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「あの~、もしかして、おひとりですか?」


 満開の桜が迎える大学構内で、ふとかけられた声に私はびくっと肩を震わせた。慌ててその方向に顔を向けると、黒いスーツとパンプスに身を包んだ女性が私のほうを見ていた。顎の長さに切りそろえた髪はやや明るい茶色で、丸っこいパッチリとした瞳の奥は怯えているようにも見える。すでにグループができている新入生たちの中で、この女性も私と同じくひとりのようだった。


「はい。わ、わたしもひとりです」

「入学式、ご一緒してもいいですか!」


 おどおどと答えた私に、彼女は獲物を見つけた猫のように飛びついた。先ほどまでの物怖じした表情は消え、仲間を見つけてその目はきらきらと輝いている。


「もちろん」と控え目に承諾した私は、その女性と横に並んで会場に向かって歩き出した。見知らぬ大勢の雰囲気に圧倒され、強張っていた私の肩は幾分か緊張が和らぐ。


「私、鹿目しかめっていいます。鹿目律子。今日入学式ってことは、同じ文学部ですよね?」

「そう、私も文学部! えっと……名前は、花江千華、です」

「千華ちゃん、よろしく! 律子って呼んでいいよ。と、友達いなかったので……すごく安心しました」

「私も同じ。ありがとう……律子ちゃん」


 友達はできた。けれど、私の口から関西弁は出てこなさそうだ。






「ねえ、千華はサークル決めた?」


 入学式から一週間がたった。新入生向けのオリエンテーションを終えた私は、すっかり打ち解けた律子と並んで教場をあとにした。


「サークルかあ。ううん、まだ。律子は行きたいところあるの?」


 かぶりを振った私に、律子は「迷ってるんだよねえ」と難しい顔をした。


 広い廊下は、同じオリエンテーションを受けていた新入生たちでごった返している。今日の予定はもう終わったから、これからサークルやバイトや遊び、それぞれの好きな時間を過ごすのだろう。


「やっぱり大学生らしくいくなら、テニスとかかな。でも私、運動音痴だからなあ~。バンドとか始めてみちゃう?」

「律子、楽譜読めるの? 私はあんまり自信ない」

「まったく。リコーダーくらいしか触ったことないって」


 おどけてリコーダーを吹く真似をした律子に、私は声をあげて笑った。初めて声をかけられたときからそうだったが、律子は天真爛漫という言葉がよく似合う。彼女の天性の飾らない無邪気さが、私は少しだけ羨ましかった。


「あれ、今日って火曜日じゃん! バイトの面接あるの忘れてた。サークル見学、今度でもいい?」


 薄いコートのポケットから取り出したスマートフォンを見て、律子が残念そうにため息を吐いた。


「うん、大丈夫。バイトかあ。面接、頑張ってね!」


 じゃあまた明日!と言いながら校門のほうに走っていく律子を、私は手を挙げて見送った。


 大学でひとりになるのは、律子と出会う前の入学式の日以来だ。この時間をどう過ごそうかとぼんやり構内を歩いていると、ざわざわと他人の会話が耳に入ってくる。


「明日の新歓行く?」

「行く! めちゃくちゃイケメンな先輩いたんだよね!」

「え、見た~い」

「ラクロス部、マネージャー募集してま~す!」

「おまえどの授業とる? 楽なやつ知らない?」

「うわ、学食もう閉まってるじゃん」

「そろそろ就活始めないとヤバくない?」

「昨日さ、写真部にの子が見学希望って来たんだよね」

「まじ? てか、昨日活動日じゃなくね」

「そ。だから今日おいでって言ったんだけど、来てくれるかな――」


 ピクリと動いた私の耳は、その言葉を逃さなかった。勉強の成果は出せず、律子との会話では大阪の「お」の字すら言えていない。でも、まだ、諦めたわけじゃない。憧れたものはどうしても手にしたくなる性分なのだ。


 私は肩にかけたカバンから新入生用のガイダンス資料を取り出した。サークルのページを開き、写真部の文字を探す。活動日は毎週火曜、新入生募集中、隣の公園でお花見しながら歓迎会開催……。行くしかない。







 そして、冒頭に戻る。


 あまり興味もない写真部の歓迎会に潜入した私は、「大阪出身」の人物を探し当てることに成功した。


 名前は空木うつぎわたるというらしい。いかにも都会の若者らしいチャラチャラした外見だが、ぼそぼそと標準語で自己紹介をした彼は、先輩の話に相槌を打つだけで、あとはずっと俯きがちにレジャーシートに座っていた。健全な時間にお開きとなった歓迎会のあと、ぼうっと歩いていた空木くんに私は駆け寄って、勢い任せに先のお願いをしたのだった。


「関西弁、しゃべりたいの。自分で勉強しても全然自信なくて……。もしよければ、先生になってください……!」


 私は膝に手を置いて頭を下げた。桜が舞い散る夕方の公園内で、こんな男女を見たら誰もが愛の告白タイムだと思うだろう。けれど、今はよその目なんてどうでもいい。


「別にいいよ、暇だし」

「えっ!」


 予想外の答えに、私ははじかれたように顔を上げた。空木くんは斜めに視線をずらして地面のほうを見ており、居心地が悪そうに茶髪の頭をわしゃわしゃと掻いていた。


「明日の授業終わったあととかなら、空いてると思う」

「あ、ありがとう……」


 私はしどろもどろになってお礼を言った。もちろんこの返事を期待していたのだが、何とも言えない恥じらいを浮かべた空木くんを前にすると、言葉が浮かばなくなってしまう。


「じゃあ、よろしくお願いします……」


 もう一度頭を軽く下げたあと、私はちらっと空木くんの様子を伺った。コクンと頷いた空木くんの耳が心なしか赤く染まっていたのは、きっと気のせいだ。

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