2-8 無理やりにでも前を向こう

 ユースフ・スライマーンは逃げていた。

 夜の街。交通量が極端に減った車道を走っていた。堂々とした軽犯罪だが、ユースフの気にするところではない。今更の話だ。

 ユースフは教会からも、傲慢の悪魔使いからも逃げていた。教会も悪魔使いも、どちらも裏切ったのだ。ユースフにとって裏切りは呼吸と同レベルなので罪悪感のかけらもないが、それはさておき、ユースフはとにかく傲慢の悪魔使いを裏切るタイミングをミスった。慣れってのはオソロシイね。些細なミス。それでも傲慢の悪魔使いに捕捉された時点でアウト。

 だから追いかけられている。


「チャーリー!」


「いい、います! か、勝手にい、いなくなるなんて、そそそ、そんなことは」


「傲慢の悪魔使いはどこにいる!」


「後ろにいまあす! すみませえん!」


 背中が切り裂かれた。

 いたい。背中が焼けるように痛くて、感じたことのない苦しみにユースフは悶える。地面に倒れ込む。


「──随分無様な有様だな、裏切り者ビトレイヤー


 ユースフと同じく堂々と車道の真ん中で歩みを止めた、十四歳程度の少女がいた。

 ミルクティー色の、切り揃えられた髪。古風なセーラー服。首には一周ぐるりと円を書くように傷跡が残っている。


「これ、は、これは。傲慢の悪魔使いサマ? お、あいできて、光栄、っす」


 暗闇から現れた傲慢の悪魔使い──皇五十鈴に、息も絶え絶えながら一応のリップサービスをしておいた。


「そうか。私は二度と会いたくなかったがな」


「ひ、ヒドイ。俺、は傲慢の、悪魔使い、サマのため、に」


「虚言癖をやめろ、ユースフ」


 口を閉じた。もうお得意の口八丁は通じない。

 考えろ。考えろ。ここから生き残り幸せになるにはどうしたらいい。どう行動すればいい。チャーリーもこの状況じゃあ役に立たない。傲慢の悪魔、ルシファーに怯え切っている。

 幸せにならなきゃ。

 じゃなきゃ、たくさんの人を裏切った意味がないじゃないか。

 父と母を裏切って、自分の才を見出してくれた人を裏切って、裏切ったどうしようもない自分を受け入れてくれた人を裏切って、裏切り癖がついた自分を守ってくれた人を裏切って。

 たくさん裏切ったから、幸せにならなきゃ。

 幸せになりたい。不幸は嫌だ。幸せになりたくて、しょうがなくて、裏切って、薄っぺらな罪悪感だけ蓄積されてって、でも幸せになりたかったから。幸せになるために頑張ってきたのに。

 死にたくない。


「お、俺は」


 どうするべきだ。

 どう発言したらいい。考えろ。考えろ。きっと教会に残しておいた偽物たちは全員やられた。もう身代わりはいない。ユースフはここにしかいない。


「いすず、おなかすいた」


 もう一人、皇の後ろから同い年であろう少女が現れる。

 ギラギラと輝く人工的な短めの金髪。大量に開けられ、付けられたピアス。虎の刺繍が入ったスカジャン。破れてズタズタになった黒いタイツ。短めの黒いスカート。ゴテゴテしたスニーカー。

 ああ、ダメかもしれないと一瞬だけ諦めかける。すぐに考えは霧散したけど、体の震えは止まらない。コイツを止める方法がわからない。皇だけならまだしも、コイツは、コイツがいたらダメだ。話が通じないのだ。虚言とヨイショで丸め込もうなんてのは通じない。会話ができない。だから、ユースフはコイツを止められない。


「……佳奈かな。もう少しだけ待て」


「でも、おなかすいた。ぼく、けっこー待ったよ」


 辿々しい話し方。彼女は不機嫌そうにガジガジと爪を噛む。綺麗な紫色に塗られたネイルが欠けていく。


 彼女は秋月佳奈あきづきかな。──暴食の悪魔使い。



「──そうだ。ウチのお姫様は腹を空かせているのだから、さっさとフルコースでも用意してくれたまえ。ルシファーの気に入り」



 秋月の背後から現れたのは、真っ白い男だった。

 背後で一つにまとめられた髪も、秋月を見つめる瞳も、肌も、貴族のような衣装も、何もかも白い、そんな男。


 暴食の悪魔、ベルゼブブ。


 チャーリーが震えている。泣きそうになっている。ユースフはただ、思考を回す。


「……急かすな。いつかは食えるのだから、もう少し待て」


「いつってなんじ?」


「あと三分後」


 おや、死刑宣告されてしまったかもしれない。ユースフは口を開く。言葉は出てこない。何か、何か言わないと。死にたくない。死ぬわけにはいかない。だから。


「ユースフ」


「……お、俺は、きっと、あなたの役に」


「何か遺言は?」


 喉がつかえる。上手く喋れない。お得意の虚言が、吐けない。


「し、しにたく、な」


「ベルゼブブ、牙」


 上半身から丸呑みにされた。

 突如として現れた、成人男性の身長分はあるだろう大きな口。『牙』。宙に浮いたソレは、鋭く尖った牙でユースフを咥えて一回浮かせて口に放り込んだ。飲み込んで、満足そうに唇を舐めて消える。

