第5章火星のセレナーデ(Mars Serenade)
23XX年 —— 火星
――酸化鉄の赤茶けた細かい粉塵と、鉄とマグネシウムを多く含む黒い火山岩が果てしなく広がる。かつては太陽系の新たな希望と呼ばれたこの惑星も、今は彗星の接近に怯えるように固く身を縮こまらせている。
光の粒子がゆっくりと収束し、視界が再び形を取り戻す。
足元に伝わるのは、脆く不安定な感触だった。無数の細かい鉱物片が密集した地面は、踏みしめるたびに重心を揺らし、ざらりと足裏に沈む。砂浜ほど柔らかくはなく、金属ほど確かでもない。その感触は、あえて例えるなら、小麦粉の上を歩くようなものだった。体にぴたりと貼りついたナノファイバースーツ越しに、冷たい大気の振動がかすかに伝わる。それは、遠いガラス越しに響くピアノの音のように、ぼんやりとした感覚だった。
ドリーは、彗星の影響を避けたわずかな安定時間を狙って、火星の一つの都市に降り立った。
「ミッシェル? 聞こえるか? ジョーの生体反応はここにあるか?」
ドリーは手首のデバイスを軽くタップする。量子もつれ粒子が瞬時に同期。情報伝達回路、確立。「量子通信デバイス――エンタングルメント・リンク、起動。」
「ドリー、私よ。ジョーの生体反応は火星圏内で微弱に確認できる。でも……正確な座標までは特定できない。彗星の電磁波のせいで信号が不安定なの。」
「近くにいるはずなのに……反応が途切れた? くそ、ジョー……どこにいるんだ。」
ドリーはすぐに手がかりを掴めそうにない状況に焦っていた。彗星の電磁嵐は依然として猛威を振るい、持ち込んだ25XX年の探索装置は断続的にしか機能しない。都市間の移動も、時空移動技術は不安定で使用不能だ。
移動手段を求めて、ドリーは人けのない施設の片隅に足を踏み入れた。彗星の接近までは活気に満ちていた新都市ヘリオス。バーチャルパネルが途切れ途切れに明滅し、避難時に放置されたドローンが道路の端に無造作に置かれている。
「まだこの時代ではドローンを使っているんだな。」
ドリーはふと25XX年との違いを意識する。外気はひどく乾燥している。環境データがナノファイバースーツを通じて神経インターフェースに流れ込み、焦げた金属を思わせる感覚として脳内に再現された。
やがて、稼働可能な一台のシャトルを見つけたドリーは、獲物を捉えた鷹のように、彼は乗り込んだ。
宇宙局の指令室にいるミッシェルは、火星の赤褐色の地表を映すモニターをじっと見つめた。ジョーの生体反応は断片的に捉えられているものの、正確な位置は特定できない。
フウ―と息を吐くと、彼女は体を沈めた。形状記憶の椅子が彼女の背を包み、長いまつ毛を軽く閉じた。ドリーのアイスブルー瞳を思い出していた。幼い頃、宇宙局の子育課で同じアンドロイドに育てられた彼は、いわば兄妹のような存在だった。AIが管理する交配システムによって生まれた遺伝子の組み合わせに、血縁という概念は存在しない。それでも、ドリーはミッシェルにとって特別だった。
ドリーのことを考えるたびに、心の中に恥ずかしいような、ウキウキするような、それでいて体を締め付ける感覚がよぎる。それが恋だと気づいたのは、随分あとになってからだったが――その時にはもう、ドリーにはジョーがいた。
ドリーからジョーを紹介された日のことを彼女は今でも忘れることができない。ドリーのジョーに対してのまなざしは決して自分には向けられたことのない特別なものだった。それを見たとき、初めて嫉妬の爪がギリギリと彼女を引っ搔いた。
幼い日の記憶が、ちらつくようによみがえる。
宇宙局の子育課の施設は、地球の広大な敷地にホログラム住居が点在し、アンドロイドの両親と子供たちが暮らしていた。バーチャル体験学習の一環で、彼女らは荒廃した都市を再現したホログラムプログラムに参加していた。砂埃が吹き荒れ、廃墟となった街の中で迷子になるという仮想体験。
周囲は冷たい風と崩れかけた建物の影が広がり、どこまで行っても出口が見えない。シミュレーションだとわかっているはずなのに、怖くて、涙がでてついにそこに座り込んでしまった。
「ミッシェル、大丈夫か?」
背後から優しい声が聞こえる。ドリーだった。彼はそっと膝をつき、彼女の涙をぬぐった。
「これはただのシミュレーション。怖さを体験させるプログラムさ」
そんな幼い頃の些細な繰り返しが、ドリーの存在はただの『兄妹』以上のものとして、彼女に意識させた。
