しんで楽しんでね」
逃げ道が塞がれた気分だった。
生贄を使った現実逃避。それが、やっとやめられる。やめてしまいたかったのに悪魔が囁いてきて、結局手を染めてしまうなんてことがなくなる。多額の借金を背負った薬物中毒者が、やっと警察に捕まった時の気分だった。なぜか清々しい。心の表面での絶望感と、奥底での安心感。
「最後の大仕事といこうじゃないか」
気分を害されて、桐生は眉間に皺を寄せつつ疑問を口にした。
「……やっただろ。傲慢の悪魔使いに言われて、シスターを一人殺した。弱みに漬け込んだ。完成間近で経過途中なのは残っているが、もうやるだけ無駄だろう」
「わかってないなあ、桐生渚は。教会は大罪の悪魔使いの出現に関しては結構臆病さんなんだよ。確実に、もう一人死ぬまで、ちまちまとした調べ物が終わるまで、手は出してこない。配信をやめるのはその後だねえ」
おや、山口杏子は結局死ぬ運命だったらしい。
また殺す。また死なせる。桐生は何度も繰り返した。
終わらせて欲しい。
罪を償いたい。
桐生は死にたくてたまらない、人間以下の存在である。生き物として失格である。欠陥品。不良品。終わりたい。死んでしまいたい。どうか殺してくれと願う。自殺未遂は日常茶飯事。この二年間風邪をひいた記憶はないのに、風邪薬は業者か? ってぐらい常備してあるし、登山なんていかないのに登山用ロープが三十本はある。腕の傷は治る前に開かれるから、もう治らなくてぐちゃぐちゃになってしまっている。
そこまでやっても、悪魔のせいで死ねなかった。
「……ベルフェゴール」
「なあに? 桐生渚」
「殺してくれ」
「それはダメって何度も言ってんじゃんねえ。コッチだって仕事は選ぶよ。叶えられない願いはあるよ。だから代案を提案して、叶えてあげるんじゃないか」
「もう、終わらせてくれ。死にたいんだ、ベルフェゴール」
「やだね。ベルフェゴールは桐生渚を死なせない。てか悪魔は契約者を殺せないしね。危害が加えられないの。ロボット工学三原則って知ってる? あれと似たような制約があるから、どれだけ桐生渚が望んだところで、ベルフェゴールはその制約を破ってまで叶えようとは思えないなあ」
ベルフェゴールは慰めるように桐生を抱きしめてくる。冷たい。
桐生は必死に喉を動かした。
「じゃあ契約を破棄する」
「やだよ。あ、無理やりの契約破棄は変に権能譲渡の名残が残っちゃうからおすすめしないよ。桐生渚の場合、夢の底に閉じ込められちゃうかもなの」
「……殺してくれ」
「だから無理だって。大した代償も払えない桐生渚が、ベルフェゴールを好き勝手に動かせるわけないじゃんねえ。ぶっちゃけ借金してる状態なんだよ。生贄探すのも、生贄を殺すための道具を──夢の底を用意するのも、ベルフェゴールだもん。雪だるま式ってやつ? そんな感じ」
「なんでも、やる。魂だってあげる。俺のぜんぶ、お前にやるから……」
「……から?」
「殺してくれ」
ベルフェゴールが忍び笑いを漏らした。
ああ、取り返しのつかないことを言ってしまったかもしれないと、ちょっとだけ考えたけど、死ねるならどうでもよかった。ただ死なせて欲しかった。
数分後に、ベルフェゴールが口を開く。
「いいよ」
「……は」
「いいよ。殺してあげるし借金もチャラにしてあげる。全部くれるって言うのなら、ベルフェゴールはなんでもお願いを叶えてあげないと、ねえ? アハハッ! とびっきり愚かで可愛いねえ。いとしいねえいとしいねえ」
ベルフェゴールの哄笑を聞きながら、桐生は微笑んだ。そこで、心の底から喜んだのは久しぶりだと気づいた。二年ぶりか。かなりのブランク。上手く笑えているだろうか。どうせなら笑って死にたい。苦しい顔をした死体は気持ち悪いもの。
ベルフェゴールは桐生の耳元で囁く。
「後悔するなよ桐生渚。お前が望んだんだ。お前がベルフェゴールに願ったんだ。この怠惰の悪魔に、何もかも捧げると言った。──どうかとびっきり苦しんで悶えて溺れて後悔して懺悔してベルフェゴールのものとして生きていってね?」
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