後編

「みくちゃん。数学の宿題やってきた。もしやってないなら見せるよ」

「あ、やってきたよ。ありがとう」

「そう。……残念」


彼はこうやっていつも私に何かしようとする。

無理やりにでも傘の恩返しをしたいらしい。



「みくちゃん。お弁当作ってきたんだけどあげる」


しまいにはお弁当まで作りだした。


ありがとうと言いながらおずおずと受け取る。

心底困りながらも笑うしかなかった。


放課後お弁当箱を受け取りに来た彼に、感想を聞かれて、思わず頭を撫でてしまった。

忠犬みたいなきゅうんとした瞳でこっちを見られたら、そうしたくもなるよ。



「おいしかったよ。ありがとう」


頭を撫でられた事にびっくりしたのか、彼は綺麗な顔を赤くして私をじっと見た。



「ありがとうと言われて、こんなに幸せだったのは初めてだ」


ぽつりとぎょっとする事を呟いて、彼は私を慈しむように眺めた。



「わ、私、彼氏いるよ」


どうしても言わないといけない気がしたんだ。

ここで言わないとダメな気がした。

彼は私のいきなりの発言に眉を寄せてから、間をあけてからゆるゆると笑って見せた。


「知ってるよ。みくちゃんにはラブラブの彼氏がいるって女の子が言ってたから」


ふうっと息を吐く。

今回ばかりは、女の子の牽制もありがたいと思ってしまう。


「ラブラブって……。そんな事はないけど」

「ちゃんと分かってるよ」


はっきりと安心させるように言った彼に、小さく「うん」と頷いた。

申し訳なくなったけど、そうでもしないと、彼はどこまでも私の世話を焼きそうだった。


でも、その後も彼は私の世話を焼き続けた。

宿題を見せに来たり、お弁当を週に二回作ってきたり、雨の日には傘があるか毎回チェックをされたり、移動教室の時には教科書を持ってくれた。


それはもう至れり尽くせりで、私は正直その行動にいつまで経ってもとまどいを隠せなかった。



いくら騒がれていて綺麗だともてはやされている王子様みたいな彼だって、私はそんな簡単に好きになる事もできなかったし、正直迷惑だと思ってしまう事もあった。

中学から付き合ってる彼の事が好きだったから。

心の隙間はどこにもなかった。



あれから四ヵ月が経った。

季節は寒い冬に移り変わって二月になった今も、彼は私のそばにいる。

今日は私が日直で日誌を書かないといけないために、それに付き合って彼は放課後教室に残っている。


「彼とはうまくいってる?」

「んー……。ああーどうだろう。なんか最近連絡来ないし他に彼女でもいるのかも。浮気も何回かされた事あるからさぁ」


てきとうに言いながら、シャーペンをかりかりと動かす。


「……ふうん。そう。でも、それでも別れないんだね。好きなんだよね?」


前の席に座ってそう聞いてくる彼に、視線を合わせてこくっと頷いた。


「ずっと前から好きだったから。簡単には嫌いになれないんだ」


私が悲しい顔をしたはずなのに、なぜか彼の方がよっぽど泣きそうな顔をしていた。

それに気付いて頭を撫でると、いきなりぼろぼろと泣き出してしまった。


「城山くん!? ど、どうしたの!? 頭撫でるの嫌だった?」


おどおどしながら、手を頭からさっと離すと、ぶんぶんと首を振って否定してきた。


「違う。みくちゃんに頭を撫でられるのが一番嬉しい。君にかまってもらえている気がして幸せな気持ちになる」


その言葉になんて言おうか。

なんて返事をしようか。

ひたすらに考えていたけれど、まだぼろぼろと綺麗な涙を流すものだから、思わずもう一度頭に手を戻した。


彼のふわふわした髪を、ゆっくり愛でるように撫でつける。



「じゃあ、どうして泣いてるの……」

「みくちゃんが好きで。好きで。でも、どうにもならない」


彼の悲痛な叫びだった。

ずっと笑顔で私と一緒にいたから、彼の気持ちをあんまり真剣に考えた事がなかった。


風邪の私の手を引いて保健室に連れて行ってくれたときだって、寒がる私にマフラーをかけてくれたときだって、いつだって。

ずっと苦しんでたんだね。

ごめんね、すぐに突き放してやれなくてごめんね。


痛々しいほどのまっすぐな気持ちに、胸がぎゅうっと締め付けられて、甘い痺れをもてあました。

足のつま先をぎゅっと折り畳んで、心臓の痛みを落ち着かせる。

苦しいくらいに、伝わってきて、私まで涙が出そうになった。


