2-7 酔生夢死はもうおしまい

 神崎は賑やかなデパートのレストランにいた。

 お昼の時間だからか、レストラン内は混んでいる。たくさんの人がいる。真上に上がった太陽が眩しい。ガラスの向こう側には、綺麗な青空が広がっている。

 レトロチックな料理を楽しむ一家だとか、緊張した面持ちで向かい合う恋人たちだとか、そういった平々凡々な幸せを享受する群衆の中に、神崎は堂々と座っていた。


「で、さ」


 神崎は目の前の席に座る人物に話しかける。ソファにふんぞり返って腕を組む。



「どうせこれも夢なんだろうけど、全部説明してくれる? 渚くん」



 血に塗れた桐生渚は、この場に全くそぐわない少年は、飛び降り死体の成り損ないは、ゲラゲラ笑って、笑って、笑い終わってから神崎に微笑んだ。


「全部ってどこからの話だ? 最初の最初、医務室前の邂逅のとこか? 映画を観に行ったとこか? ゲーセンで遊んだとこか? お前が青色の天使の器にいじめられたとこか? そのあと教会のトイレで吐いたとこか? デパートで豪遊して、正体を明かしたとこか? エクソシストを皆殺しにして、そのあと赤色の天使の器に殴られたとこか? 青と赤にいじめられて、親元に返されそうになったとこを俺が救い出したとこか? 錆びついたデパートの非常階段を登って、俺の願いを最後の最後に蹴って、俺が悲しくなりつつ一縷の望みを持って俺だけ飛び降りたとこか? なあ、英雄。どこからの話だよ。全部説明しろ? なら教えてやる。全部夢さ。夢に決まってんだろ。でもな、これだけは言っておくぜ。。もちろん過去の記憶引っ張り出して無理やり見せたのもあるが……天使の器関係はそうだが、それ以外は忠実にお前が見たい夢を見せてきたんだよ」


 長ったらしいセリフを一呼吸で言い切って、桐生は血の塊を吐き出した。机に赤色の水たまりができる。


「汚ねえな」


 桐生が折れた指を鳴らすと、机に染みた大量の血は虹色になった。桐生は満足そうに頷く。

 神崎は水の入ったコップを隅っこに追いやる。


「いくら色を変えたって汚いのには変わりないよ」


「こんなの見た目の問題だ。野良猫とドブネズミは衛生観念から見たらほとんど一緒なのに、野良猫は可愛がられるだろ」


 そう言って、桐生はまた血を吐いた。最初から虹色だった。芸が細かいこと。


「んで、お前は野良猫で俺はドブネズミだ」


「……やな例えだね」


「事実だろう。わかりやすいだろう。俺とお前は根っこは一緒なのに、その立場、人間関係、物の考え方、倫理観、正義感、何もかも違う。同類であって同類ではなかったんだ。裏切られた気分だぜ」


「勝手に信じられることの気分の悪さは知っていると思ってたけど?」


「俺は知らない。野良猫の苦悩を、ドブネズミである俺は知らない。俺はただ自分がまたもや死ねなかったことに嘆いているだけだ。また失敗だ。また失策だ。もう飽きたんだよ雨音。俺は失敗に飽きてしまったんだ」


「失敗は成功の母だよ。それこそ次を信じてやり続けたら?」


「残酷なことをぬけぬけと言わないでくれよ英雄。こっちはもう疲れたんだ。やりたくない。呼吸をしたくない。考えたくない。摂食行動に何の意味がある? 愛を育んで、本当に幸せになれた試しがあるか? ねえよ。あったらお笑い草だ。俺は何も信じない。俺はただ、エンドロールを拝むために死に続ける」