 皇はため息を吐いて頭を抑えた。


「……三分待てと言っただろう」


「おなかすいてたし」


「佳奈が望んだからな。……まっず。衣だけの天ぷら食った気分だ」


 ……皇は震えてばっかりなチャーリーを見やる。ベルゼブブの感想が、イヤに気になった。大抵の人間は美味しくいただくのがベルゼブブなのに、まずいと言ったその理由。

 違和感がある。


「チャーリー」


「ひ、ひいいっ! こ、ころさないでくださあい! ぼ、ぼく、なんも、わるく」


「今のユースフ・スライマーンは本物か?」


 スイッチを切り替えたかのようにチャーリーの雰囲気が一変した。震えるのをやめる。喉に手をおいた。


「……彼は本当の本物から生まれた本物の偽物であったのかもしれません。本物の偽物から生まれた偽物の偽物だったのかもしれません。それか本当の本物であったか。偽物を本物にするぼくからしたら、どうでもいい話ですが」


 話す気はないらしい。

 チャーリーも把握できていないのかもしれない。本物のユースフはとっくのとうに死んでいて、実は皇たちは最後の偽物を殺しただけなのかもしれない。

 今となってはどうしようもない話だが。

 皇はため息を吐く。もう少し神崎やアルベルトの話を聞きたかったのだがもうできなくなってしまった。やはり連れてこなければよかったかもしれない。


「いすず」


「……なんだ、佳奈」


「たべてい?」


「許可する」


 佳奈が軽くベルゼブブの袖を引っ張る。

 ベルゼブブはなんの躊躇いもなく、チャーリーに先ほどの『牙』を向けた。


「……っ?! 『ベルゼブブはチャーリーを食うことができない』!」


 チャーリーの腕がもがれた。

 意外にも人間と同じような、赤色の血が漏れ出る。荒く息をしている。ふらつきながらも、立ち上がる。


「おや、少ししか食えなかったか。さすがのキミも大罪の魔王の権能を完璧に歪めることはできないのだな」


「……こ、ころさ、ないって、言ってくれたのにい……」


「いった?」


「いや、微塵も。チャーリーの妄想だろう」


 ベルゼブブが肩を竦める。チャーリーはそんな暴食の悪魔を忌々しそうに睨んでから、脱兎の如く逃げ出した。あっという間に消えて見えなくなる。


「……追う? いすず」


「いや、いい。帰ろうか」


 少しの痛手だが、どうってことはない。怠惰の悪魔使いが死んだことも、裏切り者ビトレイヤーが死んだことも、ここから先のことを考えれば誤差の範囲内。

 神崎雨音にもそれなりの打撃を与えられたんだから、チャラにしておこう。



 ……



「は」


 神崎雨音が消えた。桐生渚の目の前から。


「なんで」


 人気のないレストラン。神崎に啖呵を切られて、それで、桐生は必死に返事をしようとしていたところだった。

 なんで、消えた?

 今、このレストランには桐生しかいない。夢の底だ。ベルフェゴールから借り受けた、夢の中。全てが桐生の思い通り。

 桐生は、神崎を拒絶していない。

 無理やり夢を終わらせたりしていない。

 じゃあ、なんで消えた?


「不思議って顔してるねえ、桐生渚」


 横から聞き覚えのある声がした。

 テディベアの格好をした、十にも満たない少年だった。桐生の隣に遠慮なく座ってくる。

 怠惰の悪魔、ベルフェゴール。


「なんで、お前が」


「もちろん神崎雨音を追い出して、入れ替わる形で出てきたからだよ? そのくらい考えてよね」


「ここは、俺の」


「ああ、ここの権限は桐生渚に譲り渡したんだっけ? だからそんな不思議そうな顔をしてるワケだ。なっとくだねえなっとくだねえ。……ここにいるベルフェゴールは機能としてのベルフェゴールだよ。自動音声案内装置みたいなもの。したがって本物じゃない。いじょー説明終わり」


