第38話 災い転じて"匡衡衛門" (2)
藤原斉明追捕事件は、寛和元年にあたる正月に、弾正小弼を務めていた大江匡衡が何者かに襲われ、左手の指を切り落とされたことに始まる。
当時の刀が、それほど鋭利でなかったとしても、かなりの疵を負ったのではないだろうか。どの指かは分からないが、切り落とされたと伝わっているのだから。
しかし、"左"という記述は、彼が"筆を持つ"能力を決して失わなかった。……という事を物語っているのだと思う。
( まあ、仮に左利きなら、もっと大変な苦労話が伝わっているとは思うが )
この人は本来、大江氏といって、代々、優秀な学者を輩出している家系の生まれであった。
そこで、年若い頃から熱心に勉学に励み、優秀な文官となっている。
しかし、この時代ともなると、朝廷の中枢は、ほとんど藤原北家の人間に握られていたので、どんなにあがいても中級官僚になるのが精一杯だった。
だが、そんなパッとしない匡衡の人生に運命の女神が微笑んだ。
歌人としても有名な"
赤染衛門 (956年頃生まれか?) は、
だが母親が、前夫である
やがて十歳前後になった頃、赤染衛門は後に左大臣にまで出世する"源雅信"(
仕事はおそらく、雅信の娘・
そして成長すると、倫子付きの正式な女房になった。
ここまで話が進むと、大河ドラマ『光る君へ』の世界にも登場していたので、いろいろと思い出す人もいると思うが、まさにその時代に突入である。
やがて倫子が、後に
雅信邸で女童をしていた頃には、こんなにも政治の中心近くで働くとは思ってもみなかっただろう。
だが、赤染衛門は生来の強運か、人柄が優れて良かったからか、見事に道長時代の荒波を乗り越えていったのである。
そして、そんな衛門が年頃になった頃の話だ。
彼女は高貴な生まれの女主人に仕えていたので、かなり高位の御曹司達と知合う機会があったのではなかろうか。
また実際、衛門の妹は道長の兄にあたる
百人一首の一つに、
やすらはで寝なましものを
傾くまでの月を見しかな
(貴方が来るかと思って) 落ち着いて寝れませんでした。
そのせいで西の空に月が沈むまで見てしまいました。
という歌があるが、この歌は、妹が約束をすっぽかされた時に、その"恨み歌"として赤染衛門が代作したものとして伝わっている。
確かに、国司クラスの娘では、皇族とでも縁続きになれるような藤原北家の男達には役不足なのかもしれない。
そういうキラキラした御曹司達の現状を目の当たりにしたせいか、衛門は堅実な出会いを求めるようになった。
二十歳になった頃のことだ。
赤染衛門は"
一人は大江匡衡、そしてもう一人は、その従兄弟の大江
さすがに大江氏、二人揃って優秀に見えた。
だが、タイプ的には為基の方が好みだったようだ。
匡衡というと、何となく無口で神経質っぽい。
それに、後から分かったことだが、この頃の匡衡は女性と接する機会もほとんどなく、ただただ固まっていたのだ。
また匡衡の身長は、当時の人にしては高く、しっかりした骨格の持ち主なのに武術の方は全く才能がなかった。むしろ"運動音痴"と言えるぐらいの酷さだ。
いつも痩せた肩を揺らしながらヒョロヒョロと歩いている。
一方、為基は中肉中背で、少し童顔なところが可愛らしい。
匡衡は、何かにつけて小難しい話をしたがるが、為基とは普通にさりげない会話が楽しめる。
そこで匡衡が為基と一緒にいると、まるで引き立て役のように見えた。
彼らの官位は決して高くはなかったが、赤染衛門にとっては、そのおかげで気兼ねせずに付き合うことができたから、良かったのかもしれない。
だが、為基は家族に勧められた別の女性と結婚してしまう。
失恋した衛門は、結局、以前から諦めずにアタックし続けていた大江匡衡と一緒になったのである。
「
「はぁ? 」
「わしが先日、
文保が何故か顔を赤らめ、不機嫌そうに漏らした。
「えっ、あの江様がですか? 」
忠明も、ちょっと失礼かもしれないが、笑いそうになりながら合槌を打つ。
大江匡衡は、検非違使達にとっては、なかなか
今回は匡衡自らが被害者なので、事件の進捗を説明に行くのだが、その都度、物言いが付く。
本来、
いつも忙しい使庁の人間にとっては、なるべく近づきたくない人物だった。
もともと妻君(赤染衛門)は、女主人に付き従っている為に別居していたのだが、匡衡が手を怪我したことを機に同居し始めたらしい。
『今では、怪我の手当てから墨色の調節まで、……何でもやってもらおうとしている! 』
そんな妙な噂が流れていた。
「誰が申したやら、"
「あの妻君様は、……小そうて、
とうとう忠明まで悪乗りして笑い出した。
確かに、ひょろりと背が高い匡衡と、丸くて小柄な衛門は、凸凹コンビという感じがしてユニークだ。
後に紫式部が日記の中で、二人の夫婦仲が良いことを"匡衡衛門"と呼び、周りの人々が面白がっている。と紹介した。
忠明は、赤染衛門をそれほどじっくりと見られる立場ではないのだが、それでも有名人なので遠目でしっかりチェックしている。
実は、ちょっと"カワイイ系"なので隠れファンでもあった。
「下の者にさせればよいものを、……何やかやと
「……それこそ"
何だか微笑ましい話題を聞かされ、忠明の表情は綻んだ。
「……そうじゃな、わしもあやかりたかったわ」
ポツリと文保が呟いた。
「わしも、匡衡衛門に成りたかったわ」
そういえば、『文保は長い間、追捕の為に家を空けた為、妻君に逃げられた! 』
……と、そんな話を小耳に挟んだ気がする。
手柄を立てられたのに、気の毒な話だ。
仕方がない。使庁の仕事は忙しすぎるのだ。
そんな風に、同情せざるを得なくなった。
妙な話だが、忠明は時々、身分の上下に関係なく愚痴の聞き役になることがある。
そんな忠明を見て、一番親しい間柄の錦為信は、
「やはり"
そう言って、からかったのだった。
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