「……物騒な話」


「人生は地獄より地獄的なのさ」


 そう言って口のある死人はゲラゲラ笑った。ひどくうるさくて、神崎は耳を塞ぐ。


 唐突に、笑う死人の喉元からナイフが飛び出した。


 一回ナイフが抜かれて、また飛び出す。抜く。刺す。抜く。刺す。喉の穴から、ナイフが動くたびに血が溢れた。虹色だった。

 死体となった桐生渚の背後にいる人物、つまり死人にトドメを刺した人物は、死体の頭を掴んでソファから引き摺り落とした。


「よ、雨音」


 桐生渚だった。

 ただし、桐生渚の虹色の返り血を浴びた、健康体の桐生渚だった。


「……夢だからって好き勝手やりすぎじゃない?」


「いいだろ、別に。現実が不自由な分、こっちで好き勝手やるのもまた一興」


 虹色になった桐生渚は入れ替わるようにソファに座った。うわ、と声を漏らすと指を鳴らす。虹色の水たまりが消えた。


「……君の考えてることが、本当によく分からないよ」


「分かってもらおうなんて考えてねえからな」


 クスクス笑う。本当、よく分からない。理解しようともしてないけどさ。

 桐生はまた指を鳴らす。目の前に湯気の立つコーヒーカップが並んだ。角砂糖が詰まった瓶も一緒に。


「俺とお前は違う。いや、違ったと言った方が正しかった。この話はから聞いただろう?」


「うん、聞いた。ねえ、ミルクないの?」


 ぽんっと弾けるような音がしてミルクが机の上に出現した。

 桐生は結局何も入れなかったコーヒーを啜る。


「……俺は死にたくて死にたくてたまらないんだよ、雨音。面倒なんだ。俺は生まれてきた時から、全てのことが面倒だったんだ」


「……」


「赤ん坊のとき、俺は泣くのが面倒だったから腹が減ってもオムツが汚れても泣かなかった。母親は小児科に駆け込んで、何か異常がないか何度も検査したんだってさ。ははっ。結局成長したあと、ただ俺が面倒で泣かなかったってことがわかるんだが、ずっとずっと母親は気をもんでた。いや、成長したあとの方が酷かった。俺のことが心配で心配でたまらないみたいだった」


 神崎はコーヒーに角砂糖をぶちまける。


「母親は、面倒だからと必要最低限の受け答えしかしない俺を、起きろと言わなければずっとベットに寝っ転がっている俺を、反抗するのを面倒臭がって、何もかも受け入れて、結果的に誘拐され内臓を売り飛ばされかけた俺を、どうにかしなければと思ったらしい。色々なことをさせられたよ。陸上競技、水泳、バスケ、バレー、野球、サッカー、卓球、ピアノなんかの楽器、ダンス、英会話、塾、思いつく限りの習い事をやらせた。何か興味を持って欲しかったみたいだった。どれもこれも一ヵ月で辞めた。興味なんて持てるはずもなかった。全て面倒だった」


 ぐるぐるかき混ぜる。コーヒーからざりざり音がする。


「そう考えると、父親はまだマトモだったな。休みになるたび遠出させられたけどさ。釣りとか、ハイキングとか、動物園とか。とにかく興味を持って欲しかったらしいが、母親より頻度は少なかったからまだ楽だったよ。何度も精神病院に連れてかれたけど。……そうだ。週末は病院と遠出のツーコンボだっけ……。懐かしいな。面倒だったな。俺はただ、全部面倒だったってだけで、異常なんてなかったから……」


「……」


「じいちゃんは、ちょっと苦手だった。なんかすっげえ捲し立ててくんの。根性が足りんとか言ってさ。竹刀持ってきて、剣道の真似事みたいなんやらされたよ。途中でやめると説教くらうから、なんとか付き合ってたけど……根性なんてなくても生きていける。呼吸と食事と排泄さえしてりゃあ、生きていける。でも俺はそれすら面倒だった。怠かった。だから、じいちゃんの言ったことも分からなくもない。全て面倒だと言い切ってしまう俺には、根性とやらが必要だったのかもな」


「……それで? 続きは?」


「ああ、そうそう。懐かしがってる場合じゃねえよな。……全員死んだよ、俺のせいでな」


 桐生はいつの間に飲んでいたのか、空になったコーヒーカップを消した。


「ベルフェゴールと契約したときに、代償として支払われて、死んだ」


「……へー」


「塾の帰り、あいつは話しかけてきた。休んじゃいなよって、そう言われた。魅力的だった。だから、三日だけ休むことにしたんだ。三日、三日だけ休んだら、マトモになれるように頑張ろうって。もう面倒臭がるのをやめようって、そう思った。悪魔のあの字も知らねえただのガキだ。代償として三つ、大事なものを奪うって話も、聞き流していた。集めてたキンケシが三つなくなっちゃうのかなとか、そんなくだらねえことばっか考えてたんだ」