胸の中が、甘いのと苦しいのとでぐちゃぐちゃになって、泣いてもないのに嗚咽が口から飛び出しそうで、思わず片手をきつく口元に当てた。

どこを彼が好きになったのかは分からないけど、彼は私を日ごとにどんどん好きになってくれた。

気持ちはすでに十分すぎるくらいに知っていた。


「ごめんなさい。……あの、分かってると思うんだけど、……城山くんの気持ちには応えられないの。ごめんね」


謝ると、彼は首を横に振って、泣きながら笑って見せた。


「いいんだ。そんな事望んでないから」

「……ごめんね。もうお世話もしてくれなくていいから。傘のお礼は十二分にしてもらったよ。ありがとう」


明るくなるように精一杯笑うと、彼は目を見開いて私のシャーペンを持つ手をぎゅっと握った。

彼の手の思わぬ冷たさに、体がぶるっと震えた。


「嫌だ。ぜいたくは言わないから。もう少しだけ恩返しをさせてほしい」

「え? でも……」


彼は涙をぬぐって、私をじっと見つめた。

その瞳は、しんしんと雪が降っている中の太陽みたいに眩しかった。


「高校を卒業するまででいい。もっと俺になにかさせて。あなたのためになにかさせて。ありがとうって言わせて。……そして、たまにでいいから頭を撫でて下さい」


頭を下げた彼に。

恩返しという理由でそばにいる事を望んだ彼に。

私はどうしようもなくなって、もどかしさにまた泣きそうになった。

今すぐ彼の手を奪って抱きしめたいと思うほど、愛しいと思った。


それなのに、私の心の中にはずっと同じ人が占めていて。

応えてやれない切なさに涙がにじんだ。



でも、そんな彼がだんだんと私と一緒にいる回数を減らしていき、卒業が近くなると一週間に一回ほどしか話さなくなった。


そして卒業式の当日、偶然鉢合わせた彼にあっさりと別れを告げられた。

会ったのは五日ぶりのことだった。


「今までありがとう。卒業だからもう会えなくなるけど元気でいて。……そして、もしどこかで偶然会った時は笑って下さい」


別に連絡先も知っているし、卒業したって会おうと思えば会える。

それなのに、もう会えなくなると言ったんだから、もう彼は会う気がないんだろう。

私に会いたくないんだろう。


忠犬で律儀だった彼の熱い想いは一年以上もの月日で消え去ったのか、口調はあまりにも穏やかで爽やかだった。

彼は私から離れられてむしろせいせいしているのかもしれない。


そこに傷ついた自分に笑いそうになった。

あの頃、何度も断ったのは自分じゃないか。

前に進んで、私から離れた彼を今更惜しいと思うのは、性格が悪すぎる。



「元気でね」


心にもない言葉を彼に告げると、嬉しそうにほほ笑んでくれた。

すっきりした顔だった。




―――あれから二ヵ月。


私は短大に、彼は四大へと進み、偶然出会う事はもちろんない。

ただ、こっそりと彼への想いを消化しきれないまま、もやもやとくすぶらせていた。


今日はもう付き合って五年になる彼氏と会っていた。


「みく。お前、卒業してからあの男と会ってんの?」

「誰? あの男って」

「えーっと、ああ、えーっと変わった名前の。……あ、そうだ城山万里。お前仲良かったんだろ?」


その言葉にぽかんとなる。

なんで知ってるの?

彼氏は違う高校だったし、私は彼氏に城山くんの話をした事もない。


なんで知ってるの?

動揺して彼氏の腕に掴みかかると、しらっとした目で見おろされた。


「なんで? 知ってたっけ……? え、どして」

「あ? お前知らねぇの? あいつ俺の学校まで来たんだよ。わざわざ」

「は? 何のために。友達だったの?」

「なんでだよ。お前の友達だろ? 大事な友達なので傷付けるような事しないでくださいって頭下げてきたんだから。あれは笑えたなぁ」


その言葉に、心臓に釘が刺さったのかと思った。

いや刀ぐらいの大きさかもしれない。


「いつ?」

「高二の冬くらいじゃないかな。ああーそうだ、バレンタイン辺りだったから二月だな」


高二の二月。

といえば、彼から告白をされた時だ。

放課後一緒に日誌を書いていて、そこで彼氏とはどう? なんて聞かれて、能天気にうまくいってないと話をした。


でも。

あの日、彼氏が好きだから気持ちには応えられないって言ったのに。

それなのに、それを聞いて、まだ私の為に?

彼氏と私を仲良くさせようと?

私を悲しませないために?


