マリとルイ 【完】

大石エリ

マリ

「……好きですっ。あの、私の事好きじゃなくてもいいんで付き合ってほしいんです。ダメですか?」


最初の告白はそれだった。

今思うと、好きじゃないのに付き合うってどういう事だって突っ込んじゃうけど、当時は本気だった。

デートなど一度もせず、いきなり会社帰りの彼に突撃して告白した。


彼は私の本気に「……いいけど」と適当な返事を返したのだった。そんな返事に私は喜んで、そしてその日から私は彼のセフレのような存在になった。

形式上は彼女、でもやってる事はセフレと変わらない。


彼は好きな時に私の家に来たし、家に来れば私が作ったご飯を食べて、そして私を抱いた。朝になれば私を置いてさっさと会社に行ったし、デートをした事もない。

あ、デートをしたことは少しだけあったかもしれない。

どちらにしても数えるほどしかなかったし、身体を繋げた数は数えきれないほどだった。


私はそれで良かった。それで十分だった。そう思っていたのに欲が出た。


私の一人暮らしの家から帰ろうとするルイに、後ろから。唐突に。


「家賃もいらないし、いつ帰ってきてもいいから、ここに住んでくれませんか?ダメですか?」


またもや意味不明な口説き文句だ。

ルイは、あ、彼の事だけど、彼との出会いは何かっていうと会社の先輩です。


ルイは私にふぅっとため息を吐きかけるようにして、「……別にいいけど」と。やっぱりあの一度目の返事と同じような低いテンションだった。


私はそんな返事にも関わらず、きゃっきゃと喜んで、もちろん顔にも声にも出てないけども、とても嬉しかったのを覚えている。


会社でも会う。

私は会社の一階のロビー入り口で受付業務をしている。

会社に入ってきていつもルイは受付をチラリと見てから素通りをする。


会社では話さない。だから休みの日のルイが一番好き。

夜私を抱いてから、次の日仕事に行かなくていい時は、お昼まで私を抱きしめて眠っている。抱き枕みたいにされているときもあれば、朝まで腕枕をしてくれているときもある。



「マリ、お前寝言言ってた」

「え、うそ。ごめん。なんて?」

「いや、わかんね。でも牛乳がどうとか言ってた」

「えー、なんだろ」

「寝言って返事しちゃだめだったっけな」


ルイは無表情のまま、私の頬をべろりと舐める。ビクッと震えた。その反応が面白かったらしい。今度は耳に舌を入れてくる。


「やっ、耳だめ……」

「ふうん。えっろ」


ルイが綺麗な顔で笑う。

うっすらを顔に笑みを乗せて、楽しそうに私を見下ろした。

休日の朝の始まり。




――それはあまりにも幸せな毎日で、幸せすぎて、私はたまらなくなった。嬉しくてたまらなくなったというわけじゃない。

もちろん嬉しいんだけど、そうじゃなくて、怖くてたまらなくなったのだ。




――金曜日、ルイからメッセージが届く。



『同僚と飯食べてくるから遅くなる』


『了解』と返して、携帯を握る。


テーブルを見渡すと、ルイの飲みかけのコーヒーが入ったマグカップ。洗面台に行くと、ルイの歯ブラシ、髭剃り、ワックス。クローゼットにはルイのスーツ、私服、趣味で弾くギター。


窓の縁にはルイの愛用の灰皿。

至るところにルイの痕跡。

当たり前かもしれない、同棲しているのだから。


でも。

怖くなるんだ。

今までは向こうが好きじゃなくたって良かったし、たまに帰ってくれればいいと思っていたのに。


好きになりすぎて。

それじゃ足りなくなって。

今何してるんだろう、誰といるんだろう、誰を好きなんだろう、そんな事を考えているうちに怖くなった。

 