 神崎は、レストラン内にいた家族や恋人たちがいなくなっていることに気づいた。

 桐生が頭を抱えている。建物がミシミシと軋んでいる。


「……俺が三日休んで、家に帰って、もうだいじょうぶだよって言おうと思って。まずたくさん迷惑かけた、母さんに言おうと、思って、台所に行ったんだ」


 ギシッと音がした。

 横を見れば、何かがぶら下がっていた。大人の人間の形をした、ふりこのようなものが二人の横でゆらゆら揺れていた。


「母さん、首吊って死んでた」


「……」


「父さんに、言わなきゃと思って、書斎に行った。父さんも首を吊ってた。縄は切れてて、地面に落ちてたけど、とにかく死んでた。首を吊ってた」


 ふりこが増える。

 最初のものより少し大きいようだった。揺れ始めてすぐ、地面に落ちる。


「じいちゃんに助けてもらおうと思って、じいちゃんの部屋に行った。首を吊って死んでた」


 ふりこが増える。

 前に増えた二つよリは大柄なようだった。ふりこは落ちずに揺れ続ける。


「俺が殺したんだって、そう思った。俺が殺したんだ。一時の感情で休みたいなんて戯言抜かしてたったの三日間休むためだけに悪魔に家族を売り払ったんだ。最低だ。死んだ方が良かった。あの時なんでベルフェゴールに殺してもらわなかったのか理解に苦しむよ。死ねば良かった。死ねば家族は死ななかった。あの人たちは、生きてて欲しかったよ。俺なんかよりも人間らしかったんだ。俺なんかを見捨てずに育ててくれた人たちだったんだ。なんで俺は死ななかった。死ねば良かった。死んでしまえば良かった。死ねばいいのに。なんでウダウダ生きてんの。死ねよ。ベルフェゴールが生かし続けるのなら死に続ければいい。死ね。俺なんか、死んじまえ。俺は──」


 セリフの途中で桐生の喉からナイフが生えてきた。

 今度は一回だけだった。すぐに抜かれて、赤色の血をこぼしつつ、また頭を掴まれてソファから落とされた。


「よ、雨音」


 桐生を殺した桐生渚は、またソファに入れ替わるように座る。

 神崎は砂糖が溶け切らなかったコーヒーを啜った。

 あまり美味しくなかった。佐山のことは、やはりわからなかった。


「何回繰り返すつもり?」


「何度でも。気が済むまで。……んな睨むなよ。思考のリセットにはコレが一番なんだ。思い出話はどうもカッとしやすくていけねえ。落ち着いた対話をしたいんだよ、俺は」


「あっそ。で? さっきのくっだらない不幸話はなんの意味があるの?」


「……? 俺が死にたい理由。聞けば一緒に死んでくれっかなって」


 イライラする。

 この夢の中で好き勝手するコイツのことが、癪に触る。


「で? どう? 一緒に死んでくれる気になった?」


 ムカつく。


「死にてえのもあるが、三割は死ななきゃならねえって義務感だな。なあ、一緒に死んでくれるか?」


 イラつく。


「死んじまおうぜ。頭蓋骨かち割って脳みそ撒き散らして、通行人の迷惑になりながら一緒に地獄に堕ちようぜ。お前が望むなら首吊りでも練炭でもリスカでもODでもなんでも構わない。周りの人間に迷惑かけたくないなら樹海にでも行くか? なあ、雨音、一緒に死んで──」


「渚くん」


 セリフを中断した。

 聞いていられなかった。不愉快だった。声が震える。


「なんで、そんな、不幸ですみたいな顔してんの……?」


「……は?」


「だって、聞く限りじゃ、すごく幸せそうじゃないか。優しい家族だったんだね。僕はわからないけど、きっと幸せな生活だよね。それを、なんで、不幸の象徴みたいに扱ってる、の? 幸せなら、よかったじゃない。なんで、死にたがってるの」


