3

 翌日、その日の授業を終えた私は、空木くんに指定された教場の椅子に座っていた。律子に話すのはまだなんとなく気がひけて、「ごめん、今日は用事あって……」と濁してきたのだった。


 ふいにガラッとドアが開き、目をやると空木くんが入ってきたのが見えた。本当に来てくれたんだと驚くと同時に、この広い教場で2人っきりなんだという事実に気づいて心臓が音を立てて鳴り始める。


 グレーのパーカーを着た空木くんは、私が座っていた3人掛けの机に真ん中の席を空けて座った。


「何を教えればいいの?」


 シンプルな黒のリュックを後ろの机に置くと、空木くんはこちらを向いた。長めの前髪から覗く切れ長の三白眼が私を捉え、無意識に脈が早まる。自分を落ち着かせるように何度か瞬きをして、私はカバンから春休みに購入した関西弁の教科書を取り出した。


 入学までの1週間、むさぼるように読んだ本たちからは付箋や栞が飛び出ており、とても不格好だ。掃除していない部屋に人を招き入れたときの気持ちってこんな感じかもな、と気もそぞろに私は椅子に座っていた。空木くんは黙って本を手に取り、パラパラとページをめくっている。


「すげ。こんな勉強したんだ」

「うん」


 私は素直に頷いた。


「なんとなく理屈はわかったんだけど、いざしゃべるとなんか違う気がして」

「なんで、関西弁しゃべりたいの?」

「えっと……」


 空木くんと目が合って、私は口ごもった。関西弁に憧れて、なんて言ったら笑われてしまうだろうか。いや、そもそも、すでにこんな変なお願いをしているのだから、今さら恥じらう理由もないはずだ。


「私、大阪生まれなの……母方の実家があって。けど、大阪に住んでたわけじゃないから関西弁はしゃべれなくて。ちょっと恥ずかしいんだけど、ずっと憧れてたの。だから、頑張って克服できるなら挑戦してみたいなって」


 気恥ずかしさを隠すように、最後のほうはいつの間にか自嘲気味になっていた。けれど空木くんは笑わずに、ただつぶやいた。


「真面目やなぁ」


 突然のネイティブ関西弁に私は面食らった。もっとそれを聞いていたいという欲望が浮かんできたが、それを空木くんに知られてしまうのは失礼な気がしてぐっと飲み込む。平静を装って私は聞いた。


「空木くんは、普段、関西弁話さないの?」

「え……。うん、そうだね」


 空木くんはもう訛っていなかった。やはり先ほどの関西弁は素で出てしまったんだと、ばつが悪そうに咳払いをする様子を見て思った。


「おれ、親父の仕事で中学のときに大阪からこっちに来てさ。最初の頃はいじめ、というか、話し方めちゃくちゃいじられて、それで普段は話さないようにしてるんだよね」


 ずきん、と私の胸が痛んだ。再び本のページに目を落とした、空木くんの横顔に見惚れていたことだけが理由ではないはずだ。


「ご、ごめん……」

「なんで謝るの?」

「いや……その」


 膝に置いた手を落ち着きなくぐねぐねと動かしながら、私は下を向いた。


「私のせいで、昔のこと思い出しちゃったりしたら、申し訳ないなって」


 ぼそぼそと懸念事をこぼした私は、空木くんの表情を見るのが怖くなって、春らしいピンク色に染めた自分のネイルをじっと見ていた。


 だが、空木くんは何も言わない。怒らせてしまっていたらどうしよう。そう思った私がおそるおそる顔を上げると、空木くんは私のほうを見て困ったように微笑みかけていた。


「もう気にしてないから、大丈夫。それに……」


 空木くんの声はだんだんと小さくなり、しまいには口をつぐんでしまった。私と目を合わせないようにわざとらしくぷいと横を向く。


「花江さんは……そんなことする人じゃないと思うし」


 初めて私の名前を呼んだ空木くんは、耳を真っ赤に染めていた。






「え、なにそれ。青春じゃん!」


 律子は普段から丸っこい瞳をさらに丸くして、目を輝かせた。


「ちょっと律子、声大きいって」


 授業が終わり人がまばらに去っていく教場で、律子は「ごめんごめん」と声をひそめた。


「それにしても、千華のコンプレックスがそんなところにあったとは……。傍から見てわからないもんだね。まあ、こんな美人だし、遅かれ早かれ浮いた話を聞くだろうな~とは思ってたけどさ」


 先越されちゃったな~、と律子は無邪気に笑う。「そんなんじゃないって」と否定しながらも、私は、律子が自分の秘密を笑って受け入れてくれたことにほっとしていた。


 埼玉出身と名乗りたくない、と始めた関西弁計画だったが、案外、他人からしてみれば誰がどこ出身かなんてたいした情報ではないのかもしれない。なんのために意地を張ってたんだろう、と過去の自分に疑問が浮かんでいたが、それでも後悔はしていなかった。


「それで、その彼とは次いつ会うの?」

「来週の水曜日、また同じ時間に約束した」


 いいね、と律子はまた頬を緩める。


「この前のバイトの面接合格したからさ、たぶん毎週水曜日にシフト入るんだよね。ちょうどいいからちゃんと行ってきな。それでまた話聞かせてよ」


 律子は何か勘違いしているようだが、わかった、と私は頷いた。空木くんには関西弁を教えてもらうだけだ。だから、その目的が果たされてしまえば、もうお互い用はなくなるだろう。


 なんか、それは、寂しいかも。私は心の中でそうつぶやいたが、頭をぶんぶんと振ってその考えを払いのけた。

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