頭がそれだけでいっぱいになって、何をしていても上の空で、胸がちぎれるようにいつだって痛い。



「ただいま」

「おかえりっ」


ルイが帰ってきた。

リビングに来たルイは私を見つけると、頭をくしゃっと撫でて寝室に入っていく。


いつだってそう。

帰ってくると必ず頭をくしゃりと撫でる。

それがいつか無くなったら、いつか夜中にさえ帰ってこなくなったら、そんな風に考えると恐ろしくてたまらなくなる。


ルイが好きだ。

それはきっと変わらない。

でもルイは元々私の事が好きなわけじゃないし、ただ便利だからそばにいるだけなんだから、便利じゃなくなったら変わるかもしれない。


そんな事を言うと、友達たちは馬鹿らしいとでもいうように、その時になったら悩めばいいじゃんって言うけど、そんなに楽天的にはなれないんだ。 


「マリ。飯ないの? 今日」

「あ、あるよ。残り物だけど」

「それでいいから出して」

「うん。すぐ出すね」


ルイはどんとソファに座って、動かない。

仕事はいつだって終電を超える。疲れているんだろうか。

それとも亭主関白と言うやつだろうか。それならいいけど、ただ私がいるのに労力を使うのがだるいだけかもしれない。


他の女の子には優しくしてあげているのかもしれない。

そんな事ばっかり考えるから怖くなるんだろうけど。


「ルイ、仕事どう?」

「え、なんて?」

「……ううん。何でもない」


そう言うと、ルイが私を見てはぁっとため息を吐く。

そのため息にさえ、十通りくらいの理由を考えて、気分がふさぎこんでいく。 

何でも考えすぎなんだ。気にしなければいいのに、悪い方にしか考えが進まない。


好きすぎて苦しい。

この気持ちが分かる人は一体どれだけいるのだろう。


「マリ。一緒に風呂入ろ」

「うん、入る」


ルイは私に後ろから抱きついて、そのままお風呂へと運ぶ。

服を脱がされて、ルイが自分で服を脱いで、うっすら割れた腹筋を見るだけで、胸が痛くなる。


「なに見てんの」

「見てない」

「見てたじゃん。嘘つき」


ルイはふっと魅惑的に笑う。

それだけでたまらなく苦しくなって、好きだなぁ、好きだなぁって思う。


ルイと一緒にいると圧迫感がある。

たまらなく息苦しくて、もう逃げたいって泣きそうなほど思う。


だけど、一緒にいて笑ってくれたりなんかすると、もうこのまま死んでもいいって思ったりする。

厄介な自分の思考回路に勝手に振り回されている。


お風呂でルイにのぼせるほど抱かれて、ベッドに連れ込まれてまた抱かれる。私がもうやめてって言ったって、身体に限界が来たってやめてくれる事なんて今までに一度だってない。