「お、俺が、殺したから。だから、償おうと」


「……なんで?」


 疑問だった。不可解で不愉快だった。幸せなくせに死のうとする理由が、わからない。理解できない。


「死にたがる資格があると、思ってるの?」


「……あるに決まってるだろ。どんな人間でも、ある。どんな幸せな人間だって死にたい時は死にたいんだ」


「……わざわざ幸せを手放してまで? 意味がわからない。素直に受け取っとけばいいのに」


 桐生が目を見開いている。否定の言葉を並べ立てる神崎を、奇異の目で見ている。


「僕はね、渚くん。死にたいなんて一ミリも思ったことはないよ」


「……」


「ただ、世界なんてぶっ壊れちゃえって、思ってるよ」


 この少年は優しい。

 神崎のように加害を夢想するのではなく、どこまでも欠陥商品な自分を処分して安寧を享受しようとしている。


「根っこの部分は同じかもね。でも、分かり合えないよ」


 桐生はしばらくポカンとしてから天を仰いだ。腕を目に押し当てて、あーだのうーだの言っている。


「……クソッ。思いっきりミスマッチじゃねえか」


「そうだね」


 桐生は腕を下げて、ただ偽物の青空を窓ガラス越しに眺める。ため息を吐く。


「……結局さ、他人の不幸なんて心の底からは理解できないんだ。悲劇のヒロインに感情移入して、同調して泣いたって、劇場を出たら『面白かったね』って大切な人と感想を言い合うことができるのが人間だ」


「……うん」


「……俺は、お前と死にたかったよ」


 息が詰まる。

 きっと、桐生渚を救うには、共に死んでやるのが最善だったのだろう。この少年はどこまでも救われない。生まれながらの欠陥品。根っこも根っこの不良品。人間としてはとても生きられない、全てを間違えた人間モドキ。


「……愛の告白は承ってない」


「はは。英雄気取りか」


 桐生は諦めたように笑った。死ねなかったことを嘆くような笑みだった。

 事実、彼は嘆いている。最初から。生まれてしまったところから。だから同類を探し、死んでくれる仲間を募っていた。自殺すらままならない自分を殺してくれる人間を求めていた。

 そして、神崎雨音を見つけた。

 彼は喜んだのだろうか。見つけられた側からしたらどうだっていいが、とにかく桐生は神崎を仲間だと思った。そう感じた。少し違ったけどきっと大雑把な括りじゃ、桐生と神崎は同じだ。過去を引きずってウジウジ嘆いている愚か者だ。


 だから、この自殺志願ヤロウを救いたいと願った。

 幸せなくせに死にたがってるコイツが、心底気に食わないから、だから生かそうと思った。


 神崎は言葉を紡ぐ。英雄としての経験をフルで活かして、ただ自分のエゴのために口八丁を利用する。



「──そうだよ。……もう、現実逃避はやめにしなきゃなんだ。僕も、君も」



 神崎は顔を上げた。

 桐生がコチラを向く。怠そうに呟く。


「現実って……なんで?」


「もう希死念慮は捨ててしまいましょうってこと」


「捨てられると思うか?」


「思わないね」


「じゃあ、無理だ。夢物語だ」


「その夢物語を現実にしなちゃ、僕らは生きていけないよ」


 桐生がため息を吐いて、それでも神崎は目を逸らさない。

 目を逸らしちゃいけない。


「向き合わなきゃいけないんだ。罪を償うために、現実と周囲と自分と向き合って、なにが悪かったのか、どうしたら生きられるかを模索しなきゃいけないんだ。……いつまでも過去の苦しみを振り翳して、わがままを言うのをやめなきゃ」


「……なんで? やる意味は? 償って、なんになる? もう、死んだら──」


「死んで罪が償えると本気で思ってるのなら、僕は君の神経を疑うよ。……逃げて逃げて、逃げ続けても、どうせ追いつかれる。なら、受け止めなきゃ。過去に縋り付くのを、悲劇のヒロイン気取りをやめて、周囲と向き合うんだよ」


「……」


「無理難題で結構。実現不可能で上等。僕も君も、現実逃避の時間が長すぎた。ツケを払う時間だ。そろそろ、過去を捨てて未来を見よう」


「おれ、は」


 桐生は、神崎から目を逸らす。身を乗り出し、頬を掴んで無理やり合わせる。

 一抜けなんて許さない。神様が許しても、神崎が許さない。


「……きっと君は、君の家族以外も何人も殺してるんだろうね。自殺配信の時、きっと被害者には君の幻影が見えていたんだろう? いや、夢かな。白昼夢。夢遊病。僕にも言ったように、一緒に死のうとか言ってたぶらかしたんだろ?」


「……そうだよ。被害者の夢の中で接触し、カメラを仕掛けたのは俺だ。俺が殺したんだ。だから──」


「死んで償うとか、もう二度と言わないでね。……何人殺そうが、僕は君と一緒に罪を償おう。地獄よりも地獄的なこの人生をめいいっぱい使って、いっしょに苦しんであげる。周りが君を殺そうとするなら止める。自殺しようとしたら止める。苦しんで生きろよ桐生渚。怠惰の悪魔使い。どれだけつらくとも前を向け。生き続けろ」


