マリ3 ②

テーブルの上にはいつのまにかボトルワインが二本開けられていた。

三人でボトルを二本。


結構飲んだらしい。トイレに立ち上がると、くらっと身体が揺れて、慌ててテーブルの縁を掴んだ。


「おいおい、大丈夫?」


シンの言葉に頷いて、トイレに向かう。

トイレから出てきて、バーの片隅に掛けられている時計が目に入った。


あ。もうすぐ十二時になる。



「終わる」

「なにが?」


いつの間にか私はテーブルに戻ってきていたらしく、シンと隣の彼が首を傾げている。



「誕生日。終わっちゃう」


「え!?」

「誰の?」


二人に同時に聞かれて、「私の」と言うと、マスターと同じように目を見開いて驚いている。やっぱり誕生日に、一人でバーに来てボトルワインを頼むなんて、非常識だったのかもしれない。


「ちょちょちょ、ルイは?」

「ルイは仕事だよ」

「こんな時間まで?」

「うん。仕事からの飲み会」

「えー……、まじかぁ」


同情を含んだ目で見られて、なんだか自分がみっともなく思えてきた。


どうやら私は可哀想な子らしい。

でも、ルイだって仕方なく仕事に行ったんだし、そんな事くらいどのカップルにもあると思う。


「ルイに会いたい……」

「電話してみたら? もう仕事終わってるかも」

「うん……」

「寂しかったって言うんだよ」

「うん……」


カバンの中からごそごそと携帯を取り出す。

画面を見ると、ルイから着信が二件も入っていた。



「え」


びっくりして、慌てて着信履歴を見る。

一件目は今から三十分前。二件目は十分前。

現在の時刻は0時十分だ。

誕生日の日付はもう終わっていて、次の日になっている。


ルイに電話を掛けようと、履歴から発信しようとすると、マナーモードにしていた携帯がブルブル震えた。


画面にはルイの文字。

シンがそれを覗きこんで、「お」と声を出す。


「……もしもし」

『お前、今どこ!』

「え、あ、外」

『外なのは知ってる。どこって聞いてんだけど』


怒ってる。

めちゃくちゃ怒ってる。


「駅の近くのバー」

『バー? 誰と』

「一人で来たけど、それから三人で飲んでる」

『意味わかんねぇんだけど、とりあえず駅まで行くから。着いたら電話する』


プチッと切れたその電話を呆然と見つめる。


「ルイ、なんて?」

「怒ってた」

「ありゃ。バーに来たのまずかったんかな?」

「かなぁ?」


ピンとこない。

確かにルイが仕事で遅くに帰ってきたときに私が家にいない事なんて初めてだけど、そんなに怒るとは思ってなかった。

興味のない人だと思ってた。


「私、行かなきゃ」

「寂しかったって言うんだよ? そしたら絶対許してくれるから」

「う、うん。言う」


自分のお会計を払おうとする私に、シンたちは頑なに拒んだ。

誕生日祝いと言われて、伝票を取り上げられる。

困って眉を下げて立ち往生する私に、携帯が催促するように震えて、私は慌てて電話を見る。


「ルイだろ。ほら、行きな」

「あの、ありがとう。今度もし会ったらごちそうします」

「うん。また今度ね」


広い都会で会える可能性は低いだろう。

シンたちは本当にいい人で、会えないだろうって事を分かっててそう言ってくれる。


「本当にありがとう。ごちそうさまでした」


慌てて店を飛び出した。携帯を耳に当てる。


『どこ』

「今、駅のすぐそばで。コンビニのあたりから駅に向かってる」

『いい。危ないからコンビニの前で待ってろ』

「うん」


急に走ったからふらふらしてきた。酔いが急激に回ってきて、視界が揺れる。