私と一緒にいるのは欲求解消だろうから、それでいいのだけど。


まだ私にそうして執着してくれている時はいい。

怖くてたまらなくなるのは大抵待っている時だ。


受付の私と、営業のルイ。

働く部署は違う。もちろん終わる時間も違うし、仕事の内容だって違う。ルイが会社に入ると働いているフロアが違うから視界に入ることもない。


私は会社の受付時間が終わる十九時には家に帰宅するけど、ルイは時間なんて関係ない。

終電を超える時も今までもあるけど、それはたまにだった。最近はどうも続きすぎている。


そこで疑っている私はまたダメな奴だろう。

でも私と同棲するまでのルイは浮気ばっかりで、よく女の人と会っていて、それを隠しもしなかった。最近は隠してくれているようだけど、多分今日だってそうなんだろう。


塞ぎこみそうになって、気分転換にコンビニに向かう。

最近お気に入りのアイスを買って、雑誌を買って、コンビニを出る。


通勤に使っているルイの珍しい外車が目に入って、思わず目で追った。



……あ、ルイ。………と、女の人。



目からぼろりと涙があふれた。

なんで。

同棲するまでは浮気をされたって仕方ないって思えたのに、今はどうして思えないんだろう。


なんでこんなに心が狭くなったんだろう。

どうして。なんで。


たまらなくなって、走って部屋に戻った。


アイスと雑誌が入った袋を玄関先に乱暴に放り出して、旅行バッグに服を詰め込む。

必要なものをとりあえずてきとうに詰め込んで、家を飛び出た。きっと必要なものも置いてきたけど、財布と携帯があればどうにかなるだろう。

数日分の着替えもある。

怖くてたまらなかった。


彼の元から逃げれば、呼吸ができないような苦しさからも解放されるかとそう思ったんだ。


階段を駆け下りて、マンションのエントランスから出る。

人にガンッとぶつかる。


「……すみませんっ」


思わず声を出す。

そこで匂ってきた、分かりすぎている香水の香りに顔を上げる。




ルイがいた。


あからさまに怒った顔で私を見る。それから背負っている旅行鞄を見た。


沈黙が身体を突き刺す。冷たい視線が私の身体を貫くような痛みを持ってくる。


「なに、旅行? 聞いてないけど。こんな夜中から? どこに?」

「…………」

「夜逃げのように見えるな。なあ。旅行かって聞いてんだけど」

「…………」

「答えろよ!!!」


いきなり怒鳴られて、簡単に私の身体は震え上がる。

壁をドンと殴られる。


そのあまりにもの衝撃に、身体が大げさにビクンと跳ねる。涙がこぼれて、ごしごしと腕で拭う。



「ごめん、出てく」

「……はぁ? なんて?」

「出てく」

「何言ってんの。ここお前ん家だろ。契約も全部」

「それは……っ、後からどうにかする。ルイ、家賃も全部渡してくれてたけど、使ってないからベッドのとこの引き出しに全部入ってる。それ返しとくね。もしこのままあそこに住むんだったら契約引き継ぐし、家賃も、ルイなら払えると思うから」


私が話す言葉をルイは聞いているのかどうか分からなかった。


でも必要な事は伝えた。

出て行くって事も言った。


ルイの横を通り過ぎようとして、乱暴なほど強く腕を握られた。


「マリ。お前ふざけんじゃねぇぞ」

「……ルイ、ルイ、痛い」

「理由を言え」

「……理由」

「あぁ、理由ってのがあんだろ。何が不満なんだ、言ってみろ。それかよそに男でもできたか」


よそに男……。

よそに女がいるのはルイの方じゃないか。

そう思ったけど、もちろんそれを口に出す事はない。


首を横に振る。

私のこの曖昧な逃亡理由を口にしたところで、きっとルイには馬鹿にされるに決まってる。


好きじゃなくてもいいから付き合ってと言ったのは私なんだ。

まず始まりが失敗だった。


でもその後そのままに同棲に持ち込んだのも私だった。

だって、ルイが出て行くのが怖い、他の女の人のところに行っちゃうのが怖い、私の元から消えて行くのが怖くてたまらない。

だから私が先に出て行くなんて。


そんな事、言えない。


「お前ってほんとに喋んねぇな」


はぁっとため息を吐かれる。

このため息の理由はすぐに分かった。十通りもない。ただ私にうんざりしているからだ。


「それか他の男には喋ってるわけ? 俺にだけ? その無口な感じ」


吐き捨てるように言ったルイは、ほんのちょっと嘲笑う。

かっこいいけれど、少しだけ悲しそうなそれは初めて見る表情でじっと見つめた。


「ルイ、今までありがとう」


そう言って、腕を振りほどくと、今度は肩を強引に引っ張られた。


「何がありがとうだ。行かすわけねぇだろうが!」


ドンと壁に押し付けられて、唇を奪われた。奪うという表現が正しいような、そんなキスだった。


「んぅっ……んっ、やだっ……」


力が入らなくなると分かっていて、本気のキスを仕掛けてくる。真っ暗なマンションのエントランスでキスをかわして、私がくったりとなったのを見計らって旅行鞄を取り上げられる。