 そういうことじゃない。

 桐生は、ただ神崎が消えて混乱している。返事をする前に消えてしまった友人のことが気がかりでしょうがない。

 ベルフェゴールは必要以上に桐生にくっついてくる。腕に引っ付いて頬擦りをしてくる。


「桐生渚はね、死にたがりじゃなきゃいけないの」


「……どういう、ことだ」


「ベルフェゴールは死にたがりな桐生渚がだいすきなの。変わってほしくないんだ。譲れない最低条件なんだよ。だからね、神崎雨音に絆されて生きてみたいって思っちゃった桐生渚はきらい。戻したい。桐生渚は、ずっとずっと死ねないことに嘆いていればいいの」


 ああ、そうか。

 桐生は、神崎と共に生きてみたいと思ってしまったのか。

 だから神崎が消えてひどく混乱して、疑問で頭がいっぱいになって、らしくもない質問をベルフェゴールに繰り返した。

 じゃあ返事をしなきゃいけない。神崎に会わなきゃ。今度は現実で会わなきゃいけないんだ。

 早く目覚めなきゃ。


「あははっ! わすれちゃってるねえ」


「……何が」


「桐生渚はとっくに死んでるよ」


 意味がわからなかった。

 だって、ここにいる。桐生渚は夢を見ている。神崎と会話もした。だから、桐生は生きていないとおかしいのに。

 ベルフェゴールは笑っている。


「山口杏子を殺した時に、もう終わらせてくれって頼んだじゃない。。だから桐生渚はここでベルフェゴールといっしょにいるの。ベルフェゴールは桐生渚の魂を夢の底に縛り付けてるの。おろかだねえおろかだねえ。でも、死ねてよかったねえ」


「そんな、はず」


「ないって? あるよ。桐生渚は壊れかけのデパートの中で首を吊ってるよ。死んじゃったの。ベルフェゴールとしては桐生渚といっしょにいれるから、まさに願ってもないことだったねえ」


 そんなはずはない。

 夢だ。夢の中なんだ。早く目覚めてくれ。終わらせてくれ。やっと前を向けたんだ。神崎と生きてみたいと思えたんだ。目覚めてくれ。早く夢だって言ってくれ。誰かベルフェゴールを祓ってくれ。そうすれば、桐生は解放されるはずだから。


「ずーっと後悔し続けて、死にたがっててね? ベルフェゴールだけの桐生渚」



 ……



 結論から言ってしまえば、丸く収まった。

 怠惰の悪魔ベルフェゴールは滞りなく祓われ、怠惰の悪魔使いである桐生渚も死んだ。教会を裏切ったユースフ・スライマーンは行方不明となった。


 神崎雨音は失敗しなかったのだ。


 むしろ褒められた。怠惰の悪魔使いを殺した英雄であると讃えられた。

 物語はハッピーエンド。よかったよかった。めでたしめでたし。おしまいおしまい。


「何をそんなに暗い顔をしている」


 レイモンドの書斎。相変わらず書類を斜め読みして放り捨てるを繰り返す大人は、目の前に立つ神崎を見て怪訝そうに問いかけた。


「……してましたか?」


「していた。自身の故郷が盗賊に焼かれていくのを黙って眺めているしかない旅人のようだったぞ」


「例えがわかりずらいですね」


 自分でもびっくりするぐらい平坦な声だった。意外と平気そうな声だった。

 桐生渚が死んでも、神崎は生きていけるらしい。


「失敗どころか勲章ものの活躍じゃあないか。怠惰の悪魔使いの殺害。人を殺せない英雄の成長。教皇様もお喜びになられていた」


「……光栄ですね」


「何がそんなに気に入らない」


「気に入らないってことはありません。それをいうなら、僕が気に入るものなんてこの世にはありません」


 レイモンドがため息を吐く。新しい書類をつかんで、一瞥し、すぐに放り投げた。

 神崎はまっすぐにレイモンドを見つめる。


「一つお聞きしても?」


「なんだ」


 無理やりにでも、現実に向き合って。



「──セドリック・ライトフットとアルベルト・フォーセットを守れず、自身を天使の器に作り変え、その後実の弟、アルベルトまでも天使の器に仕立て上げて、僕の先生でありレイモンド修道院長にとって唯一無二のバディ、神崎義信を死地に送った時の気分はどうでしたか?」



 レイモンドは顔も上げずに。


「さあな」


「そうですか」


「では、コチラからも問おう」


 天使ラファエルの器は、英雄に問う。



「はじめての友人を殺した時の気分はどうだった?」



 英雄は笑った。



「さあ? 知ったこっちゃねえよ」

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