第4章漂流(Where Do You Drift?)
25XX年 —— 宇宙局 中枢指令室
宇宙局は、太陽系全域を巡航する移動型の大型宇宙ステーションである。
必要に応じて惑星や衛星に降下し、重力圏の内外を自在に行き来する。
その中央にある指令室は、宇宙そのものを内包した水槽のような空間だった。
上部には雑多なホログラムインターフェースが浮遊し、銀河の潮流や恒星の軌跡を映し出す。
それは映像ではなく、脳波に反応して情報を次々と映し出す視覚システムだった。
壁面スクリーンには、宇宙の状態がリアルタイムで表示される。
この場に立つ者は、まるで壁が存在しないかのように、星々の間を手探りで歩く夢を見ているような錯覚を覚える。
指令室そのものが情報処理システムとなっており、中央では宇宙局の中量子演算ネットワークがリアルタイム解析と最適化を行っていた。
環境制御には粒子場技術と粒子転送技術が応用され、情報は物理端末に依存せず、見えない潮流に乗って流れる微細な砂粒のように、空間内を漂っている。
投影データが揺らぎ、転送ログの解析結果が映し出される。
データは乱れ、まるで風に飛ばされた新聞の切れ端のように空間を舞う。
ノイズ干渉が強まり、断片化された記憶のように、肝心な部分だけが欠けていた。
この広大な宇宙で、たった一人。
残骸とともに、さまよっている。
ドリーは焦りを感じた。
「転送ログの解析はどこまで進んだ?」
苛立ちは、静電気を帯びた猫の毛のように逆立っていた。
――ジョー、お前はどこにいる?――
憔悴しきったアイスブルーの瞳の先に、半透明のホログラムスクリーンが揺らぐ。
映し出された転送ログは、不完全なまま、宇宙のゴミのように断片的に浮かんでいた。
20XX年から帰還して三日。
ドリーは眠ることも、食事をとることもせず、ただひたすらジョーを探し続けている。
「ドリー。少しは休まないと体を壊すわよ。」
情報解析課に所属するミッシェルが空間の継ぎ目をすり抜けるように、フェーズシフト式のドアから姿を現した。彼女のプラチナブロンドの髪先が揃うと、ドアはまるで存在しなかったかのように、光の粒子だけを残して消えていく。
「ミッシェルか?」
彼女に軽く目をやると、そのままスクリーンへと意識を戻した。
「ジョーがいなくなったんだ。寝ていられるわけないだろ?」
焦燥が滲んでいる。まるで氷の表面をかすめる風のように、冷え切って、ひび割れそうな声だった。
「解析進行率72%。ジョーの転送データに複数の干渉を検出。通常の軌道とは異なる変動を確認。」
AIが状況を報告する。
投影データ がゆらぎ、転送ログの解析結果が拡大される。
しかし、欠損部分は依然として多く、読み取れない領域が残っている。
ジョーがいるかもしれない場所が、ただのデータの羅列として浮かび上がっていることが、どこか不愉快だった。
彼は、そんな数字の中に閉じ込められているわけじゃない。
息をして、時には皮肉を言いながら、そこに生きているはずだ。
「干渉の原因は? 空間座標の誤差か、それとも外部からの影響か?」
「誤差の範囲を超過。外部干渉の可能性、73.8%。転送の最終地点は……23XX年、火星。」
「23XX年、火星……?」
ミッシェルの薄いエメラルドのような瞳が、夜に照らされた獣のように怯え、わずかに見開かれた。
その年――火星は歴史上、最も悲惨な災害に見舞われた時期だった。
ドリーの瞳孔がわずかに縮む。
ホログラムの光に照らされたスクリーンに視線を固定したまま、手を強く握った。
深い谷にかかった吊り橋を渡るように、心臓が強く脈打つ。
足元さえすくみそうだった。
「干渉の原因を特定しろ。」
ドリーの焦りが指令室に広がり、AIは次々と現状を報告する。
「追加解析中……要因判明。彗星の接近により、火星全域で電磁嵐が発生。通信、観測データ、ナビゲーションシステムに広範囲の障害を確認。」