「あ……! ルイ、まって」

「待たない」


強引に腕も引っ張られる。

嫌と主張する隙もなく、マンションの部屋に連れ戻された。


玄関の隅っこで、コンビニの袋が置き去りにされている。

……アイス溶けただろうな。


「他に男いるんだな。いつできたんだ。言え。お前ってそういう奴だっけ? 俺が見張ってないと浮気とか平気でしちゃうわけ」

「そんなのいないよ」

「あぁ? じゃあ今からどこ行く気だった。なんで出て行く」

「…………」

「言えって言ってんだろうがぁ!」


怒鳴られて肩を竦める。

そんな私を見て、ルイがまたため息を吐く。

ソファに座った私の隣に座ったルイは、イライラしているのか煙草を少し吸って、灰皿に押し付ける。


それを横目で見ていると、こっちを振り向いたルイと目があって、引っ張られた。ルイが首筋に吸い付いて、きつく火傷のようなキスマークを残す。


首筋をとっさに押さえると、ルイが笑う。

珍しく声に出す笑い方に目を見開く。

ルイが私にキスマークを付ける事も初めての事だった。


「それ見せてくれば? それとさぁ、今からめちゃくちゃにヤッてやるから、その後で男のとこ行け」

「……そんな人なんていない。私にはルイだけ。ずっとずっと私にはルイだけだよ」


はっきりそう言うと、ルイがこっちを見て分からないというような顔をする。


「……じゃあなんで出て行くんだよ。訳わかんねぇよ、お前」

「しんどくなっちゃった」

「はぁ?」

「ルイのため息の理由を数えるのも、残業か女の人かどっちだろうって繰り返し考えるのも、全部」


ルイは目の前でしばらく動きを停止していた。

たっぷり一分ほどが過ぎた頃にようやくゆるゆると動き出して、私をゆっくりと抱きとめた。


なんでなんで、と思っているうちに、ルイのため息が耳元で聞こえて、また理由を考える。


「馬鹿じゃねぇの。お前。ため息の理由なんてな、全部お前に呆れてる以外になんかねぇよ! 他になにがあるんだよ。お前みたいに変わった女なんていねぇんだよ!」


呆れてる。

それがため息の理由?


「呆れて嫌いにならないの?」

「呆れるよ。お前変わってるし、何考えてるか分かんないし」

「……うん」

「でも嫌いになってたら、ここに帰ってないだろ。そんな事も分かんないってお前馬鹿なの? 馬鹿なわけ? 会社の仮眠室にも泊まらないで毎日毎日なんで帰ってくんだよ! なんでお前の飯食うんだよ! なんでお前を馬鹿みたいに抱くんだよ! 考えればわかるだろ。この馬鹿!」


馬鹿って何度言われただろう。

そんな事を考えながら、つーっと涙が流れる。

ルイが私の涙の筋をじっと見る。

そこにため息はなかった。


「他の男のとこなんて行ってみろ。俺が殺してやる」

「……もういっそ殺してくれたらいいのに」


ルイが今度こそため息を吐く。

また私に呆れたのか。理由が分かると少し気分が楽になった。


「でも今日女の人と一緒にいた」

「あぁ、姉貴だろ。俺姉貴三人いるの。言った事あっただろ? 馬鹿じゃないの? そんなに信用できないなら今から会いに行くか? あ?」

「そんな事だったの? 同棲前も?」

「だから何度お前に姉貴だって言ったんだよ。信用しなかったのはおまえだろ?」

「…………」

「お前、まじで変な女だよ。手かかるし、重いし、何考えてるか分かんないし。でも可愛いんだよ。好きなんだよ。分かるだろうが。俺の事ばっか見てんだろ? お前、分かれよ」


本当にしんどそうにルイが言うから、初めて自分から抱きしめてみた。自分よりも随分と大きいルイの背中を抱きしめてみて、印象が変わる。

ルイはくったりと頭を私の肩に預けてくる。


普通の男の人。

そんな風に今までなんで思えなかったんだろう。


「まだ不満とか不安あるの、マリ。この際全部言って。もう勝手に悩まれて逃げられるとありえないから」

「……ない」

「なら、なんて言うの?」

「ごめんなさい」

「で?」

「好きです。一緒にいてください。ダメですか?」

「……まぁいいけど」


相変わらず愛想のない返事の理由を考えて、ほんの少しだけ希望的観測がでた。照れ隠しかもしれない、とそんなあまりにもな希望的観測だった。


「次家出たらお前閉じ込めて監禁するから。分かった?」

「……それでもいい」


ルイがため息を吐く。

また呆れたんだ。でも呆れても嫌いにはならないんだ。


「マリ、風呂行くぞ。お前明日仕事休めよ」

「なんで?」

「朝まで抱く」

「うん。」


ルイが首を傾げた。

何考えてんのか分かんないって顔して私を観察してくるのが分かった。


「ルイになら何されてもいいって思ってた」


今まで言った事のなかったことを言ってみた。

ルイがかぁっと耳まで赤くして、「馬鹿かよ」とまた暴言を吐いた。そんな顔を見るのは初めてで目を見開いた私を、ルイが優しく手を引く。


少し世界が変わる。

怖くてたまらなかったそれは、ルイに言わせれば全部“馬鹿”の一言で済むらしい。


ルイにも怖い事があるんだろうか。

聞いてみたいけど、それはまだ少し勇気が出ないからやめておいた。


End.

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