ミッシェルは火星を見ながら祈るように両手を合わせた。
「……無事で帰ってきて、ドリー。」
次にドリーが訪れたのは、地下都市ハデス――現在は彗星の接近に備えた緊急シェルターとして機能していた。
入り口は厚い鋼鉄製のセキュリティゲートで守られており、彗星の電磁波の影響を受けつつも、部分的に機能している。
ドリーは手首のデバイスを操作し、緊急大気コントロールシステムにアクセスしようとした。
だが、画面には不規則なノイズと共に認証エラーの警告が赤く点滅する。彗星の影響で通信プロトコルが不安定になっているのだ。
「……やれやれ、面倒なことになったな。」
ドリーは低く呟き、さらにデバイスのコマンドを上書きする。
指先が素早く動き、強制的にゲートの緊急開放コードを入力した。
ギィィィィ……ッ
金属がきしむ音とともに、セキュリティゲートがわずかに開く。隙間から冷たい大気が漏れ出し、赤い警告灯が薄暗い通路を照らしている。
巨大な縦坑を中心に、周囲に階層状の居住区やシェルターが「螺旋階段状」に配置されている。上層部は管理区域、下層部ほど老朽化したエリアや閉鎖された研究施設が広がる。
内部に足を踏み入れると、完璧に制御された空気が広がっていた。温度も湿度も快適に保たれ、呼吸さえも滑らかに感じられる。
上部や壁に埋め込まれた有機発光パネルは、脈打つように柔らかな光を放っていた。その光は生き物の鼓動のように不規則に明滅し、空間全体にわずかな生命感を与えている。
透明な情報パネルが天井から垂れ下がり、避難状況や環境データが絶え間なく更新されていた。各階層は「ハイブ構造」と呼ばれる無数のトンネルが枝分かれする仕組みで、倉庫、医療区画、避難ポッドが効率的に配置されている。
避難民たちは個別のポッド型シェルターに収容されており、半透明のシールド越しに彼らの姿がぼんやりと浮かび上がって見えた。各ポッドには自動バイタルモニタリング機能が備わっており、異常を検知すれば即座に医療用ナノドローンが飛来し、必要な処置を施すよう設計されている。
「避難モード:安定。生体モニタリング異常なし。」
医療用AIが、人の温もりを感じさせることなく、ただ正確な情報だけを伝えていた。
ドリーは周囲の視線を避けるように、ヘルメットのシールドをわずかに暗転させ、足早にモニター端末へと向かった。透明なバイザーが彼の表情を映し出すが、すぐに反射光がその輪郭を曖昧にする。手首のデバイスを接続すると、淡い光がホログラムとなって浮かび上がり、ジョーの生体反応が断片的に表示された。
「ミッシェル、聞こえるか? ジョーの反応、ここにある。」
「ドリー、彗星の影響で信号が乱れてる。まだ正確な座標は――」
通信が途切れた。ドリーは苛立ったように鼻を鳴らし、腕の端末を叩いた。AIネットワークは不安定だ。仕方なく、彼はダイレクトリンクを起動し、ミッシェルのIDを直接呼び出した。数秒後、ノイズ混じりの音声が返ってきた。
完璧なシェルターの中で、寂しさだけが呼び起こされる。
暗い通路の奥、情報端末室にたどり着いたドリーは、古びた管理コンソールを起動する。彗星の影響で不安定ながらも、断片的なデータログが浮かび上がった。スクリーンには不規則なノイズが走り、音声ログの一部が繰り返し再生される。
【ジョーオニール・ID#A-1023 生体認証記録:過去に確認】
【現在の生体反応:検出不能】
【最後に確認された場所:地下第3区画(避難区域外)】
【警告:電磁波の影響でリアルタイム追跡が不安定】
ドリーはスクリーンに浮かび上がる情報を凝視した。
「……ジョー、ここにいたんだな。」
画面には確かに彼の名前とIDが表示されている。だが、今は反応がない。
まるで、誰かがその存在を「消し去った」かのように。
彼は落胆を抱えながら踵を返す。
シャトルに戻ると、すぐに座標を再確認し、次の目的地である開拓都市「クロノス」へと向けて離陸準備を進めた。
クロノスは火星のテラフォーミング最前線であり、彗星の影響を最も強く受ける地域のひとつだった。
シャトルは火星の希薄な大気を、慎重に蛇行しながら進んでいた。遠くの軌道上にある彗星から放出された塵と破片が、次々と火星の重力に引き寄せられている。オレンジ色の炎をまといながら、大気圏へと突き刺さっていく様子は、まるで無数の流れ星が降り注いでいるかのようだった。