慌てて、コンビニの柱に手をついた。しばらく回る視界に悪戦苦闘しながら、とうとう柱にもたれてしゃがみこむ。

そのまま、ルイを待っていると、頭上に影ができた。



「マリ」


ルイはスーツ姿で息を少し乱している。髪もちょっと風でなびいている。

ぼーっと見上げていると、強引に腕を引っ張られて、立ち上がらされた。



「ルイ。んー会いたかった」


ネクタイをしているスーツ姿のルイの胸の中に飛び込む。

駅前のコンビニの前だとか、ルイが怒っている事だとか、全部忘れてた。



「マリ?」


戸惑ったようなルイの声。

それからすぐ両手で体を引きはがされて、顔を覗きこまれた。



「ルイ。キスしたい」

「…………」

「ルイ?」

「お前、酔ってんの?」


酔ってる。多分めちゃめちゃ酔ってる。

だから、こんなに視界がふわふわしてる。


「お前、酒強いからめったに酔わないだろ。一体どんだけ飲んだんだよ」

「ワインをボトルで」

「一人でボトル一本飲んだのか!?」

「ううん。三人でボトル二本。それとスパークリングとサングリア、グラスで」

「いや、だから、その残り二人どこから沸いて出た」

「どこから? あの店なんて名前だっけ……」

「もういい。お前話になんねぇ。とりあえず帰りながら聞くから。歩け」


こくんと頷く。

ルイは普段手なんて絶対に繋がないのに、私の手を強引に引っ張ると家の方向へと歩き出した。


足元がおぼつかない。

何度も隣のルイの身体にぶつかっては慌てて離れた。


「酔いすぎ」

「ふふ」

「何もおかしくねぇからな」

「ふふふ」

「…………で、誰と飲んでたわけ」

「えーと、シンともう一人は名前知らない」

「誰」

「知らない。シンはルイに似てると思ったけど似てなかった」

「……なにおまえ。俺の事怒らせたいの」

「え?」


ルイが怒っていることにようやく気付いて、慌ててルイを見る。立ち止まった私に合わせて、ルイまで立ち止まった。


「ルイ、怒ってるの? なんで?」

「男二人と飲んでたわけ?」

「うん。途中から」

「どうやって知り合った?」

「お店で一人で飲んでたら声掛けられて、テーブルに誘ってくれて」

「ナンパだろ。それ」

「ナンパじゃないよ。私が一人でボトルワイン飲んでたから可哀想に思ったんだと思う」


ルイが大きなため息を吐く。

じろっと睨まれて、酔いの回った頭でやばいって事だけ分かった。

ルイに怒られるのは嫌い。息ができなくなる。怒った後、嫌われるんじゃないかってそれがどうしようもなく怖い。


「可哀想に思って、男が女誘うかよ。下心あったに決まってんだろ!」

「え、でも、ルイがいるって、恋人いるって私言ったもん」

「だからなに。恋人がいたら、男がお前の事狙わないとでも思ってんの。何を見知らぬ男を信用してるわけ」

「え、え、ルイなんでそんな怒るの」

「自分の女が行きずりの男と飲んで、腹立たない馬鹿いるかよ」


ルイは心底呆れたって顔で私を突き放して、握っていた手も乱暴に外された。スタスタと前を歩いていくルイを慌てて追いかける。


「ルイ、待って!」

「…………」

「ルイ!」

「…………」


無視されて前を歩かれる。

ルイの長い脚だと歩くリーチも違っていて、どんどん差が開く。


置いて行かれる。

悲しくて、苦しくて、涙が立て続けに零れた。


知ってる。私が悪かった。男の人とお酒を飲んだ私が悪い。知ってる。そうだね。他の人に聞いたらきっと悪いのは私だろう。彼氏がいるのに見知らぬ男性とお酒を飲む。悪いに決まってる。浮気と言われてもおかしくはない。