「……で、も」


「僕も苦しむよ。……アルベルトくんとも、真剣に向き合わなきゃだし。佐山くんにも謝らなきゃだし。ああ、安藤さんにもだね。ずっと迷惑かけてたんだから。先生のお墓にも、ちゃんといくよ。なかったことにしない。もう、拒絶しない」


 神崎は桐生の胸ぐらを掴む。目を合わせ、宣言する。


「僕と一緒にとびっきり愉快な地獄に堕ちようぜ! 桐生渚!」



 ……



 正直なところ、神崎雨音は人を救いたいと心の底から願ったことなんて一回もなかった。

 初めてだったのだ。こんなに救いたいと願ったのは。コイツとなら地獄の底の底まで歩いてやると思えた。コイツが救えるなら自分自身がどれだけ苦しくなってもいいと思った。どんな茨道も突っ切って、傷だらけになりながら笑ってやろうと考えた。

 事実、桐生渚を救うためには、神崎雨音が手を引っ張っていくしかなかったのだ。

 無理やりにでも手を取って引いてやらないと、怠惰なコイツは生きることを簡単に諦めてしまう。脱落する。すぐ一抜けで、途中退場。逃げるのだけは一丁前。

 死んで罪が償えないのは、きっと世界でコイツだけだ。

 どこまでも死を望む彼に罪を償わせるには、生かし続けるしかない。

 もうどうしようもない現実の中で生かす。呼吸をさせる。目を逸らさないように監視して、飲み込ませる。生きるのが面倒なら、その面倒を塗りつぶすようなステキな体験をさせてやる。

 桐生渚を、人間として生かしてやるんだ。

 神崎はそう願った。願ったから、動いた。人のために動いたのは久々だと思ったけれど、結局は自分のわがままで、神崎は根っこから変わっていないことに気づいた。それでいい。世のため人のために行動できるような英雄なんて願い下げだ。そんなの本物の神様しかできねえよ。神崎はどこまでも人間だから。

 神崎雨音は、人間として桐生渚を救う。

 英雄としてなんかじゃない。

 死にたがっている友人を生かしたいなんて、なんて人間的だろうか。


「……ゆ、め!」


 神崎雨音は廃墟と化したデパートの中で目が覚めた。

 身を起こす。どうやら廃材を枕にして、神崎はグースカ眠っていたらしい。半分吹き抜けとなった天井から朝日がぼんやり見える。いや、そんなことはどうでもいい。目が、覚めた。覚めてしまった。


 桐生渚からの返事は、聞けていない。


「さいっ……あく!」


 こけそうになりながらも、神崎は立ち上がる。立ち上がったところで桐生がどこにいるかもわからないし、そもそも夢の中でしか会ったことがないのだけど、とにかく神崎は探す。がむしゃらだった。こんなとこでぶつ切りで終わるなんて、三文小説もいいところだ。バットエンドにはさせない。絶対に、なにがあっても、させない。ようやく前を向けたんだ。失敗したくない。しないじゃない。したくないんだ。神崎はもう失敗したくない。友人を死なせたくない。


 桐生渚と、生きてみたいと思えたから。

 初めて、この世界がちょっとだけ好きになれたから。


 神崎は今にも抜けそうな階段を見つけて、もしかしたら屋上遊園地にでもいるのかもしれないと思って、登る。登り続ける。バキンッと音がして床が抜けた。慎重に、自分が死んだら元も子もないから。


 結論から言えば、桐生は屋上遊園地にはいなかった。

 途中の階に、いた。

 あった。神崎は発見した。


「なぎさ、くん?」


 神崎雨音は桐生渚の腐乱死体を発見した。

 桐生は首を吊って死んでいた。桐生は死後一週間は経過しているように見えた。桐生が着ていたパーカーと制服で桐生だとわかった。桐生には蝿がたかっていて、ぶんぶんぶんぶんうるさかった。桐生は舌を出して、苦渋の表情で死んでいた。桐生から何かの液体が垂れていて、地面を汚している。


 桐生渚は死んでいた。


 死んで、腐っていた。錆びてしまった鉄筋に、ロープを結んで首を括っていた。


 神崎が誰よりも救いたいと願った少年は、友人は、心中相手は、もうとっくのとうに死んでいた。


 蝿がうるさい。

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