もっと、うまく
──少しずつ、意識が覚醒しはじめているのがわかる。
どこからか聞こえてくる鳥の囀り。何かを運んでいるような音。普段は日が昇る前に使用人達から叩き起こされ、朝食の準備を手伝っていた。こんな日常の音で目覚めるのは、実に何年ぶりだろうか。
なんて幸せな音なのだろう。このまま起きてしまうのもいいが、何だかもったいない。もっと浸っていたい。
そう思ったとき、自分のものではない、誰かの寝息が聞こえてくることに気が付いた。何故か、頭上から。
完全に意識が覚醒してしまった。そういえば、身体の上にも何かが乗っているような気がする。アリーシャがゆっくり目を開けると、まず白い首筋が見えた。そのまま顔を上げていくと、そこにいたのは。
「……っ、ノア!?」
自身の右腕に頭を置き、左腕はアリーシャの身体の上に置いている。今もすうすうと寝息を立てており、アリーシャは慌てて起き上がり距離を取ろうとするが、手をつこうとしたところには何もなかった。
「ひゃあ!」
ゴン、と重たい音が部屋に響く。ダブルベッドとはいえ、そこまで広くはないベッド。勢いよく床に頭を打ち付けた。
その音で目が覚めたのか、ノアは「何の音だ!?」と声を上げながら起き上がった。アリーシャはといえば、ベッドに足だけが残っている状態。床に寝転がっているアリーシャをノアが覗き込んできた。
「大丈夫か? すごい音がしたが」
「は、はい、痛いですが大丈夫です……」
ノアが手を差し出してくれたため、アリーシャは迷わずにその手を取る。ぐい、と力強く引き寄せられ、ベッドに座ることができた。
「すみません。わたしが倒れてしまったから、ベッドを占領してしまったのですね」
「あ、いや、一人で広々と使ってくれてよかったんだが……その、アリーシャが気になって」
少し離れて眠れば、何かあってもすぐにわかると思ったと、ノアは左手で首の裏に触れながら事情を説明した。
「休憩も挟まず、無理をさせてしまった。本当にすまない」
「気になさらないでください。わたしがすると決めたことなので」
そう言いつつも、内心は他のことで頭がいっぱいだった。
部屋に男性と二人きり。それも同じベッドで眠ってしまった。心臓がバクバクとうるさい。
落ち着かなければと小さく息を吐き出し、意識を逸らしたいがために「それよりも」とアリーシャは口を切る。
「皆さんの怪我は、治せていましたか?」
「ああ、もちろんだ。あの場にいた者達が、アリーシャに礼を言いたいと」
ノアは目を細め、口角を上げた。
礼なんてとんでもない。自分ができることをしただけだ。胸を撫で下ろした瞬間、アリーシャの腹が小さな音を鳴らした。慌てて両手で腹を押さえるも、もう遅い。きゅるきゅると音が鳴り続ける。
この世界に来てから、何も口にしていなかった。気が張っていたこともあって空腹も喉の渇きも忘れていたが、ノアの言葉を聞いて安心し、緩んだのだろう。今は空腹も喉の渇きもしっかりと感じる。
羞恥心から顔に熱が集中する。きっと、赤く染まっていることだろう。すみません、と呟くように謝ると、ノアが笑みを溢した。
「何も謝ることはない。ここまで飲まず食わずだったんだ。何か食べよう。そのためにもまずは湯浴みからだな」
宿屋の者に声をかけてくる、ノアはベッドから下りると部屋を出ていった。確かに、砂埃などで汚れている。風呂に入れるのなら入りたい。
そのあとは、食事。それが終われば、ノアとは別れる。
一人になったあと、どうやって生計を立てていこうか。どこで住もうか。ティンタジェルの村に住ませてもらえるとありがたいが。
これからのことをしっかりと考えなければ。わかってはいても、もうすぐやってくるノアとの別れを思うと胸が締め付けられた。
* * *
宿屋の中にあった風呂場を借り、ノアとアリーシャはそれぞれ入って汚れを落とすことにした。ノアの厚意に甘え、先に入らせてもらう。
家にあった浴槽よりはこぢんまりとしていたが、入れてもらえるだけありがたい。服を脱いで中に入り、張られた湯に身体を浸す。そのあたたかさが心地よく、疲れがほぐされていくようだ。ゆっくり楽しみたいところだが、さっと全体を泡で汚れを落とし、長い髪の毛の水を切るとそそくさと風呂場を出た。
タオルはないのかと探していると、畳まれた布が目に入る。それで身体を拭き、髪の毛をまとめた。服も洗いたいところだが、替えがないため今は仕方がない。
風呂場から出ると、ノアに声をかけようと辺りを見渡した。ノアは窓際近くにある椅子に座り、足と腕を組みながら背もたれに背を預け、静かに外を眺めている。何かを考えているようで、こちらに気付いている様子はない。
──様になる。そんなことを思いつつ、アリーシャはノアの元へ歩いていき、彼の名を呼んだ。
「とても気持ちよかったです。ありがとうございます」
「そうか。俺も入ってくる」
ノアが風呂場へ向かうのを見送ると、アリーシャは彼が座っていた椅子に座った。窓からはあたたかい日差しが入ってくるため、これなら髪の毛もすぐに乾きそうだ。髪の毛に巻いていたタオルをほどき、髪の毛を一つに集めて右側へ垂らす。タオルで軽く挟んで乾かしつつ、窓の外を見た。
今日は昨日と違い、村の住人が忙しないように思える。それだけではなく、兵士達もどこか忙しない。ある者は果物を運び、またある者は皿の上に大きな肉を乗せて運んでいる。両腕に大きな容器を抱えて運んでいる者も。
何かあるのだろうか。ノアが出てきてから様子を窺いに行ってもいいのかもしれない。すると、一人の男児と目が合った。歳は五、六歳だろうか。その男児はぱっと顔を明るくさせると、走ってどこかへ行ってしまった。
あれくらいの子は直感で動いていることが多い。可愛いと思っていると、バン、と大きな音を立てて宿屋の扉が開かれた。
何事かとそちらに目を向けると、そこには先程の男児ともう一人、同じ年頃の女児がいた。アリーシャと目が合うと、女児の手を引っ張って男児がやってくる。
「お姉ちゃん! 怪我とか治せるんだよね?」
「は、はい。どうかされましたか?」
「この子ね、お手伝いしてたんだけど、転んじゃって。ここを怪我したんだ。色が変わって、それで」
アリーシャはタオルを椅子の背もたれにかけると、色が変わっているという女児の左手首を見た。
転んだときに捻ってしまったのか、折れてしまったのか。紫色になり、とても痛々しい。女児は唇を噛み締め、額には脂汗が滲んでいる。
「みんな忙しくしてるから、誰にも言えなくて。この子も、ずっと我慢してて。でも、お姉ちゃんがいたから」
「わたしを頼ってくれたのですね。ありがとうございます」
男児の頭を撫でたあと、女児と視線を合わせる。大きな瞳は、涙で潤んでいた。
「痛かったですね。もう大丈夫ですよ。すぐに治しますからね」
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