でも、ルイだって。

ルイだって、今日も多分あそこに行った。

だって、ルイからは甘ったるい香りがしてて、さっきからそれが不快でたまらない。


ルイが今日、あそこに行くことを知って、飲みに行った。別に男の人と飲んで当てつけようと考えていたわけじゃない。


でも、それを知ってて、誕生日に一人でいるのはどうしても耐えられなかった。

ただそれだけ。


……追いかけるの疲れた。

私は家から数十メートルってところで立ち止まって、一歩も歩けなくなった。


足の裏が地面に張り付いたみたいに重い。ルイに謝らなきゃ。

でも、今ルイが近くに来たら、きっと余計な事言う。だから、動けない。


途方に暮れて、涙が後から後から零れた。



「お前、何してんの」


すぐそばで声がして、身体がビクンと跳ねる。

見上げると、呆れた顔をしたルイがそばにいて、私を心配半分、呆れ半分って顔で覗き込んでくる。


「帰るぞ」


また手を引かれて、その手を条件反射ではじいた。二人の手が大きく揺れて、離れる。

ルイが唖然とした顔で私を見た。


「ルイが怒る資格ない」

「なんで」

「だって。だって」

「…………」


ルイがじっと私を見てくる。疲れた顔をしている。きっと今日も仕事で大変だった。

それなのに、家に帰ったら私は家にいなくて、駅前まで迎えに来て、酔っぱらって迷惑掛けて、ルイにさらに突っかかろうとしている。


「うぇっ……、やだ、嫌いにならないで……っ」


ルイに抱き着いて訴えた。


「マリ。脈絡がなさすぎ。どうした。俺には怒る資格ないって怒ってただろ、今。最後まで言えよ」

「……怒ってない」

「ちゃんと言え。聞くから」


ルイの声がさっきより何倍も優しい。

怒る資格ないって突っかかったのに、なぜかルイが優しくなった。どういう思考回路でそうなったのか。ルイの事は何も分からない。


「ルイのスーツ」

「ん?」

「甘い香りがする。部長さんと飲みに行くと絶対キャバクラ行くの知ってる」

「ああー……」

「私、いつもなら仕事だから仕方ないって思うけど、誕生日で、家に一人でいたらそれがどうしても嫌になって、飲みに行ったの」

「うん」

「男の人と一緒に飲むの、怒られる意味わかんない。ルイはキャバクラに行ったわけだよね。仕事ならいいの? 営業部での飲み会はいつも営業部の綺麗な女性もいっぱいで。それなのに、私はダメなの? 別に浮気したわけじゃない。一緒に飲んで、ルイの話聞いてもらっただけ」

「……うん」

「ルイ、ずるいよ。誕生日、一人やだよ。寂しかった……」

「うん。うん。ごめん。ごめん、マリ」


ルイが私をきゅっと抱きしめてくれた。

背中に回された腕が優しい。

ルイが何度も私の後頭部の髪を慰めるように撫でてくれる。


「仕事だって知ってるよ。わがまま言えるわけない。困らせるって分かってて、そんなの言えないよ」

「そうだな。ごめんな。でも、俺は聞きたい」

「聞きたいの?」

「俺は営業だから付き合いも多いし、どうにもしてやれない事もあるけど、でも聞いてたら、お前の嫌がる事なるべく避けるように努力する」

「努力、してくれるの?」

「お前がそういうの嫌だって思ってる事も初めて聞いたから。考えたら分かりそうな事だったけど、お前が何も言わないから、俺が甘えてたのかもな」

「ううん、そんなことない」

「でも、今日は行ってないぞ」

「え?」


思わずルイの顔を見上げる。

ルイは優しく抱擁をほどいて、私に柔らかい表情を向けてくれた。


「スーツ、匂いちゃんとかいでみろ。お前の勘違いだ」

「え、え……」


ルイのスーツの胸元をくんくんする。

あ、ルイのいつもの香り。全然甘ったるい匂いがしない。


「あれ。ルイの匂い」

「今日は部長に無理言って断ってきた。ほら、とりあえず帰ろう」


ルイに手を引っ張られて、素直に家に帰る。

酔いが少し醒めたのか、さっきみたいにルイにぶつかる事はない。

ルイはマンションの中に入って、オートロックを解除する時も、家の扉の前で鍵を開ける時も、私の手を離さなかった。

部屋に入ってリビングのテーブルに見慣れないものが置いてあることに気付いた。


「ケーキ?」


小さな四角いボックスは明らかにケーキの箱で、それをじっと見つめる。ルイは私の視線に気付いて、戸惑ったように首を掻いた。


「あー、冷蔵庫入れとくの忘れてた」

「ルイが、……買ってきてくれたの?」

「まぁ……。仕事終わってから部長と居酒屋行って、その後のキャバクラの誘い断って、夜遅くまで開いてるケーキ屋探して買ってきた。一応日付変わる前にって思って急いで帰ったのに、お前いないから心配で。……怒って悪かった」