無感情な音がドリーの切迫を煽るように空間を満たす。
転送ログに記録された時空座標の軌道データが揺らぎ、スクリーンには乱れた波形が不規則に浮かび上がった。
まるで一枚の宇宙のフォトグラフが、ひび割れたガラスのように崩れ落ちていくかのように――。
スクリーンに映るデータに見ながらミッシェルの表情は厳しさを増していた。
ドリーは、絡まった糸を解こうとするように、指先でホログラムをせわしなく操作した。表示されたのは、火星全域のコロニー分布図だった。
「確か、あの時代の火星には……5億人が移住していたはずよ。」
ミッシェルがそう言うと、ドリーは目を細めてスクリーンを見つめた。
そこに映し出されたのは、火星の赤茶けた地表。まるで傷だらけの戦場のような惑星の姿に、彼の胸が軋む。
5億人。
人が住むには過酷すぎるその星に、これだけの命が押し込められていたという事実が、彼には信じがたかった。
「太陽系の新たな中心地として発展していたけど、インフラはまだ不安定だった。」
意味を確かめるように、ドリーは指先でスクリーンをなぞった。
立体投影が拡大され、火星の都市群が鮮明に浮かび上がる。
「ドーム都市、地下都市、開拓都市――」
透明なホログラムの中に並ぶ都市群は、孤立した島のように見えた。
生きるために作られたその場所が、今は死と隣り合わせになっている。
ミッシェルの指が、最も大きな都市を示す。
「ドーム都市は精密な環境制御がされていて、地球に近い空気と気温が維持されてる。最先端の研究機関やインタープラネットゲートも併設されているわ。」
彼女の目には僅かな緊張が見え隠れしていた。
「地下都市は資源採掘と工業生産の拠点。でも閉塞的な環境が人々の精神を蝕むの。」
画面の中で、暗い坑道のような通路が映し出された。
まるで迷宮のような空間に、ドリーは息苦しさを覚える。
「開拓都市はテラフォーミングの最前線。不安定な環境で、砂嵐や放射線の影響も強いわ……」
同時に、スクリーンには赤黒い嵐が吹き荒れる映像が浮かび上がる。
ドリーは、こびりついた悪い気を吐き出すように、ふっと言った。
「そんな場所に……ジョーがいるのか?」
吐き出されたものは闇に溶け、宇宙の塵となってさまよっていく。
彼はソファに深く身を沈め、ぼんやりと上を見上げた。
――お前は馬鹿だな。なんで、一人で時空を旅しているのか――
「火星AIネットワークは地球ほど完全な管理システムじゃない。政治も経済も不安定で、都市ごとに状況はバラバラ。」
ミッシェルは少しだけ間を置き、問題の多さにお手上げだという顔をしている。
「確か歴史だと、この時期の火星で彗星衝突の危機があったはず。粒子ミサイルで爆破は成功するけど……その破片が都市のひとつに直撃して――」
彼女は最後まで話すことができず、途中で下を向いた。
指先がわずかに震えているのが、スクリーンの光に浮かび上がる。
「……」
「……恒温システムが破壊され、3万人が全滅する。」
ドリーが吐き出すようにいうと、拳で自分の太ももを叩いた。
その鈍い音は、果てしなく広がる静の中で不気味な余韻を残した。
ホログラムスクリーンが不穏な赤色に染まり、アラームが空間を引き裂くように鳴り響いた。
「……新たな問題が発生したようだ。」
ドリーがデータパネルを操作しながら、飽きれたようにつぶやく。
ミッシェルは反応し、スクリーンへ目を向ける。
そこにはウイルス感染を示す警告マークと、いくつかの都市名が赤く点滅していた。
「……エボラ5.0?」
ミッシェルはいつになく硬かった。明らかに彼女も動揺していた。
エボラ5.0出血熱――23XX年に火星で発生した変異型ウイルス。従来のエボラよりも潜伏期間が長く、感染経路も空気感染へと進化していた。
致死率は従来型と同程度だが、症状の発現が遅いため、隔離が遅れれば一気に感染が広がる。
ドリーは睨みつけるように、スクリーンに映るデータを見続ける。