「なにそれ……」

「は? 知らなかったのかよ。みくちゃんが可哀想です。お願いしますって生徒がいっぱい見てる中で俺に頭まで下げてよ。笑っちゃったよ。馬鹿だろ、あいつ。あいつお前の事好きだったのか?」


その言葉に、さぁ知らないと言いながら、ぐるぐるととりとめもない事がパンクしそうなほど頭を流れた。

人として上の位置にいるのは城山くんの方だ。


馬鹿じゃない。

馬鹿だよ。

馬鹿だ、絶対。

涙がぼろりと零れ落ちて、目の前の男が目を見開いた。


……馬鹿みたいに、愛しい。好きでたまらない。


なんで気付かなかったんだろう。

なんで今頃気付くんだろう。

きっととっくに好きになってたくせに。

かたくなに彼氏以外を好きになろうとしなかった。



今すぐ会いたい。




「ごめん。別れて」

「はぁ? …………っておい! どこ行くんだよ!」


引き留めようとする彼氏を放って、彼氏の家を飛び出して、震える指で携帯を開く。



プルルル、プルルル、プルルル……

冷たい機械音が鳴り響いてる中、心臓がさらに大きな音を鳴らす。



「はい?」


その言葉だけでさらに泣けた。

忠実で律儀で、それなのに離れて行ってしまった彼が一瞬でよみがえってきて、さらに泣けた。



「~~~~っ……。……っ」

「もしもし? みくちゃん? どうしたの?」

「……会いたいっ」

「え。でも今大学で、授業中なんだけど」

「どうしても会いたいっ」


そこから少し沈黙があって、彼が声色を変えて話してくれた。


「今すぐ行くから場所を教えて」


電話を切って、待ち合わせ場所まで歩く。

彼は、どこから来たんだと思うくらいの早業で十分後には待ち合わせ場所に来た。


息を切らして、額には汗がにじんでいた。

それでも相変わらず、雪のように綺麗だった。


「みくちゃんっ。どうしたの? なんかあった?」


泣いた跡のある頬をじっと見て、彼は私に向かって心配そうにつぶやく。


「ごめんなさい」


謝罪の言葉を口にする私に彼が心配そうに首を傾げる。


「城山くんのこと、好きになったっ。ごめんなさい」


頭を下げると、彼の息をのむ音が聞こえた。


「…………本当に?」

「うん。今更でごめん。でも、好き。多分結構前から好きだった」


彼の顔をじっと見つめると、いきなり何粒もぼろぼろと涙を流して私をこらえるように見ていた。

ぎょっと見てから、思わず手を伸ばして頭を撫でると、彼は私の手を取ってぎゅうっと抱きしめてきた。

背中に腕が回されて、細いと思っていた彼の胸板は私よりも随分大きかった。


男の人の涙を見たのは二度目だ。

かっこ悪いなんて思わなかった。

彼の想いの結晶がどうしようもなく愛しかった。


「ずっと。ずっとみくちゃんが好きだった」

「…………ありがとう。私もすき」


抱きしめられながら耳元でそう囁くと、城山くんははぁっと大きな息を吐いた。


「どういう経緯か分からないけど手放しで嬉しい。夢なら醒めたくない」


そうだよね。

卒業して二ヵ月で急に連絡して告白するなんてびっくりするよね。


本当はあの時、卒業をきっかけに縁を切られた事が恐ろしいくらい寂しかった。

厚かましくて口に出しては言えなかったけど。

あの時はっきりそう言えばよかった。


「城山くんはまだ私の事好きでいてくれたの?」


そう聞くと、少し間が空いてから、そうだよと返事が返ってきた。


「でも卒業前はもうあんまり話さなかったし、卒業式の時も笑って別れたよ?」

「それは……。みくちゃんに迷惑なの分かってたから。卒業と同時に諦めようと決めてた。だから話す回数も減らしたし、頑張って笑ってさよならを言った。平気なんかじゃなかったんだけど、そう見せてたから」

「そう……だったんだ。ごめんね」


信じがたいけれど、彼の気持ちは今でも私だけに注がれていたらしく、それだけで胸が込み上げるように熱くなるのを感じた。


これが恋だと言うなら、私は今まで恋をした事がなかった。

こんなにも切なくて、ぎりぎりのところでとてつもない幸せに覆われる。

苦しくて、でも嬉しくて、一緒にいるだけで世界が虹色に見える。

そんな素敵な恋をくれた彼が愛しい。


「みくちゃんが好きで……」

「うん」

「こっそり優しい君がどうしようもなく好きで」

「……うん」

「可愛く笑う君が泣いてしまうくらい大好きで」

「……うん」

「……そして、俺を好きだと言う君がたまらなく愛しい」


彼独特の愛の言葉に、これでもかってくらいに心が満たされて、温かい涙が流れた。


「そして、私も好きだよ、万里」


彼の言い方を真似して笑うと、一瞬首を傾げてからその後カッと耳まで赤くして見せた。


「そしての使い方おかしいよ。それと、いきなり万里って呼ばないで。反則」


女の子みたいに可愛く照れる万里の髪の毛に指を差し込んで、柔らかく撫でつけた。

万里は綺麗に笑って、幸せ、と甘く呟いた。



【完】

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