「……ルイ」

「誕生日、喜ばせてやりたかったのにできなかったから、八つ当たりした。ごめんな」

「ルイ。……好き。大好き」


ルイの背中にぎゅうっと抱き付く。

ルイは私の頭を優しく撫でて、その手を滑らせて頬に触れてくる。

顎をきゅっと掴まれて、上に向けられると、啄むように唇が重なった。優しい口付けは、口内を荒らすことなく、離れていく。


「ルイ、キャバクラ行かないで」

「あー」

「営業部の飲み会で女の子の横に座らないで」

「ん」


ルイを見上げる。無理なわがままを言った私をルイは怒らない。

優しい目で私を見下ろして、額にちゅっとキスをくれた。


「今の嘘だよ。全部しなくていいから、だから」

「うん?」

「……寂しかったの。ルイ、もっとかまって」

「マリ。可愛すぎてどうにかしそう」


ルイがきゅっと何かをこらえるように眉を寄せた。

私を見下ろして、熱い吐息を落とす。


そんなルイを見ながら。

シンが「寂しいって言えば許してくれる」と言ったことが間違いじゃなかったらしいってことがわかった。

ルイは私が寂しいと言うたびに優しい顔になる。


「キャバクラは二回に一回は断ってくる。営業部の飲み会では女の横には座らないし、営業部だけじゃなくて、総務とか秘書課とか混じってる飲み会の時はお前も来ればいい。俺の横に座ってろ」

「……いいの?」

「ああ。別に俺、お前の事隠したいわけじゃない」

「うん。……ありがとう」


ルイの親指が大事そうに私の頬を滑る。じっと思いを込めて見上げると、ルイが唇を重ねてきた。


「んっ……」


今度はさっきのキスとは違って、すぐに舌が入り込んでくる。

いつもより熱い気がするそれを受け入れて、自分も積極的に舌を絡めた。息が漏れて、ルイとの唇の間に消える。


「マリ。ケーキ、後でいい?」

「うん……」

「抱きたい」

「……明日祝日で休みだから、眠くなるまでしよ」


ルイの喉の奥から漏れる低い唸り声。

それを聞いて、ルイの引き締まったお尻に手を回した。


「今日のブラも見て。早く」

「……お前なぁ、くそ、知らないからな、明日遊園地行けなくなっても」

「明日行ってくれるの? でも、どっちでもいい」


私の返事にルイが余裕のない顔で笑った。

次の瞬間には、寝室に連れ込まれて押し倒されていた。覆いかぶさってきたルイの瞳が燃えている。


「ルイ、好き」


普段は言えない愛の言葉をルイに告げる。

まだ残っているお酒の力と、シンのアドバイスのおかげで、私はいつもより素直になる。


そんな私に、ルイは珍しく眉を下げて、涙をこらえるような情けない表情を向けた。初めて見たけど、その顔も好き。

きっとその表情は、私の事が好きでたまらないってやつだ。


自信を持てない私でも、それを信じられるくらいにルイの表情は分かりやすかった。



「マリ、愛してる」


瞬きをする。それから、笑みが零れた。どうやらルイは私の素直な言葉に弱いらしい。

ルイらしくない言葉を零してしまうほどに。



「好き。好き。好き」

「……おい」

「好き」

「抱きつぶしそうだからもう黙れ」


低い怒ったような声の後、とろけるようなキスが降ってきて、喜々としてそれを受け入れた。


ルイが好き。


それは魔法の呪文。

ルイを惑わす魔法の言葉。



End.

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る