「だが、ドーム型都市なら隔離管理が可能なはずでは?」
――これは願いだ。
データが間違いであってほしい――救いはあるはずだ。
「通常であれば、ね。」
ミッシェルはガラスのような透明な頭脳を研ぎ澄ませ、分析を始めた。
「しかし、電磁嵐の影響で一部の都市のセキュリティシステムが機能不全を起こしているわ。さらに、感染の初期段階で隔離措置が遅れたことで、ドーム間の物流ルートを通じて拡散した可能性がある。」
スクリーンに映し出されたのは、ある火星開拓都市の衛星写真。
赤いゾーンがいくつかの都市を侵食するように広がっていく――まるで死神が赤いマントを広げているいるかのように。
ドリーはただその赤い点を見続けた。
ジョーが、あの火星にいる。
しかし――感染した都市にいない可能性もある。それだけが、今の彼に残された希望だった。
「……ワクチンの開発状況は? 感染している都市はどれくらい? 人口は?」
矢継ぎ早に質問をする。
知りたいのは、数字じゃない。
ジョーがその赤の中にいないという答えが欲しいんだ。
「ワクチン開発指示済。宇宙局の医療部門で迅速投与型のナノワクチンが開発中。感染防止率は……94.2%。」
中枢システムのAI「ゼロス」が答える。
「94.2%……」
ドリーはその数字には興味がないらしく、無造作に手を振った。
「そうじゃない。いつできるのかがだよ。防止率がたとえ50%でも僕はいくさ。」
「あと24時間は必要。ワクチンを接種しても、免疫獲得まで48時間必要。」
それを聞いた途端、ドリーは両手を広げて叫んだ。
「待っていられるか! ジョーが今、どんな状態か分かってるのか? 24時間もここで指をくわえて座ってろって? ふざけるな!」
気がつけば、彼は絶叫していた。
今まで抑えていた
――ジョーがいない寂しさ、
不安、そして恐怖。
すべてのネガティブな感情が、一挙に噴き出した。
ドリーは胸を押さえ、息を荒げたまままるで駄々っ子のように続ける。
「あいつが今どこで、どうしてるかも分からないのに……何もできずにここで待つなんて、そんなの耐えられるわけないだろ!」
ゼロスをきっと睨んだあと、下を向いて哀願するようにつぶやく。
「僕は……あいつを失いたくないんだ。」
「ドリー、無茶はよくないわ。助けだせるものも助けだせなくなる」
ミッシェルはなだめるようにドリーの手を取った。
スクリーンに映るジョーの転送ログは不完全なまま、断片的に揺れている。
まるで助けを求める声が、そこに閉じ込められているかのようだった。
25XX年、宇宙局指定居住エリア――ドリーの寝室。
壁一面は冷たいメタリックグレー。
本来ならホログラムで美しい星空や自然景観を映せるはずの壁は、今はただの無表情な無地としてそこにあった。
空間までもが、主のいない悲しみに暮れているようだった。
ベッドは金属フレームに薄いマットレスが置かれているだけ。
体温調整機能も、重力適応システムも完璧に作動しているはずなのに、シーツまでも冷たく、がらんとしている。ただ、ジョーのバイオシグナル・パフュームが残したローズマリーの香りだけが、空気の中に溶け込んでいた。
天井にわずかに滲むオレンジの光はAIのモニタリングシステム。ドリーの呼吸や脈拍を絶えず記録し続けるその光が、皮肉にも、唯一ドリーの孤独を慰める瞳のように思えた。
ドリーは一人、ベッドに体を沈め、眠れない夜を過ごしていた。
ジョーの体温も、
鼓動も、ここにはない。
――ジョーは無事なのだろうか。
同じ質問を繰り返し、同じ答えを探す。その無限ループの中で、
不意に意識が薄れ、夢の中へ引きずり込まれる――。
赤茶けた火星の荒野。
砂嵐が吹き荒れる中、ジョーが高い杭に鎖で縛られている。
「ジョー!」
叫んでも、叫んでも、それは砂の嵐にかき消されていく。
ドリーは必死に駆け寄ろうとするが、足は重く、まるで地面に引きずられているかのように前へ進めない。
その足はみるみるうちに、陰湿な砂にめり込んでいく。
ジョーはうなだれたまま。生きているのかさえ、わからない。
突然、竜巻が起こり、ジョーを杭ごとさらっていく。
ストームは上へ、さらに上へと昇り、ドリーを嘲るように遠ざかっていく。
「待ってくれ! 行かないで……!」
ドリーは砂に這いつくばり、必死に手を伸ばす――
ドリーはナノワクチンの副作用なのか、汗びっしょりになって目を覚ました。
額に貼りついた髪の毛が冷たく、胸は夢の余韻で締めつけられるように痛む。
喉は乾いているのに、呼吸は妙に熱い。
「……くそ……。なんて夢だ」
枕を思い切り投げつけた。
パフッ。
ナノリネンが叩きつけられた音だけが、ドリーの悲しみを増幅させる。
「何を子供みたいなことをしているんだ」と窘めてくれる相手はいない。
ドアの外から、規則正しく針を刻むような、音楽のないメトロノームのような声がする。
「おはようございます。朝食の準備が完了しました。」
ドリーは返事をしなかった。
しばらく額を両手で覆い、頭を振る。
夢の中の喪失感から、まだ抜け出せない。
「……いらない。」
アンティはほんの一拍だけ間を置いた。
だが、その間は人間の気遣いではなく、エラー処理のための微細な遅延にすぎない。すぐに、呼吸のない声が空気を揺るがす。
「拒否を確認しました。しかし、推奨カロリー摂取量に達していないため、朝食は必要です。」
ドリーはシーツに顔をうずめる。ジョーの残り香がする。
「食べなくても死なない。」
ドアの向こうで、アンティは変わらぬ声で根気よく続ける。
「死なないことと、正常なパフォーマンスは同義ではありません。火星行きの任務遂行効率が23.4%低下すると予測されます。」
――火星行きの任務遂行効率――
そうだ、俺はここで引きこもっている場合じゃない。
ジョーを助けないと。
「……わかった。」
ドアが開き。アンティはトレイを置き、去っていった。
そこには温かい湯気が上がった朝食が残された。その湯気は、ドリーの冷えた心にしみ込むように、ジョーを助けるという感情を再び熱し始める。
ドリーはゆっくりと立ち上がり、窓際へ歩いた。観測窓の向こうには、宇宙に浮かぶ青い地球が、まるでガラス玉のように輝いている。
ついこの間20XX年の地球を旅したばかりだというのに。
「……ジョー。」
救いたい。
手が届かない。
あと12時間で免疫が完成する。
そうしたら、すぐに君の元へ行く。
「12時間」
秒針が重く沈むように、一秒ごとに心が削られていく感覚。
ドリーの中で、焦りと希望が同じリズムで交差する。
テーブルの上のトレイを引き寄せ、パンを口に運ぶ。
味はしなかった。
それはまるで、任務の一環のようだった。
食べ終わると、立ち上がり、手首のインターフェースを指で弾く。
光の粒子が空間に浮かび、霧のように広がった。
この部屋には、ジョーはいない。
それなのに、彼がそこにいるような錯覚を覚える。
眠るときに感じた体温、足に預けられた重み――すべては幻だった。
「……ジョー。」
端末の画面に指を滑らせる。
空間に淡い光が広がり、20XX年の地球が再現される。
スイスの湖畔を歩いた夜。
街灯の下で交わした会話。
二人で歩いた観光地の雑踏。
お前は仏頂面で、いつものように皮肉を言いながらも、少しだけうれしそうだった、
「……なんだよ、お前。一人にするなよ。」
ホログラムの中のジョーは、振り返りもせずに歩いていく。
ドリーは無意識に手を伸ばした。だが、彼の背中は掠れるように見えなくなる。
「……必ず迎えに行く。待ってろよ。」
いるはずのないジョーに向けたものなのか。
自分への戒めなのか。
ただ、そう言わずにはいられなかった。
絶望に飲み込まれないために。
お前が待っているから。
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