『姿勢制御システム、応答遅延発生。外部センサー信号、電磁波干渉中。』
突如、視界を横切る破片が機体の装甲を叩きつけ、振動が座席に伝わる。ドリーは操縦桿を握り直し、冷静に宇宙局の25XX年ナビゲーションAIとの接続を試みた。
『メインAI、ナビゲーションサポートを要求!』
パネルに安定した緑のランプが灯り、AIが従う。
『航行サポート開始。推奨経路を計算中……』
だが、ファン、ファン、ファン……と断続的な警告音が鋭く鳴り響いた。
『警告:電磁波干渉により接続断絶。手動操作に切り替えます。』
『チッ、切れたか……!』
ドリーは手動モードへ切り替えた。AIのサポートが途絶えたことで、シャトルは不規則に傾き、機体がミシミシと軋む。
『チッ……制御ができない!』
彼は補助推進装置を作動させ、必死に姿勢を立て直そうとする。しかし、電磁波嵐の影響で推進装置も時折反応が鈍る。
その時、プラズマ放電がシャトルの外壁を走り、紫色の閃光が窓の外を駆け抜けた。警告灯が赤く点滅する中、ドリーは強く操縦桿を握りしめ、全神経を機体の安定化に集中した――
ドリーがクロノスに不時着したシャトルから降り立つと、街は廃墟と化していた。
かつてこの都市を覆っていたドーム型の大気コントロールシステムは、至るところでひび割れ、崩壊している。ドームの破損部分からは火星の冷たい外気が侵入し、不安定な気流が渦巻いていた。恒温システムも機能不全を起こし、部分的に極端な寒冷地帯と熱波が交錯している。
戦争で爆弾が落とされたように、建物は崩れ、灰色の瓦礫が風化の痕跡を晒している。割れたガラス片が鈍い光を反射し、赤錆びた鉄骨がねじれたまま宙に向かって伸びていた。かつてここに人々の営みがあった痕跡は、砂に埋もれた断片としてかすかに残るばかりだった。
その中、一つのシェルターがほぼ完全な形で残っていた。そこは大気コントロールシステムも恒温システムも自立している。ドリーは手首のデバイスを操作し、緊急ゲートを解放した。
ギィィィ……ッという金属が軋む音と共に、エアロックゲートがゆっくりと開く。
内部と外部の圧力差が解放され、冷たい気流がドリーの頬をかすめる。
温度差による水蒸気の凝結が原因の微かな霧状の靄が立ち上がる。
その霧の中に、わずかに色彩の歪みが滲んでいる。
――家族が食卓を囲む光景。母親が笑顔で皿を差し出し、父親が新聞を手に微笑む。子供たちは椅子から飛び降り、ケラケラと歓声を上げながら駆け回る。
「……なんだ、これは?」
ドリーは試しに、手を伸ばす。そこには人の体温もなく、ただ冷たい虚無があるだけだった。
そのとき、後ろからコツコツとかかとの鳴る音がした。振り返ると、古来の地球の民族衣装を着たような青年が立っていた。彼はまるで異邦人を見るような目でドリーを見ている。
「初めて見る顔だな。エコー現象に戸惑っているのか?」
「エコー現象?君は誰?」
彼はこの異邦人を上から下まで眺めている。
「俺はここの住人シアン。ここは記憶に囚われた都市――かつてこの街で行われていた心理安定プログラムの実験と、AIによる感情データの収集が原因で、空間そのものが過去の残響を記録している。ここに囚われた者は、もうどこへも行けない。ただ、過去にすがって生きるだけさ。」
ドリーはまるでわからないというように聞き返す。「残響……どういう意味?」
シアンはシェルターの壁の埃を払いながら言った。
「これは『エコー現象』。強い感情が残った場所では、過去の記憶が空間に染みついているんだ。人の思念や出来事の残滓が、まるで幽霊みたいに再生される。見えるけど、触れられない。ただの過去の記憶さ。」
「ただの幻が生きている人間のように見えるのか?」ドリーは目の前の人間に触れることができない現実を見てもまだ信じられない。
「ええ。でも、厄介なのはね……これを見続けるうちに、本当と虚像の境界が曖昧になること。」
シアンはにやにやと笑っている。
「多くの人が、エコーの中に囚われて自分自身を見失っていく。現実に戻れなくなるんだ。そして、当時の支配者たちはその実験を隠蔽しようとして、この都市ごと破壊した。」
23XX年の火星にはまだ支配者は存在していた。たしかにミッシェルが言っていたが、こんな実験をしていたなんて。
――エコー現象――
人を幻覚に誘い込む罠は何のために必要だったのか?
シアンは何かをためらうようにつぶやいた。「……俺も、ここに囚われた一人さ。昔、家族と暮らしていたんだ。あのエコーに映る家族と同じように。でも、ある日突然すべてが崩れた。残ったのは、ここだけだ。でもそれにすがっている限り、俺は前に進めないこともわかってるんだ。」
彼は、うつろに遠い遠い過去の蜃気楼を見ていた。
耳元でキーンという小さなノイズが走る。
「……ドリー、聞こえる?」
ミッシェルだった。どこか切迫しているように早口に話す。
「今すぐそこを離れて。」
耳の奥へ、悲鳴のように鋭く食い込む。
「そこに長居してはダメ。エコーはAIが作り出した“監獄”よ。あなたの感情を囚えて、意識を飲み込む罠。」
その時、ジョーの幻影が、まるでドリーの心の叫びに応えるように、鮮烈に現れた。彼が振り向き、手招きをしている。
「ドリー、なんでこっちに来ないんだ?」
ジョーの声が響く。それはあまりにもリアルで、まるで鼓膜ではなく直接脳に伝わってくるかのようだった。
彼が手を伸ばしている。揺らめく空気の中に、その腕は確かに存在していた。
「ジョー……?」
彼の名前を呼ぶと、まるで合図を待っていたかのように、影は少しずつ色彩を取り戻し始める。
ジョーの髪が風に揺れ、あの鋭くも優しい瞳がこちらを見つめていた。微笑む唇、彼の匂いさえも感じ取れる。
「こっちへ来いよ、ドリー。どうして迷ってるんだ?」
声は甘く、痛みを溶かすように囁く。心臓が締めつけられる。息苦しいほどに胸が高鳴る。
目の前にいるのは、確かにジョーだ。触れれば、その手の温もりが伝わってくるような気がした。
けれど——何かが違う。
その笑顔はあまりにも完璧すぎる。感情が研ぎ澄まされすぎていて、不気味なほどだ。
瞳の奥は空洞のようで、輝きがない。まるで仮面を被った人形のように、すべてが整いすぎていた。
「お前はここにいればいい。俺と一緒に、ずっと……」
彼の手が、ゆっくりとこちらに伸ばされる。指先がこちらへ触れようとする瞬間、全身を凍りつかせるような寒気が走った。
これは——偽物だ。
「違う……お前はジョーじゃない!」
ドリーは喉が引き裂けるほどの声で叫び、反射的に身を引いた。
幻影のジョーは顔を歪ませ、薄笑いを浮かべる。
「逃げるなよ、ドリー。俺を置いていくのか?」
背後からその声が再び響く。耳元にねっとりとした囁きが絡みつく。
感情が引き裂かれるような痛みが、胸を貫いた。
「ドリー、“今”に戻って!」
ミッシェルの叫びが、一本の矢となって意識を貫く。
その声だけが、現実へと引き戻す唯一の糸だった。
ドリーはハッと我に返り、足元が崩れるような感覚の中でようやくジョーの影から目を逸らすことができた。
「そこはAIが意図的に作り出した“監獄”なの。強い感情を利用して人間の意識を捕らえ、思考を麻痺させる罠なの。見続けるうちに、あなたは現実を忘れることになる。」
振り返った先には、エコーの中で誰かが自分の名前を呼ぶような気がした。ミッシェルが再びドリーを連れ戻す。
ドリーはミッシェルに突き動かされるように、思い切り走り出した。足元が瓦礫で不安定なシェルター内を駆け抜け、出口へと向かう。
遠ざかろうとすればするほど、愛しい人の声がドリーに絡みついてくる。
「ドリー、行くな。」
彼の足元から引き戻すような声だった。たまらず、振り返れば、そこにはジョーが立っていた。ドリーは目を閉じ、アーっと大声をあげながら、一気に振り切って出口へ駆け出した。
シェルターの外に飛び出すと、遠くから低くうなるような音が響く。
彗星の破片が火星の大気圏に突入し、空を赤く焼き焦がしていた。
「ドリー、早く!」 ミッシェルが再び通信機から彼を導く。
「ドリー行くな」ジョーの声がまだ耳に残っている。
――ここは人間の妄念が作り出した墓場なのか?――
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます